2012年12月23日日曜日

●凍り豆腐   ●高野聖

●凍り豆腐   ●高野聖
・はるか さん
 真っ先に思い浮かべました、高野聖^^
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・那由多
 私もはるかさんと同じく、高野聖を思い浮かべました
その次は、『高野豆腐』
かの弘法大師・空海が発案した(ただの通説でしょうが、関西では一般的に知られています)とされる保存食
別称でなら全国に広まっているようで
(凍り豆腐、など)
 
あ、次のお題は高野豆腐ですかね?
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★こおり-どうふ【凍り豆腐】
「高野豆腐(こうやどうふ)」に同じ。[季]冬。

★凍り豆腐  豆腐の種類 http://www.weblio.jp/cat/food/tfnsr
豆腐を凍らせた後、乾燥させて造ります。栄養価の高い保存食品でもありますが、長野県で圧倒的な生産高を占めています。名称は、高野山の宿坊で作り始めたということで高野豆腐、信州辺りは凍みるの意で「凍み豆腐」といわれています。なお、豆腐製造業者は本製品を作らず、専業メーカーによっておりますので、独自の業界組織があります。

★凍り豆腐  食品成分データベース http://www.weblio.jp/cat/food/shkli
食品名(100g当たり)    豆類-豆類/だいず/[豆腐・油揚げ類]/凍り豆腐
廃棄率(0%) エネルギー(52.9kcal) 水分(8.1g) たんぱく質(49.4g) 脂質(33.2g) 炭水化物(5.7g) 灰分(3.6g)

★高野豆腐(こうやどうふ)(凍り豆腐 から転送) http://p.tl/8K2M 豆腐を凍結乾燥させた保存食である
乾燥状態では軽く締まったスポンジ状で、これを水で戻し、だし汁で煮込むなどして味を付ける。
・歴史・名称起源
冬期に豆腐を屋外に放置してしまったことから、偶然に製法が発見されたと言われている。
 
俗に高野山で製造される凍り豆腐が、精進料理の1つとして全国に広まったものとされるが、実際には、東北地方にも凍み豆腐(しみどうふ)と呼ばれる同じ製法の保存食があり、こちらは戦国大名伊達政宗が、兵糧研究の末に開発したという伝説がある。中国にも同様の食品があるので中国から伝来した可能性も高い。寒さの厳しい地方では、場所に限らず偶然の産物として発見され、普遍的に生産されてきた食品と見られる。
 
高野豆腐と呼ばれるに至ったのは、江戸時代において高野山の土産物として珍重されたからとも言われている。江戸時代においては最も流通した物がその販売地、販売者の地名を冠することがあり、これもその1つである。

★しばれどうふ  北海道方言辞書
しばれどうふ【凍れ豆腐】[名] 凍り豆腐。高野(こうや)豆腐。

★こうや-どうふ 【高野豆腐】
豆腐を小形に切り、寒中、屋外で凍らせ乾かしたもの。もと高野山で作ったのでこの名があるという。しみ豆腐。こおり豆腐。凝(こご)り豆腐。[季]冬。

★こうやどうふ
 大阪弁     訳語
こうやどうふ  凍り豆腐
 
・解説
  高野豆腐。高野山で、寺の外に置き忘れて寒さのために豆腐が凍ったことに由来。「ちはやどうふ(千早豆腐)」ともいう。信濃、奥羽などでは「しみどうふ(凍み豆腐)」。

★こうやどうふ  隠語大辞典
賞表ノコトヲ云フ。〔第二類 金銭器具物品之部・京都府〕
分類  京都府

★しょうひょう【賞表】
善行・功労などをほめあらわすこと。また、その賞状。表彰。



●こうや-ひじり【高野聖】
(1)平安中期以降、仏道修行のため高野山に隠遁した僧。
(2)寄付をつのるため、高野山から出て諸国を勧進遊行した僧。近世になると主として乞食僧・行商僧をさすようになった。
(3)タガメの異名。[季]夏。
(4)書名(別項参照)。
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・こうやひじり【高野聖】
小説。泉鏡花作。1900年(明治33)発表。旅僧宗朝を語り手として、飛騨天生峠の、魔性の美女のいる超現実世界を描く。

★高野聖  歴史民俗用語辞典 http://www.weblio.jp/cat/academic/nrkmj
読み方:コウヤヒジリ
高野山を拠点に諸国を遊行・唱導し、高野山信仰を普及させた聖の一群。


★高野聖  季語・季題辞典 http://www.weblio.jp/cat/dictionary/nkgmj
読み方:コウヤヒジリ
田亀の別称。高野僧が笈を背負ったような紋様が背にあるため
季節  夏
分類  動物

★高野聖  近代文学作品名辞典 http://www.weblio.jp/cat/dictionary/nkdmj
読み方:コウヤヒジリ
作者 泉鏡花
初出 明治33年
ジャンル 小説

★高野聖(こうやひじり) http://p.tl/zEeZ
日本の中世において、高野山から諸地方に出向き、勧進と呼ばれる募金のために勧化、唱導、納骨などを行った僧。
蓮華谷聖、萱堂聖、千住院聖。
ただしその教義は真言宗よりは浄土教に近く、念仏を中心とした独特のものであった。
 
同様の遊行者は奈良時代に登場し、高野山では平安時代に発生。
開祖として小田原聖教懐、明遍、重源らが知られる。
 
高野山における僧侶の中でも最下層に位置付けられ、一般に行商人を兼ねていた。
学侶方、行人方とともに高野山の一勢力となる。
諸国に高野信仰を広め、連歌を催すなど文芸活動を行い民衆に親しまれたが、一部においては俗悪化し、「夜道怪(宿借)」とも呼ばれた(村の街道などで「今宵の宿を借ろう、宿を借ろう」と呼ばわったためと云われる)。
また「高野聖に宿貸すな 娘とられて恥かくな」という俗謡もあった。
 
織田信長は1578年に高野聖を二千人近く虐殺した。江戸時代には活動が制限されるようになった。

★学侶(がくりょ)(学侶方から転送) 
中世における僧侶身分の1つ。仏教に関連した学問や研究、祈祷に専念する僧侶のこと。
 学僧(がくそう)と呼ばれる僧侶はこの身分であることがほとんどであった。
 
本来は大衆を構成する身分であったが、後に公家や武家などの実家の出自の高い僧侶で占められるようになり、検校や阿闍梨といった高位につく資格を独占し、寺院内での決定権を掌握するようになる。逆に身分が低い出自が多くこうした場から排除されて世俗の業務に従事させられた堂衆や行人はこの状況に不満を抱いて度々内紛を起こす原因となった。

★行人(ぎょうにん)(行人方から転送) (仏教) http://p.tl/nHch
古代・中世日本の寺院内における僧侶の身分の1つ。高野山金剛峯寺において行人方(ぎょうにんがた)・総分(そうぶん)として呼ばれるものも同義である。
 
本来は修行者の意味があり、山伏などの修験者も含まれているが、寺院内部においては施設の管理や花・灯りの準備、炊事・給仕など専ら世俗的あるいは実務的な業務にあたる身分を指した。また、行人の中には実務の一環として寺領からの年貢徴収や寺院の警備にあたるものもおり、その中から僧兵などの武装をする者も現れるようになった。 学侶・堂衆(延暦寺では行人と同一視されている)などとともに大衆を構成したが、学侶よりも下の身分とみなされてときには双方の間で内部対立を起こすこともあった。
 
金剛峯寺では、宝徳2年(1450年)に学侶(学侶方)・行人(行人方)間で1,000人もの死傷者を出す衝突を起こし、一時木食応其や徳川家康の尽力で和議も行われたものの長続きせず、以後も250年にわたって両者の対立が続き、元禄2年(1689年)と享保元年(1716年)に江戸幕府によって行人に対する弾圧が行われている。明治維新以後、行人・行人方は解体されることになった。

★夜道怪(やどうかい) http://p.tl/m0TI
埼玉県の秩父郡や比企郡小川町大塚などに伝わる怪異の一つ。
何者かが子供を連れ去るといわれたもので、宿かい(やどかい)、ヤドウケともいう
子取りの名人のような妖怪として伝承されており、秩父では子供が行方不明になることを「夜道怪に捕らえられた」「隠れ座頭に連れて行かれた」という[2]。比企郡では「宿かい」という者が白装束、白足袋、草鞋、行灯を身につけて、人家の裏口や裏窓から入ってくるといわれる

★隠れ座頭(かくれざとう) http://p.tl/qoEz
北海道、秋田県、関東地方に伝わる妖怪の一種。
日本各地に伝えられており、子供を攫う、夜中に物音を立てる、人に福を授けるなど、地方により様々な性質の伝承がある。
隠れ座頭の語源は隠れ里ともいわれるが、これは隠れ座頭が広く奥羽・関東に渡って巌窟の奥に住む妖怪と信じられ、常人の目に見えない巌窟などの住民と考えられたことから、そのような地底の国が隠れ里と名づけられたことが由来とされている。本来の隠れ里は昔話などで理想郷のように語られることが通例だったが、人々の信仰が変化して怪物と解釈されるようになり、座頭の職業に若干の神秘性を伴って隠れ座頭の伝承になったものと考えられている[3]。隠れ里にいった者は裕福になれるが、隠れ座頭の足音を聞いた者も裕福になれるとされる。茨城県では、隠れ座頭の餅を拾うと長者になるという。秋田県横手市でも福を授けるという伝承があり、隠れ座頭の姿はかかとのない盲人で、市の立つ日にこれを見つけると長者になるといわれた。また北海道の熊石町(現・八雲町)の黒岩という集落にあった洞窟には、円空上人の作った地蔵尊が安置されているが、この洞窟に隠れ座頭が住んでおり、正直者が洞窟を訪れると宝物を授けたという

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