2014年8月7日木曜日

靖国に祀られない看護婦たち - さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

靖国に祀られない看護婦たち - さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」 昭和21年の春、満州はソ連軍に占領され、新京の第八病院に勤務を命じられた服務中の看護婦に対し、城子溝にあるソ連陸軍病院・第二赤軍救護所から「3名の看護婦を応援によこせ」という命令が届きました。期間は1カ月ということだったので、優秀な3名の看護婦を選んで派遣しました。 ところが1ケ月が過ぎても看護婦は帰ってこないばかりか、さらに3名、また1カ月経って3名と要求されたのです。帰すという約束を守らないソ連軍のやり方に憤りを感じながらも、占領軍の命令とあれば致し方ないと、計9名を派遣しました。 4回目の命令で渋々ながら選考を終えた6月19日、最初に派遣された看護婦の一人が全身血まみれになって帰って来ました。 息も絶え絶え婦長に語るには、「私たちはソ連の病院に看護婦として行ったのに、看護婦としての仕事はさせてもらえず、行ったその日からソ連軍将校に犯され慰み者にされました。それも次から次へとソ連兵の”性奴隷”とされ、彼らの言動から同僚たちが次々と送られてくることを知って、居ても立ってもいられなくなり、鉄条網で皮膚が割かれるのも、歩哨に銃で撃たれるのもいとわず、命懸けで報告に帰って来ました」と言い、最後に「婦長さん、もう人を送ってはなりません」と言って、ついに息絶えました。 その翌日、満州のしきたりに従って土葬とし、髪の毛と爪を遺骨代わりに箱に納めて、故人には懐かしい看護婦室に安置し、花と水を供えて、残った看護婦達と夜遅くまで思い出話をしていました。 ところが翌日の朝9時を過ぎても看護婦が誰も出勤してこないので、婦長さんが看護婦室に入ってみたところ、22名の看護婦全員が制服制帽を付けて、一人一人遺書を残して亡くなっていました。 遺 書 二十二名の私たちが自分の手で命を断ちますこと 軍医部長はじめ婦長にもさぞかし御迷惑と深くお詫び申し上げます。 私たちは敗れたりとは云えかつての敵国人に犯されるよりは死を選びます。 たとえ命はなくなっても 魂は永久に満州の地に留まり  日本が再びこの地に還って来る時、ご案内致します。 昭和21年6月21日 散華 旧満州新京(現長春) 通化路第八紅軍病院 荒川さつき 大島花枝 川端しづ 相楽みさえ 澤本かなえ 杉まり子  垂水よし子 林千代 細川たか子 吉川芳子 池本公代 稲川よしみ  大塚てる 五戸久 澤口一子 三戸はるみ 杉永はる 中村三好 林律子  森本千代 渡部静子 石川貞子 井上つるみ 柿沼昌子 沢口千恵子  沢田八重 柴田ちよ 田村馨 服部律子 古内喜美子 山崎とき子 後の情報で、ソ連軍の将校に犯された看護婦たちは皆、国際梅毒に罹患していたことが判明しました。 その後、ソ連軍は引き揚げて、新京は支那の八路軍の支配下に入り、昭和23年9月に帰国命令が出て、堀喜身子婦長は幼い子供二人と報告のため逃げ帰って亡くなった1名を含めた23名の御遺骨とともに、やっとの思いで帰国しました。 御遺骨はご主人の菩提寺である山口県徳山市のお寺に預かってもらいました。喜身子婦長は母親の住む北海道帯広市の病院で働き、後には静岡県清水市の病院で看護婦として働きました。喜身子婦長の願いは、連れて帰った23名の御遺骨を顕彰するために地蔵菩提をつくりたいということでした。 昭和27年、埼玉県大宮市に財団法人青葉園という公園墓地が出来ました。この開設者は元陸軍大尉で、山下奉文大将の副官をしていた吉田亀治さんです。園内には山下大将の墓が設けられたり、青葉神社が建立されました。 ちょうど同じ頃、浪曲師の松岡寛が週刊誌に「22名の日赤看護婦の集団自決」の話が載っていることを知って感激し、喜身子さんを探し当て、意気投合し、浪曲師として残りの半生を集団自決の日赤看護婦の語り部として過ごすことを決意し、公演を続ける中に、時には遺族が名乗り出て御遺骨の一部を返すことも出来ました。 大宮での一座の公演で、吉田亀治理事長は二人から話を聞いて、直ちに彼女たちのために地蔵菩提をつくることを決意し、「青葉慈蔵尊」という若くして散った乙女らを弔うにふさわしい名がつけられました。

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