2014年8月24日日曜日
・文化や歴史の継承
・文化や歴史の継承
【源氏物語について】で
紫さんのコメントで
この時代の定家をはじめ家隆や西行、その他の人達が和歌や古典文学を残してくれていなければ後の江戸時代の国学研究にももしかしたら繋がらなかったかも知れない、現代にも残っていなかったかもしれないと思うと感慨深いです。
と書かれているように色んな時代で我々の先祖が苦労して縦糸を繕い横糸を通してくれた
人たちのおかげで今の文化や歴史がある。
和歌から始まったモノが短歌や俳句として形を変えながら又現代につなげている。
自由律というモノがある。
--------------------------------------------------------------------------------
俳句
明治後期、河東碧梧桐が新傾向俳句を創作したことに始まる。明治44年(1911年)に荻原井泉水が俳誌『層雲』を主宰し確立された。当初、碧梧桐も層雲に加わっていたがのち離脱した。
大正時代になると自由律俳句を代表する俳人として『層雲』より尾崎放哉、種田山頭火が登場する。一方、層雲を離脱した碧梧桐は大正4年(1915年)、俳誌『海紅』を主宰。中塚一碧楼がこれを継ぎ自由律俳句のもう一つの柱となった。尚、この一碧楼が自由律俳句の創始者とする見方もある。しかしながら、自由律俳句は放哉、山頭火の活躍した1920年代以降衰退している。
昭和初年から興ったプロレタリア俳句運動では、栗林一石路などが、自由律俳句の可能性も追求した。その流れは、戦後発足した新俳句人連盟に参加する俳人のなかにも受け継がれ至る。
1970年代あたりから、山頭火がクローズアップされ自由律俳句の再評価がなされている。1980年代に、放哉に影響を受けた夭折の俳人住宅顕信が登場した。
短歌
大正13年(1924年)に、石原純の発表した歌が、歌壇において注目を集めた自由律の最初であろう。石原純は、その後、自由律短歌論を展開。やがて、この名称を定着させた。石原の自由律短歌は旧来の文語体ではなく口語体を採用していたため、自由律短歌はそのまま口語短歌運動と結び付き、口語自由律短歌として発展してゆく。
昭和時代になると、金子薫園、土岐善麿、前田夕暮も参加し、口語自由律短歌は興隆期を迎える。特に、前田夕暮は、主宰する結社全誌をあげて自由律を提唱し、自由律短歌集を次々と刊行して、口語自由律短歌の代表作を残した。
しかし、昭和10年代半ばには、全員、定型歌に復帰している。
昭和末期、ライトヴァース短歌と呼ばれた、加藤治郎、荻原裕幸、穂村弘らが発表した、記号短歌や、散文に近い、字余り・字足らずの多い短歌群は、昭和初期の口語自由律に通じるものとも言えよう。
ウィキペディアより
--------------------------------------------------------------------------------
明治後期より始まったこの流れの中で尾崎放哉や種田山頭火などが出てきて自由律俳句を生み出した。
--------------------------------------------------------------------------------
自由律俳句(じゆうりつはいく)とは、五七五の定型俳句や五七五七七の定型短歌に対し、音数にとらわれない主張、またはその作品をいう。
俳句では季語にも縛られず、心の動きをそのまま自由に、かつ自然に表現するとする主張もあるが、通常は一句一律、内容に即した律を持つという主張である。これを内在律ともいう。 文語や「~たり」「~けり」「~かな」などの古典的な言葉遣いを避け、現代口語で表現するということも特徴の一つである。
ウィキペディアより
--------------------------------------------------------------------------------
現代では当たり前に使われる技法である。
--------------------------------------------------------------------------------
尾崎放哉代表句
放哉句碑(鳥取市興禅寺)有名な句を以下に挙げる。
咳をしても一人
墓のうらに廻る
足のうら洗えば白くなる
肉がやせてくる太い骨である
いれものがない両手でうける
考えごとをしている田螺が歩いている
こんなよい月を一人で見て寝る
一人の道が暮れて来た
春の山のうしろから烟が出だした(辞世)
--------------------------------------------------------------------------------
山頭火 代表句
酔うてこほろぎと寝ていたよ
鴉啼いてわたしも一人
鈴をふりふりお四国の土になるべく
霧島は霧にかくれて赤とんぼ
まつすぐな道でさみしい
また見ることもない山が遠ざかる
分け入つても分け入つても青い山
鉄鉢の中へも霰
生死の中の雪ふりしきる
おちついて死ねそうな草萌ゆる
(出典「草木塔」「俳句検索」)
--------------------------------------------------------------------------------
私の大好きな句で【分け入つても分け入つても青い山】
この句は見る度に読む度に悠久の世界に引き込まれていく。
最所に知ったときはすごい衝撃であった。
俳句もまともに詠めない男なのにこの句にだけは感じるモノが胸に迫る思いがした。
--------------------------------------------------------------------------------
山頭火
http://www.youtube.com/watch?v=RX00Xp4ZZNQ&feature=player_embedded
饂飩供えて
http://www.youtube.com/watch?v=jmiZRy6K7j0&feature=related
種田 山頭火(たねだ さんとうか、1882年(明治15年)12月3日 - 1940年(昭和15年)10月11日)は、戦前日本の俳人。よく山頭火と呼ばれる。自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝(こうほ)と改名。本名・種田正一。
--------------------------------------------------------------------------------
フォト俳句「尾崎放哉」 工房ムーンライト
http://www.youtube.com/watch?v=tf4PmCEyYqg
水城ゆう「He Never Sleeps」〜尾崎放哉自由句/朗読:野々宮卯妙
http://www.youtube.com/watch?v=P2-C_OzGfls
尾崎 放哉(おざき ほうさい、本名: 尾崎 秀雄(おざき ひでお)、1885年(明治18年)1月20日 - 1926年(大正15年)4月7日)は、日本の俳人。種田山頭火らとならぶ自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人。
--------------------------------------------------------------------------------
その時代時代に併せて変えてきたのが日本の文化であり歴史であった。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿