2014年7月15日火曜日

●柴田勝家(しばた かついえ)

●柴田勝家(しばた かついえ) ◆しばたかついえ【柴田勝家】 (1522~1583) 安土桃山時代の武将。尾張の人。織田信長の臣。通称,修理亮。妻お市は信長の妹。越前北ノ庄(今の福井市)に拠って北陸を支配。本能寺の変後,豊臣秀吉と対立,賤ヶ岳の戦いに敗れ,北ノ庄で自害した。   ◆柴田勝家(しばた かついえ) ????~1583  戦国武将覚書 ○権六 修理亮 ◇父:柴田土佐守義勝? 室:織田信秀女 子:柴田権六郎勝敏?、庄左衛門勝里?、長三郎勝忠? 養子:柴田(吉田)伊賀守勝豊、(佐久間)三左衛門勝政、(佐久間)勝久  斯波氏の庶流か。尾張・織田信秀に仕え、その次子信勝の家老となる。1556年信勝を擁して謀反を起こすが、信勝の兄信長に敗れる(稲生の戦い)。後に信勝を見限って信長に仕え、尾張統一、上洛等に諸戦にめざましい武勇を示し、“甕割柴田”“鬼柴田”と異名をとる。1575年には越前一向一揆を平定し、北庄城主なって、織田軍の北陸方面攻略を任される。加賀、能登を平定後、1581年越中平定戦を開始するが、翌年明智光秀に信長が殺された(本能寺の変)時、松倉城攻略中で越後・上杉軍と対峙していた為、引き返すことができず、光秀討伐に間に合わなかった。清洲会議で、烏帽子親になった信長3男信孝を擁すが、羽柴秀吉らと対立。信孝、滝川一益らと共同戦線を張り、1583年近江・賤ヶ岳で秀吉と戦うが敗走、北庄城にて城を囲まれ自刃した。   ◆柴田 勝家(しばた かついえ)http://is.gd/PSGAKY   ◆柴田勝家 勇猛果敢も温情深い武将  http://senjp.com/shibata/ 柴田氏は、柴田勝家から名が知られるようになった為、それ以前についてはほとんど不明である。  異説に勝家の父は土佐守を称していたと伝えられるが、明かではない。生年は、1522年説、1526年説、1527年説とあり、良く分かっていない。  また、柴田勝家の父は上社城主・柴田勝重だとする説があるが、はっきりとした史料はない。従って、母も不詳だ。 若いころから尾張の織田信秀の家臣として仕え、尾張愛知郡下社村を領した。   ◆三谷映画「清須会議」で再注目「柴田勝家」とは? http://is.gd/gtpWal ★★そもそも清洲会議って??下記が清洲会議の簡単な説明です★★ ①織田信長が京都で家臣の明智光秀によって討たれる(本能寺の変) ②織田家後継者及び遺領の配分を決定することを目的に、尾張国清洲城(愛知県清須市)で開催された ③会議をしたのは柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人 ④重要なことは織田一族が集まって後継者を決めたのではなく、4人にの重臣が決定し、織田一族は参加すら出来なかったことである。   ◆映画『清州会議』の主役 "柴田勝家"の魅力  http://is.gd/bWMq5z   ◆柴田 勝家   どんな人? http://is.gd/05GfaA 織田信秀・織田信勝・織田信長と、織田家に古くから仕えた武将。 特に織田信長の元で活躍し武功を立て、猛将として名を馳せた。  信長亡き後は羽柴秀吉と対立し、1583年に賤ヶ岳で決戦するも敗れ、 お市の方と共に、居城北ノ庄城で自刃した。   ◆織田 市(おだ いち) どんな人? http://is.gd/Q1iJy4 お市の方という通称でとても有名。 織田信長の妹で、「東国一の美女」とまで称された美貌の持ち主。  浅井長政・後に柴田勝家に嫁いだが、1583年、北ノ庄城落城の際に、 自害する勝家と運命を共にした。   ◆柴田氏北ノ庄城   http://is.gd/orjzMm 柴田神社(北ノ庄城址)に展示されている北ノ庄城復元模型 朝倉氏の滅亡後、越前を支配していた一向一揆を平定した功績によって、越前国北ノ庄を与えられた柴田勝家が、天正3年(1575年)に自らの縄張りによって築城を開始する。同11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに勝家が敗れ、妻・市と共に自害すると城にも火が放たれ、建造物のほぼ全てが焼失することになるが、その後も青木一矩が北ノ庄城に封じられたという記録が残っている。1601年より柴田氏の北ノ庄城の跡地に、新たに結城氏によって北ノ庄城が築城されたため、現在では柴田氏の遺構を見ることは出来ない。 平成5年(1993年)から6度にわたるの発掘調査の結果、本丸の推定位置である柴田神社の地下から、石垣の跡と思われる石が出土したが、本丸の正確な位置を完全に特定するまでには至っていない。 構造[編集]城は足羽川と吉野川(のちの百間堀)が合流した位置に築かれ、堀の一部に足羽川を使用していたと推定されており、天守は7層(一説には9層)構造で、安土城に匹敵する巨城であったと伝えられている。   ◆北ノ庄城 【きたのしょうじょう】日本の城がわかる事典の解説. 福井県福井市にあった安土桃山時代の平城(ひらじろ)。織田信長は1573年(天正1)に朝倉氏を滅亡させた後、朝倉氏旧臣の桂田長俊(前波吉継)を守護代職に任命して越前国を統治させようとしたが、長俊は1575年(天正3)に一向一揆勢により討ち取られた。この一揆勢を平定したのが信長重臣の柴田勝家で、その功績により越前国北ノ庄を与えられ、同年、自身の縄張りによる居城の築造を開始した。この勝家の居城が、織田氏の北国支配の拠点となった北ノ庄城である。9層の天守をもった巨大な城であったといわれている。1582年(天正10)、本能寺の変で信長が死去すると、勝家と明智光秀を討った羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が対立し、両者は翌1583年(天正11)に賎ヶ岳の戦いで激突した。敗れた勝家は北ノ庄城に籠城し、城に火を放って妻のお市の方(信長妹)とともに自害した。このとき、北ノ庄城の多くが失われたとされるが、その後、青木一矩が同城に封じられたという記録も残っており、どのような経緯で廃城になったかは明らかでない。関ヶ原の戦い翌年の1601年(慶長6)、福井藩(北ノ庄藩)の初代藩主となった結城秀康(家康二男)は、北ノ庄城の跡地に新たな城(福井城)を築いた。そのため、勝家時代の北ノ庄城の遺構は現存していない。また、1993年(平成5)、6次にわたる発掘調査が行われ、北ノ庄城の本丸跡といわれてきた柴田神社の境内から石垣と思われる石が出土したが、城の正確な位置も特定できていない。JR北陸本線福井駅から徒歩約10分(福井城址)。◇北庄城とも記される。   ◆越前 北庄城(北ノ庄城)http://is.gd/s7Qifq 現地の状況  北庄城といえば、柴田勝家が築城し、天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いの敗戦で羽柴秀吉軍によって攻められ落城・炎上した城が思い起こされる。  北庄城の歴史は柴田勝家の時代から遡ること更に約100年、文明年間に朝倉貞景の二男・頼景によって館が建てられた時に始まる。  しかし、朝倉頼景の館や柴田勝家の北庄城の位置は定かではない。北庄城の場合は福井城の南、約500mの柴田神社付近に石垣の根石と考えられる石が発見されたことから、柴田神社付近が本丸跡と推定されている。  現在の柴田神社は繁華街の一角にあり、まさに平城。当時信長が琵琶湖を背にした平山城の安土城を築き、家臣の明智光秀が水城の坂本城を築いた時代にあって、柴田勝家は足羽川の湿地帯を利用した地形に築いたであろうことは容易に想像がつくが、現在の地形からは窺い知ることはできない。  柴田神社の一角には、北庄城の石垣(根石)の一部が保存されており、北庄城時代の石垣は江戸期になって結城秀康による福井城築城によって取り壊されたと推定されている。   ◆北ノ庄(きたのしょう)城の戦い  http://is.gd/8i7Kxy 賤ヶ岳の合戦で羽柴秀吉に敗れた柴田勝家は、本拠である越前国北ノ庄城目指して敗走したが、秀吉はすぐに堀秀政を先鋒として柴田勢を追撃させた。賤ヶ岳の合戦の勝敗が決したのは天正11年(1583)4月21日のことであったが、秀吉はその翌日の22日には前田利家の拠る越前国府中城に入り、利家と合流している。 利家はそれまでは勝家の与力大名であったが、賤ヶ岳の合戦の最中に勝家のもとを離れ、秀吉に与することにしたのである。この北ノ庄城攻めでは、その忠誠心を試されることとなった。 北ノ庄城は福井平野の東部、足羽川流域と北陸道とが交差する要衝に位置し、九重の天守閣を持つ壮大な規模の城だった。天正3年(1575)より築城を始め、この頃でも工事途中か、完成して間もない頃といわれている。 4月23日、利家・秀政を先鋒とする羽柴勢によって北ノ庄城は完全に包囲された。このとき秀吉は、賤ヶ岳の合戦で捕えた佐久間盛政と勝家の子(養子とも)・勝敏を晒し者にして城兵の戦意を喪失させたという。 その頃になると柴田勢の兵はほんのわずかしか残っておらず、すでに死を覚悟していたようである。はじめのうちこそ城中から鉄砲が撃たれたりしていたが、やがてはそういった攻防もなくなり、城中では夜になってから最期の酒宴が開かれたという。 翌24日、早朝から羽柴勢の攻撃が開始され、午後4時頃に城に火がつけられた。その猛火の中で勝家をはじめ、その夫人であるお市の方や家臣たちが切腹し、九重の天守を持つ城は陥落、炎上して灰燼と帰したのである。 お市の方の前夫・浅井長政との間にもうけられた3人の娘は庇護され、北ノ庄城で人質となっていた前田利家の娘・麻阿も救出された。 こうして秀吉は、山崎の合戦で織田信長の弔い合戦を演じ、今また織田家の筆頭宿老であった柴田勝家を破り、信長の後継者としての地歩を固めたのである。 勝家と同盟していた織田信孝は兄の織田信雄に岐阜城を包囲され、5月2日に自刃した。また滝川一益も、所領の北伊勢5郡を差し出して秀吉に降った。これにより秀吉は近畿・北陸をその勢力下に収め、中部地方にも楔を打ち込むことに成功したのである。

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