2014年8月27日水曜日

昨日のフィールドワークにて、大学の教授との話。

昨日のフィールドワークにて、大学の教授との話。 手登根 安則 表現の自由について討論となりました。 教授いわく、「表現の自由という点において、フェンスにテープを貼ることは許されていいのではないだろうか、これは最高裁でも判決が出ていることであり・・・」 私は、「表現の自由というものは、法律及び社会的規範の範囲内で認められるべきであり、それを無条件で認めるのなら、反戦平和は免罪符となる、それがこの現状だ」と切り返しました。 それでも彼は、「テープを貼るというのは意思表示であり、汚しているのとは違う、また張った側が剥がすというのなら認められても・・」 私はこう答えました。 「貼った側は確かに剥がしますと新聞で意思表明をしております、しかしそれは普天間基地が撤去されたときに、という条件つきです、基地が移設されるまでの何年、十何年もの間、このテープを貼ったままにしておくのですか?表現の自由とはそんなものなのですか?」 残念ですが、彼の心の中には「貼る側」へ寄り添いたいという気持ちが見え隠れしておりました。 反対派は常に攻撃すべき対象を求め続けています。 それがなければ、自らの存在を保てないのでしょうか? 野嵩ゲートでは、フンエスクリーンプロジェクトを 大山ゲートでは、ハートクリーンプロジェクトを 辺野古では「海保」が彼等の「敵」として、マスコミ総出で攻撃を繰り返しています。 抗議活動のためなら、規制線の内側にカヌーを乗り入れていいのか? それこそ問題にすべき点ですが、沖縄メディアは反対派にべったりと寄り添った報道を繰り返しております。 死亡広告なら数十万もとるスペースを「辺野古ドキュメント」として毎日掲載。 むろん、活動家のためですので無料掲載でしょう。 「首や顔を押さえつけられ、繰り返し海中に沈められた」 法を守らない者の戯言を、裏もとらず平気で掲載し続ける沖縄の新聞。 何度も踊る「市民」という文字。 メディアそのものが反対派の一部と化したいま、沖縄県民は真実をどう見極めるかが問われているのだと思います。

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