●笹森 儀助(ささもり ぎすけ)●「近代科学の先駆となった」という意味で「錬金術師」と
★笹森 儀助(ささもり ぎすけ) http://p.tl/QCxy
(弘化2年1月25日(1845年3月3日) - 大正4年(1915年)9月29日)
日本の探検家、政治家、実業家。当時の日本において辺境の地であり、その実体がほとんど分かっていなかった南西諸島や千島列島を調査した他、奄美大島の島司や第2代青森市長も務めている。
また、南西諸島調査の詳細な記録である著書『南嶋探験』は、柳田國男など後の民俗学者に大きな影響を与えた。
★南北の探検 http://p.tl/NgAV
農牧社退職後の笹森は、それからの約10年間のうちに日本の周辺を数多く探検し、その記録を残すことになるが、その嚆矢となったものが、まだ農牧社社長の地位にあった1891年(明治24年)4月から6月にかけて行なった「貧旅行」と称する旅行である。これは、民党(当時は、野党のことをこう呼んでいた)が主張していた地租軽減地価修正論の是非を確かめることと、各地の生産力と生活の実態を確かめるために行なわれたものであり、近畿から九州にかけての広い地域が調査されていた。また、この旅行では、各地の史跡(例えば都農神社や能褒野王塚古墳など)について詳細な調査記録を残しており、これは現在でも資料としての有効性があると評価されている。
★『南嶋探験』の後世への影響 http://p.tl/yj4x
笹森はいくつかの著書を残しているが、その中で最も後世への影響が大きかったのは『南嶋探験』である。
その影響の例を挙げると、例えば鳥居龍蔵は同書の刊行直後(なお、この頃鳥居はまだ東京帝国大学(現・東京大学)人類学教室の標本整理係であった)、笹森に面会を求めている。また、柳田國男は『笹森儀助翁伝』(横山武夫著。今泉書店、1934年)の序文において、『南嶋探験』の影響で南島談話会(柳田、折口信夫らによる南島の研究会)が発足したと語っている。
笹森は民俗学を修めた人間ではなかったが、その著書の内容は後に言うフィールドワークの先駆的なものであり、これが柳田ら後の民俗学者に注目されるような理由であった。
柳田はこの点から笹森を「その成果が予想外の方面で利用され、近代科学の先駆となった」という意味で「錬金術師」とたとえている。
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★笹森儀助著 南島探験 in 1893 http://p.tl/rjdm
★笹森儀助と地域振興―『南嶋探験』をめぐって - 京都産業大学(Adobe PDF) http://p.tl/Eaqw
★近代沖縄の道(1879年~1945年)笹森儀助 の 南島探検 探検家が見たやんばるの生活 http://p.tl/pRgC
★「八重山島年来記」 http://p.tl/2U-l
石垣島の「宮良殿内(みやら どぅんち)」に保管されている琉球王府の記録文書
★笹森儀助――そのとき南の島々では【連載第十六回・古典篇】 http://p.tl/4y4G
★笹森儀助【ささもりぎすけ】世界大百科事典 http://p.tl/-L-9
明治時代の探検家。弘前に生まれる。元弘前藩士。1870年(明治3)官吏となり,78‐81年青森県中津軽郡長。民権派に荷担する県令に反対して退官し,翌82年より約10年間,士族授産のため岩木山麓に農牧社を経営。90年創開の帝国議会を全日傍聴,国政に失望して91年西国を巡視した。翌年千島列島探検,93年沖縄・奄美諸島を踏査して国境の防備,辺境の社会改革等を提言した。94‐98年奄美の島司。95年薩南(さつなん)の10島を視察。
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