2014年8月25日月曜日
●源氏物語について
●源氏物語について
・源氏物語 千年の謎
https://www.youtube.com/watch?v=aqiLHI7EZgE
気になり面白そうなので紐解いてみると
島内景二 という人が
藤原定家という人が居たために残ったと。
藤原定家(1162~1241)達の努力で確立した。
当時 原本が書かれて二百年たっていた。
何度も書き写される内に本文は本文は混乱していた。
本文を構成した定家こそ源氏物語を現代まで伝えた最所の恩人であると。
昨年 京都で別の写本の源氏物語が発見されたと聞く。
日本の古典は全て紙に書かれているから二百年も時間が経てば虫喰いが始まる。
それを写本して残してきた。
写本家のインスピレーションや想像力で写し続けられてきている。
写本家の力量や教養の高さが伺える。
たとえ政治や経済 法制度が一変したとしても命を繋いできたモノがある。
それが歴史であり文化である。
この国はハタの横糸の繋がりはきついけれども縦糸の時代の繋がりもきつく
シッカリと折り重ねられてきた。
一つ一つの話しは独立していながら上手く絡み合い織りなされている。
良いことを今回 勉強させて貰った。
日本人すばらしいね。
藤原定家
鎌倉初期の歌人。父は千載和歌集を撰進した歌人藤原俊成。幼少の頃から父に歌の指導を受け、また西行法師や平忠度らと親交を持ち、天性の歌心に磨きをかける。1178年、16歳で初めて歌合(うたあわせ、和歌バトル)に参加。1180年(18歳)、源氏が挙兵し源平の争乱が勃発。この年から定家は日記『明月記』を73歳まで56年にわたって書きつづる。その最初の年にこう刻んだ「世上乱逆追討耳ニ満ツトモ、之ヲ注ゼズ。紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」。“世間では反乱者(平家)を追討せよなどと騒いでいるが、そんな事はどうだっていい。紅旗(朝廷の旗)を掲げて戦争しようが、俺の知ったこっちゃない”。若き定家は、愛する和歌の世界を究める為、孤高に我が道を行くと宣言しているんだ。翌年、その言葉の通りに19歳で『初学百首』を、20歳で『堀河題百首』を詠んだ。その内容の素晴らしさに、父・俊成は感涙にむせんだという。
定家は天才型に多い直情タイプの性格で、歌人にあって血の気が多く、1185年(23歳)、宮中で少将源雅行に侮辱されて殴りかかり、官職から追放されるという事件を起こす(父の奔走で3ヵ月後に許された)。同年、平家が壇ノ浦で滅亡。天下の変動に目もくれず創作に打ち込んでいたが、定家の歌風は禅問答のように難解と、世間から「達磨(だるま)歌」と非難された。彼はそれに屈せず、24歳の時に西行から勧められて『二見浦(ふたみがうら)百首』を詠み、そこに名歌「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕暮」(花も紅葉も何もなく秋の夕暮れに沈む海岸の漁師小屋)を収めた。
1188年(26歳)、父の手による『千載集』に8首を採用される。ますます歌道に精進し、政界の実力者九条家に出仕するようになって順調に官位を上げ、また九条家の歌人グループと親交を深めるにつれ定家への誹謗は消えていった。1193年(31歳)に『六百番歌合』で詠んだ百首は、中から35首も新古今集に採用された。34歳の『韻歌百二十八首』では「旅人の袖吹き返す秋風に夕日さびしき山の梯(かけはし)」(夕日が照らす寂しい山の架け橋を、旅人が秋風に袖を吹かれながら渡って行く)、「行き悩む牛の歩みに立つ塵の風さへ熱き夏の小車」などと詠んだ。この冬、源通親のクーデターにより九条家は失脚、定家も出世の夢は消え、貧乏かつ病気がちになる。36歳、『仁和寺宮五十首』で「大空は梅の匂いにかすみつつ曇りもはてぬ春の夜の月」(大空が梅の香りと霞に満ちる春の夜のおぼろ月)、「春の夜の夢のうき橋とだえして嶺にわかるる横雲の空」(春の夜に浮き橋の如く儚い恋の夢から目覚めると、たなびく雲も山の峰から別れていくところだった)を詠む。同年息子の為家が誕生。
1200年(38歳)、不遇な現状を打破すべく、和歌を愛する後鳥羽院の目にとまろうと精力を傾けて『院初度百首』を詠み「駒とめて袖うちはらふ陰もなし佐野の渡りの雪の夕暮」(馬をとめ袖に降り積もった雪を振り払う物陰もない、佐野の渡し場の雪の夕暮れよ)を収めた。果たして後鳥羽院はこれを絶賛、宮廷への出入りを即日許された。かつては九条家の歌人だったが、ついに宮廷歌人となったのだ。この頃の歌は「白妙の袖のわかれに露おちて身にしむ色の秋風ぞふく」(一夜を過ごした朝の別れに涙の露が袖に落ち、吹き来る秋風が身に染みます)、「たづね見るつらき心の奥の海よ潮干のかたのいふかひもなし」(あの人の冷めた心を探ってみれば、もう何を言っても気持が戻らないことが分かった。潮が引き干上がった潟のように何も貝=甲斐がない)などがある。
後鳥羽院をバックにつけ歌壇の第一人者となった定家は、歌合の審判になるなど絶頂を迎え、翌年、院から新古今和歌集の選者に任命される。ここから4年間の歳月をかけて膨大な数の歌を選定していくことになったが、後鳥羽院と定家は互いに一家言を持つ激情家だったことから、好みの歌を巡って大激突。たとえ相手が上皇だろうと、歌に関しては頑固に折れることを知らない定家(まして相手は18歳も年下)は院を憤慨させ、徐々に関係が険悪になっていった。
その後の定家は歌を作ることより理論等の研究に興味が移っていく。歌論書の執筆の傍らで将軍源実朝の歌を通信添削もしていた。1216年(54歳)、自分のベスト作品集『拾遺愚草』を制作。1220年(58歳)、ついに定家と後鳥羽院の緊張はピークに達し、激怒した院は定家を謹慎処分(歌会の参加も禁止)にした。
ところが翌年に後鳥羽院は鎌倉幕府を打倒すべく挙兵し(承久の乱)、完敗した後、隠岐に流されてしまった。定家の境遇は一気に好転し、高い官位を得て生活が安定した。歌壇の大御所として君臨した定家は、かねてから古典を熱愛していたこともあり、自らの次の仕事として、『源氏物語』『土佐日記』など様々な作品を、後世の人々に正確に伝える為に筆をとって写しまくった。
1232年(71歳)、後堀河天皇より新たな歌集を作るよう命を受け、官位を辞し出家して選歌に没頭、三年後に『新勅撰和歌集』をまとめあげた。
1236年(75歳)、それまでの歌集制作の総決算的な意味合いで『小倉百人一首』を選出した。※カルタになるのは戦国末期にトランプが入って来てから。
1241年、79歳で永眠。その2年前に後鳥羽院も隠岐で亡くなっていた。院は流される時にわざわざ新古今の資料を運んでおり、かの地で自分好みの「隠岐本新古今和歌集」を完成させている。定家も院も、本当に歌が好きで好きでたまらなかったんだね。
定家の墓の隣は200年後に亡くなった室町8代将軍足利義政、さらにその横には600年後に亡くなった絵師伊藤若冲(遺髪)が眠っている。何とも不思議な顔合わせだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E
源氏物語(げんじものがたり)は平安時代中期に成立した日本の京都を舞台とした長編物語、小説である。文献初出は長保3年(1001年)で、このころには相当な部分までが成立していたと思われる。
題名
古写本は題名の記されていないものも多く、また、記されている場合であっても内容はさまざまである。『源氏物語』の場合は冊子の標題として「源氏物語」ないしそれに相当する物語全体の標題が記されている場合よりも、それぞれの帖名が記されていることが少なくない。こうした経緯から、現在において一般に『源氏物語』と呼ばれているこの物語が書かれた当時の題名が何であったのかは明らかではない。なお、古い時代の写本や注釈書などの文献に記されている名称は大きく以下の系統に分かれる。
「源氏の物語」、「光源氏の物語」、「光る源氏の物語」、「光源氏」、「源氏」、「源氏の君」などとする系統。
「紫の物語」、「紫のゆかり」、「紫のゆかりの物語」などとする系統。
これらはいずれも源氏(光源氏)または紫の上という主人公の名前をそのまま物語の題名としたものであり、物語の固有の名称であるとはいいがたい。また、執筆時に著者が命名していたならば、このようにさまざまな題名が生まれるとは考えにくいため、これらは作者によるものではない可能性が高いと考えられている。
『紫式部日記』、『更級日記』、『水鏡』などこの物語の成立時期に近い主要な文献に「源氏の物語」とあることなどから、物語の成立当初からこの名前で呼ばれていたと考えられているが、作者の一般的な通称である「紫式部」が『源氏物語』(=『紫の物語』)の作者であることに由来するならば、そのもとになった「紫の物語」や「紫のゆかりの物語」という名称はかなり早い時期から存在したとみられ、「源氏」を表題に掲げた題名よりも古いとする見解もある。なお、「紫の物語」といった呼び方をする場合には現在の源氏物語54帖全体を指しているのではなく、「若紫」を始めとする紫の上が登場する巻々(いわゆる「紫の上物語」)のみを指しているとする説もある。
また『河海抄』などの古伝承には「源氏の物語」と呼ばれる物語が複数存在し、その中で最も優れているのが「光源氏の物語」であるとするものがある。しかし現在、「源氏物語」と呼ばれている物語以外の「源氏の物語」の存在を確認することはできない。そのため、池田亀鑑などはこの伝承を「とりあげるに足りない奇怪な説」に過ぎないとして事実ではないとしているが、和辻哲郎は、「現在の源氏物語には読者が現在知られていない光源氏についての何らかの周知の物語が存在することを前提として初めて理解できる部分が存在する」として、「これはいきなり斥くべき説ではなかろうと思う」と述べている。
なお、このほかに、「源語(げんご)」、「紫文(しぶん)」、「紫史(しし)」などという漢語風の名称で呼ばれていることもあるが、これらは漢籍の影響を受けたものであり、それほど古いものはないと考えられている。池田によれば、その使用は江戸時代をさかのぼらないとされる。
概要 [編集]
源氏物語絵巻第38帖「鈴虫」(12世紀、五島美術館蔵)紫式部(詳細は作者を参照)の著した、通常54帖(詳細は巻数を参照)よりなるとされる。写本・版本により多少の違いはあるものの、おおむね100万文字・22万文節400字詰め原稿用紙で約2400枚に及ぶおよそ500名余りの人物が登場し70年余りの出来事が描かれた長編で、800首弱の和歌を含む典型的な王朝物語である。物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さなどから、しばしば「古典の中の古典」と呼ばれ、日本文学史上最高の傑作とされる。
ただし、しばしば喧伝されている「世界最古の長篇小説」という評価は、2009年現在でも、源氏物語千年紀委員会による「源氏物語千年紀事業の基本理念」において源氏物語を「世界最古の長編小説」としているなど一般的な評価であるとはいえるものの、中村真一郎の説の、アプレイウスの『黄金の驢馬』や、ペトロニウスの『サチュリコン』に続く「古代世界最後の(そして最高の)長篇小説」とする主張もあり、学者の間でも論争がある。20世紀に入って、英訳、仏訳などにより欧米社会にも紹介され、『失われた時を求めて』など20世紀文学との類似から高く評価されるようになった。
物語は母系制が色濃い平安朝中期(概ね10世紀頃)を舞台にして、天皇の皇子として生まれ、才能・容姿ともにめぐまれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏の栄華と苦悩の人生、およびその子孫の人生を描く。通説とされる三部構成説に基づくと、各部のメインテーマは次のようになるとされ、長篇恋愛小説として間然とするところのない首尾を整えている。
第一部:数多の恋愛遍歴を繰り広げながら人臣最高の栄誉を極める光源氏の前半生
第二部:愛情生活の破綻による無常を覚え、やがて出家を志す光源氏の後半生と彼をとりまく子女の恋愛模様
第三部:源氏死後の子孫たちの恋と人生
文学史では平安時代に書かれた物語は『源氏物語』以前に書かれたか、以後に書かれたかにより「前期物語」と「後期物語」とに分けられ、あるいはこの源氏物語一作のみを「前期物語」及び「後期物語」と並べて「中期物語」として区分している。後続して作られた王朝物語の大半は『源氏物語』の影響を受けており、後に、「源氏、狭衣」として二大物語と称されるようになった『狭衣物語』などはその人物設定や筋立てに多くの類似点が見受けられる。また同作品は文学に限らず、絵巻(『源氏物語絵巻』など)・香道など、他分野の文化にも影響を与えた。
構成 [編集]
『源氏物語』は長大な物語であるため、通常はいくつかの部分に分けて取り扱われている。
二部構成説、三部構成説 [編集]
『白造紙』、『紫明抄』あるいは『花鳥余情』といった古い時代の文献には、宇治十帖の巻数を「宇治一」、「宇治二」というようにそれ以外の巻とは別立てで数えているものがあり、このころ、すでにこの部分をその他の部分とはわけて取り扱う考え方が存在したと見られる。
その後、『源氏物語』全体を光源氏を主人公にしている「幻」(「雲隠」)までの『光源氏物語』とそれ以降の『宇治大将物語』(または『薫大将物語』)の2つにわけて、「前編」、「後編」(または「正編」(「本編」とも)、「続編」)と呼ぶことは古くから行われてきた。
与謝野晶子は、それまでと同様に『源氏物語』全体を2つにわけたが、光源氏の成功・栄達を描くことが中心の陽の性格を持った「桐壺」から「藤裏葉」までを前半とし、源氏やその子孫たちの苦悩を描くことが中心の陰の性格を持った「若菜」から「夢浮橋」までを後半とする二分法を提唱した[17]。
その後の何人かの学者はこのはこの2つの二分法をともに評価し、玉上琢弥は第一部を「桐壺」から「藤裏葉」までの前半部と、「若菜」から「幻」までの後半部にわけ、池田亀鑑は、この2つを組み合わせて『源氏物語』を「桐壺」から「藤裏葉」までの第一部、「若菜」から「幻」までの第二部、「匂兵部卿」から「夢浮橋」までの第三部の3つに分ける三部構成説を唱えた。この三部構成説はその後広く受け入れられるようになった。
このうち、第一部は武田宗俊によって成立論(いわゆる玉鬘系後記挿入説)と絡めて「紫上系」の諸巻と「玉鬘系」の諸巻に分けることが唱えられた。この区分は、武田の成立論に賛同する者はもちろん、成立論自体には賛同しない論者にもしばしば受け入れられて使われている[18]。
また、第三部は、「匂兵部卿」から「竹河」までのいわゆる匂宮三帖と、「橋姫」から「夢浮橋」までの宇治十帖にわけられることが多い。
上記にもすでに一部出ているが、これらとは別に連続したいくつかの巻々をまとめて
帚木、空蝉、夕顔の三帖を帚木三帖
玉鬘、初音、胡蝶、蛍、常夏、篝火、野分、行幸、藤袴、真木柱の十帖を玉鬘十帖
匂兵部卿、紅梅、竹河の三帖を匂宮三帖
橋姫、椎本、総角、早蕨、宿木、東屋、浮舟、蜻蛉、手習、夢浮橋の十帖を宇治十帖
といった呼び方をすることもよく行われている。
また、巻々単位とは限らないが、「紫上物語」、「明石物語」、「玉鬘物語」、「浮舟物語」など、特定の主要登場人物が活躍する部分をまとめて「○○物語」と呼ぶことがある。
四部構成説
三部構成説に対して、以下のような四部構成説も唱えられている。論者によって区切る場所や各部分の名称がさまざまに異なっている[19]。
「雲隠」
成立・生成・作者に関する諸説
作者は誰か
通説
紫式部(土佐光起画)一条天皇中宮・藤原彰子(藤原道長の長女)に女房として仕えた紫式部が作者というのが通説である。物語中に「作者名」は書かれていないが、以下の文から作者は紫式部だろうと言われている。
『紫式部日記』(写本の題名は全て『紫日記』)中に自作の根拠とされる次の3つの記述
藤原公任の 源氏の物語の若紫 という呼びかけ。
一条天皇の「源氏の物語の作者は日本紀をよく読んでいる」という述懐により日本紀の御局と呼ばれたこと。
藤原道長が源氏の物語の前で好色の歌を日記作者に詠んだこと。
尊卑分脈の註記
後世の源氏物語註釈書
“ 「左衛門督 あなかしここのわたりに若紫やさぶらふ とうかがひたまふ 源氏にかかるへき人も見えたまはぬにかの上はまいていかでものしたまはむと聞きゐたり」 ”
—底本、宮内庁蔵『紫日記』黒川本
“ 「内裏の上の源氏の物語人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに この人は日本紀をこそよみたまへけれまことに才あるべし とのたまはせけるをふと推しはかりに いみじうなむさえかある と殿上人などに言ひ散らして日本紀の御局ぞつけたりけるいとをかしくぞはべる」 ”
—底本、宮内庁蔵『紫日記』黒川本
“ 「源氏の物語御前にあるを殿の御覧じて 例のすずろ言ども出で来たるついでに梅の下に敷かれたる紙に書かせたまへる すきものと名にしたてれば見る人の折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ たまはせたれば 人にまだ折られぬものをたれかこのすきものぞとは口ならしけむ めざましう と聞こゆ」 ”
—底本、宮内庁蔵『紫日記』黒川本
“ 「上東門院女房 歌人 紫式部是也 源氏物語作者 或本雅正女云々 為時妹也云々 御堂関白道長妾」 ”
—『新編纂図本朝尊卑分脉系譜雑類要集』
なお、紫式部ひとりが書いたとする説の中にも以下の考え方がある。
短期間に一気に書き上げられたとする考え方
長期間にわたって書き継がれてきたとする考え方。この場合はその間の紫式部の環境の変化(結婚、出産、夫との死別、出仕など)が作品に反映しているとするものが多い。
コメント
1番~2番を表示
2011年
01月15日
21:44
1: しぶや月
志葉楽様、今晩和。
タイトルに惹かれてお邪魔致しました。
志葉楽様のような深い知識は無いのでコメントするのは恥ずかしいのですが…。
私の知った「源氏物語」は、紫式部が書いた原本を字の上手な人が書き写し、それに合わせた絵もそれぞれ作られて、長い時間を掛けて一般の民にまで広がっていった…と、いうことでした。
書き写す時、一言一句写したのもあれば、そうでないものもあり…今伝わっている「源氏物語」は元を辿って『大体』つじつまが合った物の集合体…なのかもしれない、と思っています。
.2011年
01月15日
22:24
2: 紫
日本文学における定家の功績は本当に大きいと思います。
この源氏物語もそうだけども、本業?の歌壇においてもそうですね。
平安時代の和歌文学は、いかに新しい表現を使い工夫を凝らし思いを情緒深く表現するかということで栄えていきますが、
定家は万葉集を愛読し、古今調の新しい表現ももちろん良いが万葉集の時代に使われていた古い表現技法も素晴らしいと古語復古に尽力しています。
なので定家の和歌には万葉集時代に使われていた表現技法(古語)や万葉集時代の歌人の歌を本歌取りした歌などが頻繁に出てきます。
そんな定家を歌の師にしていた源実朝も定家の影響をうけ万葉集を愛読し、自身の「金槐集」はとても万葉調の強い和歌集になっていますね。
「温故知新」とはまさにこのようなことをいうのでしょう。
この時代の定家をはじめ家隆や西行、その他の人達が和歌や古典文学を残してくれていなければ後の江戸時代の国学研究にももしかしたら繋がらなかったかも知れない、現代にも残っていなかったかもしれないと思うと感慨深いです。
しかし、
この時代を最後に貴族文学として栄えていた和歌文学が廃れていってしまったというのも時代の変わり目の皮肉な運命でもありますね。
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