2014年8月11日月曜日
●国分寺
●国分寺
◆『●国分寺(こくぶんじ)』 http://amba.to/1st2pDo
◆『●宮内庁用語 が行』 http://amba.to/1st2x5L
国分寺 読師 http://p.tl/Bcf2 ・読師 (仏教)(どくし) 古代日本において、国分寺に講師とともに一人置かれた僧。
◆国分寺 - Wikipedia http://bit.ly/1ylGdJP
741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる。
正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられた。
『続日本紀』『類聚三代格』によれば、天平13年(741年)2月14日(日付は『類聚三代格』による)、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出された。その内容は、各国に七重塔を建て、金光明最勝王経(金光明経)と妙法蓮華経(法華経)を写経すること、自らも金字の金光明最勝王経を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどである。寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた[1]。
国分寺の多くは国府区域内か周辺に置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物であった。また、大和国の東大寺・法華寺は総国分寺・総国分尼寺とされ、全国の国分寺・国分尼寺の総本山と位置づけられた。
なお聖武天皇は、この詔の以前から、天平9年(737年)には国ごとに釈迦仏像1躯と挟侍菩薩像2躯の造像と大般若経を写すこと、天平12年(740年)には法華経10部を写し七重塔を建てるようにとの詔を出している。
律令体制が弛緩して官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れた[2]。ただし、中世以後も相当数の国分寺が、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており[3]、国分尼寺の多くは復興されなかったが、後世に法華宗などに再興されるなどして現在まで維持している寺院もある。なおかつての国分寺跡地近くの寺や公共施設(発掘調査など)で、国分寺の遺品を保存している所がある。
◆武蔵国分寺跡(むさしこくぶんじあと)http://bit.ly/1vwqnQr
東京都国分寺市西元町・東元町にある古代寺院跡。武蔵国分尼寺跡を含んで国の史跡に指定されている。
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、武蔵国国分寺・国分尼寺の寺院跡にあたる。現寺院については武蔵国分寺を参照。
◆こくぶん じ 【国分寺】
741年,聖武天皇の勅願により,国ごとに建てられた官寺。正式には僧寺を金光明四天王護国之寺,尼寺を法華滅罪之寺といい,奈良の東大寺を総国分寺,法華寺を総国分尼寺とした。普通には僧寺をさす。
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・こくぶんじ 【国分寺】
① 東京都中部,武蔵野台地にある市。市南部に武蔵国分寺跡がある。住宅地として発展。
② 栃木県南部,下野(しもつけ)市の地名。カンピョウの産地。下野国分尼寺跡がある。
③ 香川県中央部,高松市の地名。本津(ほんづ)川上流域に位置する。讃岐(さぬき)国分寺,国分尼寺跡がある。
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