2012年11月23日金曜日

●ようめいてんのう 【用明天皇】●聖徳太子の父にあたる

●ようめいてんのう 【用明天皇】●聖徳太子の父にあたる
★ようめいてんのう ―てんわう 【用明天皇】三省堂 大辞林
(?-587) 記紀で、第三一代天皇(在位 585-587)。橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)の漢風諡号(しごう)。欽明天皇第四皇子。聖徳太子の父。天皇の仏教受容をめぐって、物部守屋と蘇我馬子が対立した。

★用明天皇       歴代天皇事典  http://p.tl/_AcJ
父は欽明天皇。
母は蘇我稲目の娘の堅塩媛。
そして皇后には蘇我稲目の娘小姉君の子泥部穴穂部皇女を迎えた。
小姉君は堅塩媛の妹である。
その小姉君の子である泥部穴穂部皇女を皇后に迎えたのであるから、蘇我氏の権勢がいかに侮りがたいものであったかを示している。
用明は穴穂部皇女との間に厩戸・来目・殖栗・茨田の皇子をもうけ、さらに蘇我稲目の娘で皇妃の石寸名(いしきな)との間に田目皇子。
また、当麻倉首比呂(葛城直磐村)の娘飯之子との間に当麻皇子、須加手姫(酢香手姫)皇女をもうけた。
この須加手姫皇女は後に用明天皇の詔により伊勢神宮の斎宮(いつきのみや=伊勢神宮に奉仕した未婚の皇女をいう。
「神の御杖代」ともいわれた。
なお起源は、豊鍬入姫命・倭姫命とする。
)となった。
用明は即位後蘇我馬子を大臣に、物部守屋を大連とした。
蘇我馬子と物部守屋との対立は、皇后の穴穂部皇女の同母弟の穴穂部皇子の三輪君逆斬殺により深まった。
蘇我馬子は自重を促したが、物部守屋が穴穂部皇子の命により兵を率いてその命を奪ったという。
その原因は皇位を狙う穴穂部皇子が炊屋姫(後の推古天皇・豊御食炊屋姫尊)に言寄ったことが原因とされている。
用明は疱瘡の流行で患い、司馬達等の子鞍部多須奈(くらつくりのたすな)が出家して病の平癒を祈り、丈六の仏像(坂田寺の本尊が推定されている。
)を建立することを願うとある。
578年用明天皇崩御する。

★用明天皇 河内磯長原陵      歴代天皇陵一覧  http://p.tl/r-To
(ようめいてんのう こうちのしながのはらのみささぎ)
 御陵写真 陵印
■代   数  :第31代
■天 皇 名  :用明天皇
(ようめいてんのう)
■御   父  :欽明天皇
■御   母  :皇太夫人堅鹽媛
■御 陵 名  :河内磯長原陵
(こうちのしながのはらのみささぎ)
■陵   形  :方丘
■所 在 地  :大阪府南河内郡太子町大字春日
■交通機関等  :近鉄「喜志」からバス「春日口」下車  南へ0.4km
■陵印保管場所  :古市陵墓監区事務所

★用明天皇 http://p.tl/qmrM(ようめいてんのう、不明 - 用明天皇2年4月9日(587年5月21日))
 第31代天皇(在位:敏達天皇14年9月5日(585年10月3日) - 用明天皇2年4月9日(587年5月21日)
・和風謚号・異名
和風諡号は、『日本書紀』では橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)、『古事記』では橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)という。 諱は池辺皇子(いけのべのみこ)。
また、即位前の名称として大兄皇子(おおえのみこ)とも称する。
★ 『古事記』用明天皇段に「弟(おと)、橘の豊日命、池邊宮に坐しまして、天の下治らしめすこと、三歳(みとせ)なりき。この天皇、稲目(いなめ)の大臣の女、意富藝多志比売(おほぎたしひめ)を娶して、生ませる御子、多米(ため)王。(分注、一柱。)また庶妹開人穴部(ままいもはしひとのあなほべ)王を娶して、生みませる御子、上宮(うえつみや)の厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)命。(この後、四人の御子が生まれ、また比売(ひめ)を娶り、二人の御子が生まれると記す。)この天皇。(分注、丁未の年の四月十五日に崩りましき。)御陵は石寸(いわれ)の掖上(いけのうえ)にありしを、後に科長(しなが)の中の陵に遷(うつ)しき」とある。池邊宮は、奈良県磯城郡。上宮の厩戸豊聡耳命は、聖徳太子。

★用明天皇即位(585)  http://p.tl/j6UG  http://p.tl/_HOG
585年9月5日、聖徳太子の父にあたる用明天皇が即位しました。
★アヤシイ大王 用明天皇 
多少の想像を交えて生没年を書いてみましたが、生年はもとより、没年も疑おうと思えば疑えます。私的には、存在や業績がいまいち定かでない日本の古代史の人物の中でも、とってもアヤシイ度が高いです。

★用明天皇陵(ようめいてんのうりょう)  http://p.tl/6K9z
★用明天皇陵/太子町ホームページ    http://p.tl/an4L

★用明天皇(31)   http://p.tl/Msos
★用明天皇職人鑑(ようめいてんのうしょくにんかがみ) http://p.tl/dBNS
近松門左衛門が書いた人形浄瑠璃の物語。全五段。
★聖徳太子との関わり http://p.tl/TZFr
この作品は主人公のモデルとなった用明天皇が、同じく飛鳥時代の皇族である聖徳太子の父であるという逸話から、後代に伝えられた聖徳太子にまつわる伝説を取り入れているのが特徴である。

★文楽(ぶんらく) http://p.tl/Ckcb
本来操り人形浄瑠璃専門の劇場の名である。しかし、現在、文楽といえば一般に日本の伝統芸能である人形劇の人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)を指す代名詞である。文楽座の始まりは、淡路仮屋の初世植村文楽軒が「西の浜の高津新地の席」という演芸小屋を大坂高津橋南詰(大阪府大阪市中央区)に建てて、興行したのが始まりとされる。文楽成立以前の人形浄瑠璃については、浄瑠璃も参照のこと。
1955年に(人形浄瑠璃文楽座の座員により演ぜられる)文楽が文化財保護法に基づく重要無形文化財に指定された。また、ユネスコ無形文化遺産保護条約の発効以前[1]の2003年に「傑作の宣言」がなされ「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、世界無形遺産に登録されることが事実上確定していたが、2009年9月の第1回登録で正式に登録された。

★近松 門左衛門 http://p.tl/Tfrx(ちかまつ もんざえもん、近松門左衞門、1653年(承応2年) - 1725年1月6日(享保9年11月22日)
江戸時代前期の元禄期の人形浄瑠璃・歌舞伎の作者。
本名は杉森 信盛。生まれは越前国といわれる。家紋は「丸に一文字」。

★福井県鯖江市>近松の情(こころ)にふれあうまちめぐり (近松門左衛門記念碑庭園など)http://p.tl/YrtF
★福井県鯖江市>ごぞんじ!?近松門左衛門  http://p.tl/Iv9n
★広済寺と近松門左衛門  http://p.tl/hfaG
★近松門左衛門と人形浄瑠璃の奇跡 http://p.tl/ef34
★国性爺合戦(こくせんやかっせん)http://p.tl/Es4T
近松門左衛門作の人形浄瑠璃。のちに歌舞伎化 された。全五段。
★国性爺合戦(こくせんやかっせん)http://p.tl/6oYH
正徳5年 (1715) に大坂竹本座で初演 ... 物語は 実在の国姓爺こと鄭成功の生涯に沿いながらも、その結末は史実とは大幅に異なる ものとなったため、初演直前に「国姓爺」を「国性爺」と直した。
★鑓の権三重帷子 やりのごんざかさねかたびら 通称:鑓の権三 http://p.tl/ldvn
★kotobank > 鑓の権三とは  http://p.tl/2Jy8

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