2014年8月23日土曜日

泣きながら抜いた、遺体に刺さった無数のガラス片…「模擬原爆」は料亭に落ち、庭石が飛んだ

泣きながら抜いた、遺体に刺さった無数のガラス片…「模擬原爆」は料亭に落ち、庭石が飛んだ 中原幹雄  米軍が広島や長崎の原爆投下の前後に、訓練のため全国30都市に計49発を落としたとされる「模擬原爆」。重さ4・5トンの強力な兵器で、400人以上を死に至らしめた。  大阪市東住吉区に投下された昭和20年7月26日朝、広野国民学校(現・大阪市立摂陽中学校)の教師だった龍野繁子さん(89)は、着弾地点から約150メートルの町工場にいた。当時21歳。勤労動員で生徒約20人を引率していた。 爆風で飛ばされた庭石  午前9時前に工場に到着。この日は海軍の制服のボタンを作ることになっていたが、工場主から「先生、今日も材料が入ってこないねん。勉強してください」と言われた。  〈若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨(いかり)-〉と軍歌にも歌われた誇らしいボタンだったが、戦況は厳しく、材料調達すらままならなくなっていた。  2階の空き部屋にいた生徒たちを隣の部屋に集め、「さあ国語にしようか、算数にしようか」と授業を始めようとしたときだった。  バリバリバリ…ドスンという音が間近で響いた。直径1メートルを超える巨石が空から降ってきて、さっきまでいた空き部屋の天井と床を突き抜けたのだ。模擬原爆が落ちた料亭「金剛荘」の日本庭園から、爆風で吹き飛ばされた庭石だった。 背中に刺さった無数のガラス片  幸い生徒らにけがはなかったが、金剛荘周辺は悲惨な状態だった。  電線には、爆風で吹き上げられた布団や二つ折りになった畳とともに、人の内臓が引っ掛かっている。死傷者の収容所となった小学校の講堂では、トタンの上に、バラバラになった遺体が並べられていた。  自宅に戻ると「トシちゃん」と呼んでいた姉の親友の遺体がうつぶせに寝かされ、姉と母が泣きながら背中に刺さった無数のガラス片を一つずつ抜いていた。  姉と母の話では、龍野さんが家を出た後、米軍爆撃機B29の飛来を知らせる警戒警報が発令された。結核を患っていた姉に薬を届けに来てくれていたトシちゃんは「(夫が)隣組の組長をしているから、帰らなあかん」と家を出た。  爆弾が落ちる直前まで、路上で「警戒警報、きーつけて」と叫んでいたトシちゃん。爆風で体ごと飛ばされ、がれきの中から遺体で見つかった。 封印の記憶を語り継ぐ  「世の中が落ち着くにつれ、あの日の惨状を思いだすことから逃げていました」。龍野さんは、数年前に友人から体験を書き残すよう勧められたことをきっかけに、封印していた記憶をたぐり寄せ、機会があるごとに当時の様子を語るようになった。  模擬原爆をめぐっては、東住吉区の市民グループ「7・26田辺模擬原爆追悼実行委員会」も、惨状を語り継ぐ取り組みを続けている。  同区田辺にある着弾跡地の碑の前では、今年も7月26日午前9時から、追悼の集いが行われた。

0 件のコメント:

コメントを投稿