2014年8月22日金曜日

●たな

●たな ◆たな 【店・棚】 〔「みせだな(店棚)」の略〕 ① 棚に商品を並べて販売する場所。見せ棚。みせ。 ② 商家。特に奉公人や出入りの職人などが,その商家をさしていう。おたな。 ③ 借家。 「たな子」    ・・・・・・・・・・ ・たな 【棚】 ① 物をのせるために,水平に張り渡したり,吊ったりした板。 「たなを吊る」 ② 内部に物をのせるための,何枚かの水平な板をはった箱状のもの。 「書たな」 「食器だな」 ③ つる性の植物をはわせるために,竹などを粗く組んで,支柱などに取りつけて高く張り渡したもの。 「藤だな」 「ぶどうだな」 ④ 「棚物」の略。 ⑤ 船棚。 ⑥ 傾斜をなす地形で,階段状になっている部分。 ⑦ 大陸棚。 ⑧ 登山用語。岩壁で,一人立てるくらいの平らな部分。テラス。 ⑨ 魚の遊泳層。 「たなを探る」 ⑩ 薪炭・パルプなどを積み上げた体積の単位。高さ六尺・幅六尺・奥行三尺,すなわち一〇八立方尺,または高さ五尺・幅一〇尺・奥行二尺,すなわち一〇〇立方尺を一棚という。 [句]棚から牡丹餅 ・ 棚に上げる ・ 棚の物を取って来るよう    ・・・・・・・・・・ ・た な 【田菜】 タンポポの古名。 〔本草和名〕    ・・・・・・・・・・ ・たな ( 接頭 ) 動詞に付いて,すっかり,ことごとく,十分になどの意を添える。「―知る」「―曇る」など。   ◆棚    ダイビング用語集 読み方:たな 岩場などの、水面に近い平らになっている部分。最低でも人が泳ぎまわれる程度以上の広さを持つものを言う。   ◆棚    隠語大辞典 読み方:たな 1.質屋。或は風呂屋の番台をいふ。 2.⑴店家のこと。⑵貸家、借家のこと。⑶職人の得意先。 3.質屋或いは風呂屋の番台のこと。    ・・・・・・・・・・ ・棚 読み方:たな 1.万引窃盗犯-本類「まんびき」参照。〔第三類 犯罪行為〕 2.万引のことを云ふ。 3.万引のこと。「たなかい」「たなし」と同意。    ・・・・・・・・・・ ・棚 読み方:たな 湯屋見張番台。〔第五類 一般建物〕    ・・・・・・・・・・ ・棚 読み方:たな 1.質屋。〔第五類 一般建物〕 2.質屋のことをいふ。〔犯罪語〕 3.〔犯〕質屋のこと。「グニヤ」「一六屋」「七つ屋」「置場」に同じ。 分類 犯、犯罪語   ◆姓   読み方  丹   たな  田名  たな   ◆棚(たな)  http://urx.nu/bf6c 主に収納を目的した構造物、あるいは家具。究極的には上にものが置ける棚板のことである。なお、前面に扉をつけた構造物または家具を戸棚(とだな)という。家具のみならず、商品陳列に用いられる棚もある(後述)。 棚板を壁に取り付けたり、組み合わせて家具を作る。本棚、食器棚、蔓棚(パーゴラ)など様々な棚が存在している。日本語では、主にオフィス家具や什器としての棚のことは英語風にラックとも呼ぶ(正確には「棚」に対応するのは"shelf"(シェルフ)である。ラック(rack)は、棚を取り付ける「架」である)。「移動可能な棚」と「壁設置式の棚」とに分類される(後者に書院造の「床脇棚」がある)。 こうした実用具としての棚以外にも宗教面で用いられる「神棚」(江戸時代以降に登場)や「閼伽棚」もある。 現代では棚の利用法は多様化しており、本棚であっても本を収納せず、集めたフィギュア(人形)コレクションなどの玩具を飾るといった利用法や博物館でいえば資料・標本・遺物・レプリカといった多目的なもの(見学物・実験物)を載せ、来客に見せ、理解を深めることを目的とする場合もある。博物館で用いられる棚は家具というより商品を陳列する「見世棚(みせだな)」と同様、「見せる為の棚」である(民具・家具を載せた棚もある)。博物館で用いられる棚では、ものを永く大衆に見せる為、ものを保護する必要があり、防犯対策や天災対策という観点も含めて、ガラスケースで覆われている場合がある(これは貴金属や宝石を載せる棚でも見られる)。形状も多様で、見せるものに合わせて、円柱状の棚が用いられる場合もある。また、台上に品物を載せるという意味では、屋台で用いられる台も広義では棚である   ◆日本における歴史 古くは、垂仁紀(4世紀)に「板挙、これをば拕儺(タナ)と云ふ」と記述されており、古代から言葉に変化はない。 平安貴族の什器=日用家具の一つとして、下段に両開きの扉が付いた棚である「二階厨子(ずし)」があり、上に「唾壺(だこ)」(唾を吐き入れる器)などを置いた。また、「二階棚」も貴族にとって必需品であり、上に「半挿(はんぞう)」(湯や水を注ぐ器)を置いた。このように、平安期における棚は、器を置くものであった。 鎌倉時代になり、武家社会において書院造が登場し、南北朝から室町期に整えられていく過程で、床の間と共にその脇壁に設置された「違い棚」(「床脇棚」の一つ)が登場する事となる(壁設置式の棚)。江戸期では、客に合わせ、この違い棚にその人が好みそうな本などを置いてもてなした(古くは、上段と下段では置く物が決められていた)。近世江戸期に登場する「神棚」も分類的には、壁設置式の棚である。 「床脇棚」のような壁設置式棚の利点として、地震が起きた際、本棚のように人に向かって倒れたり、人めがけてぶつかって来るといった凶器とならない点があり、欠点としては、重量が大きいものは載せられないという点がある(棚下の空間を確保するその構造上、中腹部に脚立といった支えるものがない為)。 草庵の形式として、部屋の外に設置する「閼伽棚」が存在する(神棚と同様、宗教で用いられる棚であるが、神棚が部屋内に対し、閼伽棚は外に設置される)。 近代法制の成立によって、現在ではほとんど用いられなくなった棚もあり、一例として、「冠棚」がある。冠棚とは、元服時にかぶせられる冠を置く棚(日本では烏帽子が用いられたため、実質、「帽子棚」)をいうが、近代以降、成人の定義を法的に定めたため、元服の文化自体がなくなり、冠棚の言葉自体、用いられなくなった(一部、行事で烏帽子が用いられる)。   ◆画期的だった日本の「見世棚」商法 商店において、道側に陳列台を造り、その上に品物(売り物)を載せ、道行く人に売る方法があるが、この陳列台を「見世棚(みせだな)」という。言葉自体は鎌倉時代末頃より登場し、それは台を高くして「見せる」から「見世」となり、室町期になり、「店」となった。この見世棚を用いた商法は、当時の中国・朝鮮にはあまり見られず、永享年間(15世紀初めから中頃)に来日した朝鮮通信使の朴瑞生(ぼくずいせい)が京都の町の様子を見聞した際の報告として、「日本の市の人々は店の軒に板を使って壇を設け、物を売るから塵にまみれず、買う人も見やすい。我が朝鮮の市では魚肉などの食物も地面に置いて売っている。日本の風にならって改良したいものだ」と見世棚について感心したことが記述されている。このことからも中世の日本において登場した見世棚が衛生上と商業上の両面で東アジア各国から見ても画期的だったことがわかる。以降、現代に至るまで、商品陳列に棚は欠かせない存在となっている。 近世では見世棚に関連した句も書かれており、松尾芭蕉の『薦獅子(すすめじし)』(冬)では、「塩鯛の 歯ぐきも寒し 魚(うお)の店(たな)」の一句が例。   ◆棚に由来する神名 8世紀の『万葉集』巻10・2029番にも記される「織姫(たなばたつめ=はたおりひめ・おりひめ)」は、「棚機津女」とも記すが、その由来は、水辺に掛け造りした棚の上で、聖なる来訪者=神(孫星)を待って機を織っている婦人からきたという説があり、古代から機織りのために水辺で棚が作られ、用いられていたと考えられている。 この棚の解釈については、棚状の建物(巨棚)の上で、神の嫁となる神聖な女性が神が訪れるのを待つ「水神の祭り」が源流であったとする説もあり、日本古来の宗教行事と棚が深く繋がっていたことを示す。『古事記』に記載される足一騰宮(東征以前の神武帝をむかえるために築かれた宮)の構造についても、『古事記伝』の解釈に従うなら、棚に似た形式であり、ウサツヒコがこの宮=巨棚を建てたのは、神を祀る形式であり、カムヤマトイワレヒコを神として迎えいれ、もてなしたことになる。このように古代日本では、海・河・池などの水辺に「棚造り」の建物を築いていたと想定される(祀る形式としては社より古いことになる)。   ◆袋棚(ふくろだな)  http://urx.nu/bf6x 主に2枚ないし4枚の引違戸(袋戸と呼ぶ。多くは襖である)がつけられた比較的小さな収納棚。高さに乏しい反面、横幅または奥行きを持つ。戸(袋戸)が付けられていることから「袋戸棚(ふくろとだな)」とも呼ぶ。多くは床の間の床脇に違い棚と組み合わせて造付けられるほか、押入れの上部収納や仏壇下の仏具収納としても造付けられる。 また、箪笥などの収納家具や、茶席や香席で用いる置き棚(茶棚、香棚)には袋棚が付いている場合が多く、茶席では茶花を入れる花入れや棗 (茶器)の収納などに(利休袋棚)、香席では香を入れた香袋や香道具の収納などに用いられる(志野袋棚、四季棚)。   ◆天袋(てんぶくろ)とは天井側にある袋棚。床の間の床脇棚として用いられるほか、押入れ上部の小収納としても多く用いられる。床脇棚の場合はふつう4枚引違戸が用いられ、押入れの上部収納としてはおもに2枚引き違い戸が用いられる。ただし、押入れに付随して作り付けられる場合は押入れ引違戸数に合わせて袋戸の数が変わる(大広間などで押入れが4枚戸なら袋戸も4枚。4畳半部屋など狭い部屋で片開き戸の押入れなら袋戸も片開き。押入れ戸数と袋戸数が違うことはまず無い)。近年では押入れの収納部分が袋戸裏まで広く造られている場合もあり、袋戸が飾り戸の役目(袋戸を開けてもすぐ壁になっている)になっているものもある。   ◆地袋(じぶくろ、ちぶくろ)とは床側にある袋棚。床の間の床脇棚として用いられるほか、仏間において仏壇の下に仏具収納として造付けられている場合が多い。仏壇下の場合、仏壇が観音開き(両開戸)であることから地袋も観音開きの袋戸が多くもうけられているが、2枚引違戸や片開戸(1枚戸)の場合もある。なお、全日本宗教用具協同組合によると、給仕がしづらいことから地袋はあまり造らないほうがよいとしており、また、仏間の上には不浄なものを避けるべきとして天袋は造らないほうがよいとしている。 そのほか、日本家屋において上層階にある部屋(2階以上の部屋)の場合、切妻や入母屋では屋根裏の有効利用として地袋を造りつけることも多い。   ◆戸袋(とぶくろ)  http://urx.nu/bf6I 引き戸において、戸を開けたときに戸が収納される場所のことである。部屋の外側からも内側からも戸をあけた状態では戸が見えない、名前のとおりの袋状であることが多いが、部屋の内側からは戸が見える簡易なものもある。引き戸と同じ仕組みの窓をあけたときの収納場所も戸袋という。   ◆戸袋の目的 扉や窓を開けた際の収納箇所となる。建築物では開けられた扉や窓を隠す見栄えの面から、車輌ではそれに加え、混雑時の開閉の際、車体の内外の乗客や構造物に干渉しない点も重視されている。ただし、自動ドアなどでは、開動作時の引き込まれ事故への対策は必要となる。   ◆神棚(かみだな)   http://urx.nu/bf6X 家や事務所などにおいて主に神道の神をまつるための棚である。 なお、神仏習合となっている神棚もある。   ◆種類 神棚には3種類ある。一般的にみられるのは小型の神社を摸した宮形(みやがた)の中に伊勢神宮や氏神、信仰する神の神札(お札)を入れるもので、これは札宮(ふだみや)といい、狭義にはこれを神棚と呼ぶ。神職の家など神式で葬儀を行う家には、仏教の仏壇に相当する祖先の霊をまつるための神棚があり、これは御霊舎(みたまや)という。 他に、神札よりも神の依り代としての意味合いが強い「御神体」をまつる神棚もある。その場合は神棚ではなく「御神体」を授与した神社の分社とみなすほうが自然だ、とする考え方もある。以下、札宮(狭義の神棚)について説明する。   ◆構造 種類 ・箱組神棚 ・桧皮葺神棚 ・茅葺神棚 ・板葺神棚   ◆一社造りと三社造り[編集]神棚は一般には扉が一枚の“一社造り”と三枚の“三社造り”とが普及している。 ・一社造り 一番手前に“伊勢神宮”のお札(天照大神)を祀り、その後ろに“氏神様”(厳密に言えば在住所を管轄する鎮守神を差す)と“その他の神様(崇敬神社)”のお札を納める。 ・三社造り 中央(最上位)に“伊勢神宮”、向かって右に“氏神様”、左に“その他の神様”をお祀りする形式。つまり、一社造りで後ろにあった氏神様とその他の神様が左右に来た造り。 主に、お札の枚数が一枚の時には一社造りで、2~3枚の時には三社造りと言う風に使い分けられる。   ◆設置場所 神棚は、できるだけ明るく清浄な場所の、最上階(または上に上階の床のない箇所)の天井近くに南向きまたは東向きに設置するのが良いとされる。最上階への設置が困難な場合があるため「雲板」や「雲文字」が用いられる。「雲板」は神棚を設置する神棚板の上部に取り付けられている雲形に彫刻されている部材である。また、「雲文字」は「雲」、「天」、「空」の木製の抜き文字あるいは紙製の書き文字を天井部分に取り付けるものである (注:下記も参照のこと)。設置場所がなくやむを得ずタンスの上にまつる場合は白い布か白い紙を敷いて神札を置くのが望ましいが、トイレと背中合わせになる場所や、人の出入りが激しい扉の上などは避けなければいけないと言われている。それ以外にも同じ部屋で神棚と仏壇の向かい合わせの設置は好ましくないとされている。   ◆神具 神棚の正面には神鏡、左右に榊を立てた榊立て、灯明を配し、神棚の前方に注連縄をかける[5]。このほか真榊(まさかき、ミニチュア)、雄蝶・雌蝶といった御酒口(ミキグチ)をあつらえた飾り徳利(多くは九谷焼風)、御幣(金幣)などが神具セットに含まれている場合があり、ほかにも各家庭でさまざまな縁起物(破魔矢、熊手など)が飾られている例が珍しくない。 なお、神鏡を置く理由は諸説あり、神は鏡のようにあるがままを見通すものであるとか、あるいは鏡のように見る人によって違って見えるものであるから、そのつもりで神の前に立てという意味であるという説や、自らの中にある神性と向き合えという意味であるとする説、あるいは鏡は太陽の光を反射するように、神の光を映すものであるとする説、などがある。   ◆神饌(お供え) 神饌(お供え)としては、洗米(またはご飯)、塩、水、酒が基本であるがそのほか、青果物、生魚、干物、菓子類などが供えられる。米、塩、水は毎朝、酒及び榊は月に2度(通常は1日と15日、ほかに祀っている神札の祭神にゆかりの日)新しいものと取り換えるのがよいとされている。ほかに、合格通知や祝物の熨斗紙などが捧げられる場合もある。 神饌の置き方は、米・塩・水の場合、向かって左から水・米・塩、向かって左から水・塩、2列目に米とする。米・塩・水・酒の場合、向かって左から水・酒・米・塩、もしくは向かって左から水・塩、2列目に酒・米、向かって左から水・塩、2列目に酒・酒、3列目に米とする[5]。 また、本来神道に魚や鳥以外に四足の獣を備えてはいけないという決まりは無い。その証拠に君津市の諏訪神社では「猪鹿切り祭」で獣肉を備える神事がある。 神へ供えた食べ物は後で「お下がり」としていただくようにする。   ◆拝礼 神饌を供えたら家族そろって日ごろの神の加護を感謝し、これからの安全と幸福を祈るのが望ましいが、これができない場合は各自外出前に祈ってもよい[2]。神社本庁が推奨する神棚への拝礼方法は神社と同様「二礼二拍手一礼」であるが[2]、「二礼四拍手一礼」などさまざまな流儀がある。また、「神棚拝詞」という祝詞を唱えるのも良いとされている[6]。神職でなくとも良い(神職を呼ぶ際は宅神祭と呼ばれる)。 ・神棚拝詞 此の神床に坐す 掛けまくも畏き 天照大御神 産土大神等の大前を 拝み奉りて 恐み恐みも白さく 大神等の広き厚き御恵を 辱み奉り 高き尊き神教のまにまに 直き正しき 真心もちて 誠の道に違ふことなく 負ひ持つ業に励ましめ給ひ 家門高く 身健に 世のため人のために尽さしめ給へと 恐み恐みも白す   (読み) これのかむどこにます かけまくもかしこき あまてらすおおみかみ うぶすなのおおかみたちのおおまえを おろがみまつりて かしこみかしこみももうさく おおかみたちのひろきあつきみめぐみを かたじけなみまつり たかきとうときみおしえのまにまに なおきただしき まごころもちて まことのみちにたがうことなく おいもつわざにはげましめたまい いえかどたかく みすこやかに よのためひとのためにつくさしめたまえと かしこみかしこみももうす   ◆拝礼の順序 一般的な、神棚を拝する順序を以下に示す[7]。 ① 神前に進んで軽く会釈 ② 深いお辞儀を二度 ③ 拍手を二度 ④ 深いお辞儀を一度 ⑤ 会釈して退く お参りをする前には洗面し、口を漱ぎ、お供えをしてあることが適当である。祝詞を奏上する場合は、深揖→二礼(再拝)→祝詞奏上→二礼二拍手一礼である。   ◆武道道場の神棚[編集]現代の武道の道場にはよく神棚が祀られているが、江戸時代の道場は神棚ではなく、『日本書紀』や『古事記』など日本神話から「剣の神、武の神」とされた「鹿島大明神」(武甕槌神)と「香取大明神」(経津主神)の二柱の神名、さらに幕末期には尊皇攘夷思想の高まりとともに「天照皇大神宮」(天照大神)を中央に加えた三柱の神名を書いた掛け軸が床にかける神床であった。 道場に神棚が祀られるようになったのは明治時代以降の国家神道の影響である。1936年(昭和11年)、文部省主催の体育運動主事会議において、「道場ニハ神棚ヲ設クルコト」という答申が行われ、学校の道場への神棚設置が義務化された[9]。その下に日章旗が掲揚され、稽古の際に神拝が行われるようになった。 第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部が学校教育への武道を禁止し、1946年(昭和21年)1月12日に大日本武徳会理事長藤沼庄平から都道府県支部長宛に「神殿、神棚等撤廃ニ関スル件」が発せられ、神棚は撤去された。ただし現代においても一部の国公立校、多くの私立校では神棚が祀られている。 ・祀り方などの相違点 神棚の祀り方においては、細部まで完全に統一された形式というのは存在しない。たとえば、神札は神の依代であり、神を直接見るのは畏れおおいとする神道の考え方に従って、神棚の扉を常時閉めておくべきと主張する人もいれば、神札は神とその人(家)との絆であるから、逆に常時開けておくべきと主張する人もいる。 また、一宮形の神棚においては、通常、神札は前から伊勢神宮の札を重ねて入れるのが良いとされるが、たとえば春日大社などは逆に、伊勢神宮の札を奥にするのが良いとしている。 神棚の上部前面に雲の形の板を取り付けるまつり方もある。これらの形式の細かい点においては、産土神社などにおいて尋ねて確認するのが良いとされるが、心がこもっていればいかなる形式でも良い、とする考え方もある。 最近は、神棚の形も自由でよいという考え方から、例えば埼玉県神社庁は『未来の神棚デザインコンテスト』を開いている。 仏教(主に真言宗)でも御札は神棚に祀る。その場合、神道の神札とは別けて祀る場合と、同時に祀る場合が存在し、祀る順番も合わせて厳密な決まりは無い(高野山真言宗の場合) ・神棚の歴史 神棚が日本の歴史に登場するのは、中世江戸時代中期頃である。もともと神道では神とは常在のものでは無く、人が祀る時に初めて現れるものとされる為、神の常在を前提とした神棚の成立はそう古いものでは無く、古代日本には神棚は存在しない。 江戸時代には伊勢神宮や富士に参詣する事が観光旅行として庶民に広まっており、この時、旅行案内人としての役割を担った存在に御師(おし)がある。御師は身分的には百姓と神職の中間に位置づけられて、全国にお神札(ふだ)を配布しながら伊勢神宮への信仰を勧めた。信仰を勧める戦略の一つとして、御師は大神宮棚というものを考案する。 これは伊勢神宮のお神札を家庭で祀ることの出来る物であり、これが今で言う神棚に当たる。神棚が各地の神社の御師によって広められることで、やがて庶民の間に、神道上の慣習として定着するようになった。

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