2012年12月1日土曜日

●徳川吉宗 ●根来忍者 ●山窩ことサンカと根来衆

●徳川吉宗 ●根来忍者 ●山窩ことサンカと根来衆
★徳川 吉宗(とくがわ よしむね) http://p.tl/mlPJ
江戸幕府第8代将軍。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。
 
★越前葛野藩主  http://p.tl/zkE1
元禄10年(1697年)、14歳で第5代将軍・徳川綱吉に拝謁し、越前国丹生郡3万石を賜り、葛野藩主となる。またこれを機に名を頼方(よりまさ)と改めた。
父・光貞と共に綱吉に拝謁した兄達に対し、頼方は次の間に控えていたが、老中・大久保忠朝の気配りにより綱吉への拝謁が適ったものである。なお、葛野藩(松平家)は和歌山藩の支藩であるため、実際には家臣を和歌山から送って統治するだけで、頼方は和歌山城下に留まっていたと言われている。
 
★葛野藩(かずらのはん) http://p.tl/L4Vs
越前国葛野(現在の福井県丹生郡越前町)に存在した藩。藩庁は葛野陣屋に置かれた。
・藩史
元禄10年(1697年)3月、紀州藩2代藩主・徳川光貞の四男・松平頼方(後の8代将軍徳川吉宗)は14歳で第5代将軍・徳川綱吉に江戸城内にて拝謁(御目見え)し、綱吉から越前国丹生郡3万石を賜り、立藩した。
同時に頼方の三兄の松平頼職も3万石を分与されて同国内に高森藩を立藩している。
四品ではあったが無城大名であった。
 
★四位(しい)(四品から転送) http://p.tl/oE9E
日本の位階及び神階における位の一つ。三位の下、五位の上に位する。
複数の異なる制度で用いられた。律令制および近現代の位階制では、正四位と従四位の総称。

★高森藩(たかもりはん) http://p.tl/fuBs
越前国丹生郡(現在の福井県越前市高森町)に存在した藩。丹生に陣屋を構えたことから当初は丹生藩(にうはん)と呼ばれた。

★福井藩(ふくいはん) http://p.tl/umDg
越前国にあって現在の福井県嶺北中心部を治めた藩。藩庁は福井城(福井市)。
藩主は越前松平家(福井藩主家)。家格は親藩・御家門で、32万石。 越前藩(えちぜんはん)とも呼ばれる。
また、北の庄(北ノ荘)という地名が「福井(福居)」と改称される以前の、つまり第3代忠昌以前の結城(松平)秀康・忠直時代を故に北ノ荘藩(きたのしょうはん)と称する事がある。

★越前大野藩  http://p.tl/RSWx
越前国(現在の福井県大野市二四〇字亀山一番の一)に存在した藩。居城は大野城(亀山城)。

★米将軍   隠語大辞典
読み方:こめしょうぐん
徳川吉宗をいふ。豊年打続きしより此名あり。
徳川吉宗の異名。米価の変動を防ぎ、調整に意を用いたのでいう。米公方(こめくぼう)。

★めやす-ばこ  【目安箱】
享保の改革で将軍吉宗が評定所門前に設置した直訴状を受理する箱。毎月三回、将軍が投書を閲読した。訴状箱。

★目安箱(めやすばこ) http://p.tl/LS6K
施政の参考意見や社会事情の収集などを目的に、庶民の進言の投書を集めるために設置した箱、及びその制度の事である。

★八木将軍   歴史民俗用語辞典
読み方:ハチボクショウグン
米将軍。徳川吉宗をいう。
★八木将軍【はちぼくしょうぐん】(あだな)B   http://p.tl/KZpr
徳川幕府八代将軍吉宗のことを指す。八木とは米のこと。
倹約家で、米の節約のことに努力していたため、ついたあだ名らしい。

★覚樹院 http://p.tl/CJ4V(かくじゅいん、元禄10年(1697年)- 安永6年11月28日(1777年12月27日))
江戸時代の女性で、8代将軍・徳川吉宗の側室。俗名は久免。
紀州藩士・稲葉定清の娘として生まれる。吉宗の側室であるお梅の方、お吉牟の方が立て続けに亡くなり、和歌山城で吉宗の生母である浄円院の世話をしていた久免が側室として迎えられた。
享保6年(1721年)に吉宗との間に芳姫(正雲院)を出産するが、翌年、享保7年(1722年)に夭折した。寛延4年(1751年)、吉宗の没後に出家し、覚樹院と号する。
安永6年(1777年)11月28日、81歳で死去する(享年82であったという説もある)。戒名は覚樹院曜譽光記智仙大禅定尼、後に教樹院曜譽光託智仙大禅定尼と改めた。墓所は小石川伝通院。

★荻生 北渓 http://p.tl/HuiJ(おぎゅう ほっけい、延宝元年(1673年)- 宝暦4年1月20日(1754年2月11日))
江戸時代中期の儒学者。諱は初め玄覧、後に観(かん)、字は叔達。通称は惣七郎。生前に日本国内で刊行されたのは『官准刊行明律(訓点本明律)』のみで、実兄の荻生徂徠の著名性に隠れる形で知られていないものの、室鳩巣と並ぶ江戸幕府8代将軍徳川吉宗のブレーンとして活躍した。

★ブレーン 【brain】 デジタル大辞泉
1 頭脳。
2 脳。脳髄。
3 「ブレーントラスト」の略。「首相の―」


★根来組(ねごろぐみ) http://p.tl/Jikb
江戸幕府における百人組の一つ。他に伊賀組、甲賀組、二十五騎組が存在した。
天正12年(1584年)、根来衆は小牧・長久手の戦いに連動して雑賀衆らと共に大坂を攻撃し、羽柴秀吉の心胆を寒からしめた。紀州攻めによって根来寺が滅亡すると、根来衆頭目の根来大膳は伊勢に逃れ家康の配下となる。
天正13年(1585年)には、後の百人組の原型として最も早く設置され、50名が成瀬正成の組下に置かれた。また、鉄砲師範には後の牛久藩主、山口重政が任ぜられている。関東討入後は内藤新宿に配備され、四谷の成瀬正成の指揮下で甲州路の防衛に当たった。関ヶ原の合戦では成瀬正成の指揮の下、最前線で活躍する。正成が尾張藩の附家老として犬山城に異動した後も成瀬氏の影響力が残ったといわれている。また、関ヶ原の戦い時には根来組はもうひと組あり、伊奈図書今成が組頭であったが合戦後に廃絶している。
当時鉄砲の技術は特殊技能であったことから、伊賀、甲賀、根来の鉄砲隊を忍者とみなすこともあり、根来忍術を駆使して諜報活動にも従事していたという説もあるが、根来衆はあくまで鉄砲隊であると思われる。

★根来衆(ねごろしゅう) http://p.tl/HYn7
戦国時代に紀伊国北部の根来寺を中心とする一帯(現在の岩出市)に居住した僧兵たちの集団である。雑賀衆と同様に鉄砲で武装しており、傭兵集団としても活躍した。

★根来寺(ねごろじ) http://p.tl/rFQt
和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山の寺院。山号を一乗山と称し、詳しくは一乗山大伝法院根来寺と号する。本尊は大日如来、開山は覚鑁(かくばん、興教大師)である。

★忍者の実像  http://p.tl/uEDR
忍者。実体の掴めない彼らはまさしく「煙」そのもの。
この巻では、そんな忍者の実像に迫る。
雑賀衆、根来衆は、様々な忍術を駆使して戦った。特に、鉄砲隊の活躍はめざましく、 最強の傭兵集団と恐れられたのである。
そんな雑賀衆と根来衆は、天正13年(1585)、 豊臣秀吉によって遂に滅ぼされた。 このような紀州の忍者たちのことを知る人は少ない 。

★ここでは忍者とはなにか、忍者の歴史などを説明する。http://p.tl/-_9K
武田素波(すっぱ)/有名な武田信玄が用いた忍者集団。 雑賀忍者/一向宗と結ぶ 傭兵集団. 根来忍者/根来寺の僧兵で、いち早く鉄砲を取り入れた。 風魔忍者/相模 の国・北条氏の乱波(らっぱ)として活躍。


★山窩ことサンカと根来衆(切支丹忍者編) http://p.tl/foCa
その本拠の一つが真言宗の根来寺であり、その僧兵から名高い根来衆が生まれた。 根来衆は「忍者」と解されているが、厳密には根来寺に本拠を置く東密修験道の陰陽 山伏(僧兵)が正しい。

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