2014年8月28日木曜日

●お江戸の古着屋

●お江戸の古着屋   「ロハス」という言葉、健康な暮らしと持続可能な社会を心がける暮らし方の総称だそうだ。かつての日本にもそういう時代があった。  そんな発想から文化の日の十一月三日、東京で「江戸文化歴史検定」が実施される。地域の歴史や文化、自然などについての知識を問う、はやりのご当地検定の一種である。  ただし、特定の地域ではなく、元禄期を中心に、二百六十五年の長きにわたって続いた太平の世として知られ、庶民の文化が大きく花を咲かせた江戸という時代に絞り、当時の暮らしぶりに焦点を当てるのが特色だ。  その「江戸検定」の模擬問題から、  「江戸の町はリサイクル都市だったといわれています。では、享保年間(一七一六-三六年)の江戸の町で、幕府公認の商人が一番多かったのは、何でしょう?」とあって、質屋、古着屋、古道具屋、古鉄屋から答えを選ぶ。  正解は古着屋。 着物は竹馬に載ってやって来る  物を無駄にしない江戸では、着物も古着が当たり前です。現在も繊維業関連の問屋が並ぶ日本橋富沢町は、古着屋の軒が連なり大きな市も立つ町でした。日常着や各地の名産織物、大名クラスの豪華な着物もここに集まり、また全国へと買われていったのです。なお富沢という名は、鳶沢陣内(とびさわじんない)に由来します。彼は名うての大泥棒でしたが、ついに御用となった時にお上はこれを許します。改心した彼は手下を集め、元吉原のそばで古着買いの商売を始めたのです。そうやって商売をしながら、彼は隠密の務めを果たしていたのだとも言われています。真相はともかく「鳶沢町」は着物の集まる町として発展し、そしてやがて「富沢町」と呼ばれるようになりました。  江戸を歩きながら、古着を売って回る商人たちもいました。竹で作った馬のような形の物に古着や古布をかけて歩く「竹馬古着売り」が長屋にやって来ると、おかみさんたちがいそいそと出て来て竹馬を取り巻きます。かつては腕に古着をかけて歩いていた商人が、腕が疲れるので竹の馬を使うようになりました。江戸から生まれたこのスタイルは、やがて京都や大坂にも伝わっていきました。 江戸庶民は モノを使い切るリサイクルの達人だった  江戸時代の人はすごいな、と感心してしまうことの一つにリサイクルがある。毎日の生活に欠かせない着物の再利用を例に、驚くべきリサイクルを紹介しよう。  まず江戸の人は、着物をどこで買っていたのだろうか。新しくあつらえる場合は、「呉服店」や「太物(ふともの)店」で反物を購入する。呉服は絹もの、太物は木綿ものの意味である。既製のものはなく、この反物を自分で仕立てるか、仕立てに出して着ることになる。ちょっとやっかいである。この絵は、太物店(木綿店)の店先の様子、店構えもなかなか立派だ。  もうお分かりのように、ここまでのお話は、一部のお金持ちの場合である。新調された着物もやがて古くなると、古着の仲買人がやって来て、今度は「古着屋」の店頭に並ぶことになる。この段階からが庶民の登場である。庶民は通常、着物を古着屋で買った。当時、古着は恥ずかしいものでもなく、苦にすることもなかったようだ。  古着屋は、神田川沿いの柳原土手あたりに軒を連ねてあった。柳原土手は有名な古着屋街で、江戸周辺の人々も買いにやって来たという。その他にも、古着屋街は江戸にはたくさんあった。  着物の本格的な再利用の旅は、ここから始まる。大人用の着物を古着屋で買ったとすると⇒古くなれば使える部分で子ども用に作り直す⇒次の子どもが生まれたらオシメに⇒オシメがとれたら雑巾に⇒たき付けに⇒灰になったら洗濯に、肥料に……という具合である。もっとも、作り直す際に出る端切れは「端切れ屋」が買ってくれたし、灰も買っていく業者がいた。燃やして灰になってからもまだ使うというのは、究極の再利用である。  このようなリサイクルが可能だったのは、一個人や家庭の心がけのレベルでなく、江戸の社会の仕組みがそうなっていたからである。  新しい物がどんどん売れないということは、経済が停滞すると思いがちだが、そうではない。雇用も生まれてくる。壊れた物を修理する職人、不要になった物を買う業者、それを運ぶ人、加工する人、販売する人。そしてまた、それを買う庶民がいた。これが繰り返される。いろいろな仕事や職人を大都市江戸は必要としたのである。江戸に職人が多くいたのもうなずける。  現代人が、リサイクルとか再利用について考えるとき、江戸時代は数多くのヒントを与えてくれる時代だろう。生活様式がまったく違うから、一概に江戸時代の手法をそのまままもってくることはできないが、学ぶべきところはいっぱいありそうである。 古い布きれも立派な商品である  洗濯物を干しているわけではない。これは、れっきとした店舗である。いろいろな布を取り揃えてディスプレイし、客を待っているところである。  この布を「古裂れ(こぎれ)」と呼ぶ。古裂れとは、着物を再利用して仕立て直しをしたときに出る「端切れの布」である。傷んだ着物の使える部分を切り取ったものもあり、主に継ぎあて用に使われた。江戸の再生・再利用の経済は、「古裂れ屋」「端切れ屋」と呼ばれる商売を誕生させた。彼らは「古裂れ掛け」を担いで町を売り歩いた。布がとても貴重であったことが分かる。  写真に向かって右側に吊してある古裂れに注目してみよう。欄外にも示したように、これは有名な江戸の文様だ。小さなことにこだわらない心意気「構わぬ」を「鎌わぬ」と洒落てデザインしている。継ぎ接ぎ(つぎはぎ)の古着を想像すると、貧乏くさい気もするが、こんなところにも江戸っ子らしさが出ていて面白い。 http://blog.goo.ne.jp/hardworkisfun/e/8f15becc5e92a7c3b7e7ebc15b1891aa 江戸の古着屋 古着屋総兵衛影始末(ふるぎやそうべえ かげしまつ)は、徳間文庫から書き下ろしで刊行されている佐伯泰英の時代小説シリーズ。 第11巻の最後で「第一部 了」とされており、現在は新刊は発行されていない。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E7%9D%80%E5%B1%8B%E7%B7%8F%E5%85%B5%E8%A1%9B%E5%BD%B1%E5%A7%8B%E6%9C%AB  概要 この小説は、徳川家康から影旗本として密かに徳川家を護持する事を命じられた鳶沢一族と時の権力者・柳沢吉保との暗闘が物語の主軸となっている。 富沢町の古着屋を、「武」と「商」に生きる鳶沢一族として描くこの物語の着想は、三田村鳶魚の『江戸語彙』にある「鳶沢某なる夜盗が家康に許されて鳶沢町を造ることを許され、古着商いの権利を得た」という、短い記述から得られた物だということである(1巻『死闘!』・11巻『帰還!』あとがき)。リサイクル都市であった江戸の古着の流通に携わった者たちは、かつては『水滸伝』に登場するような英雄豪傑であり、そんな武士(もののふ)が商人(あきんど)に変わった言い伝えを物語に発展できないかというのが、この作品を書く発端であったとしている(1巻『死闘!』あとがき)。 この『古着屋総兵衛影始末』が第11巻『帰還!』で第一部終了となったのは、シリーズを通しての宿敵である柳沢吉保の失脚が最大の原因であると書かれている。『帰還!』のあとがきは、構想を練って再び読者にお目にかかれる日が訪れることを切望している旨が語られて終わっている。 あらすじ 慶長8年(1603年)、徳川家康が造営に着手した江戸の町は、戦国の気風を残し、町に入り込んだ浪人や無頼の徒により無法の地となっていた。毒をもって毒を制すべく、家康と側近の本多正純は、江戸を荒らす盗賊の中で西国浪人鳶沢成元(とびさわなるもと)を捕えて、命を助ける代わりに無法者達を一掃させた。そして江戸の町に古着屋を開き、それを隠れ蓑に徳川家の密偵として情報収集をするよう命じた。 元和2年(1616年)、死の床にあった家康は、鳶沢成元を呼び出し、自分が葬られる久能山に所領を与え、その隠れ里の分家と共に、徳川家危急の折に働く隠れ旗本となる事を命じた。 家康の死から85年後の元禄14年(1701年)、江戸城中松之廊下で刃傷事件が発生した年からこの物語の本編は始まる。鳶沢成元が富沢町に開いた古着屋・大黒屋は、6代目の鳶沢勝頼が主人となっていた。大黒屋が影旗本として暗躍している事を知り、また古着屋としての大黒屋に集まる金と情報に目をつけた柳沢吉保が、その力を己の物とすべく、鳶沢一族に攻撃を仕掛けてきた。家康との密約を守るため、影旗本としての矜持を賭けた大黒屋総兵衛勝頼の戦いが繰り広げられる。 たまには時代小説も読むのも一考でないかな。

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