●青葉 歩卒。こっぱ武者。
★あお‐ば〔あを‐〕【青葉】
1.緑色をした草木の葉。特に、若葉のころを過ぎて、青々と茂った木の葉。《季 夏》「心よき―の風や旅姿/子規」
2
1.雅楽の横笛の名器。平敦盛(たいらのあつもり)が熊谷直実(くまがいなおざね)に討たれた時に所持していたといわれる。
2.高倉天皇秘蔵の横笛。
★あおば あを― 1 【青葉】
(1)青々と生い茂った木の葉。[季]夏。《―して御目の雫拭はばや/芭蕉》
(2)横笛の名笛の名。小枝の生えた、平敦盛所持と伝える神戸市須磨寺蔵のものや、高倉天皇秘蔵の、別名葉二(はふたつ)などが有名。青葉の笛。
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★高倉天皇(たかくらてんのう)http://p.tl/B7AD
応保元年9月3日(1161年9月23日) - 治承5年1月14日(1181年2月6日))は、平安時代末期の第80代天皇(在位:仁安3年2月19日(1168年3月30日) - 治承4年2月21日(1180年3月18日))。諱は憲仁(のりひと)という。
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★平 敦盛(たいら の あつもり) http://p.tl/xO8i
平安時代末期の武将。平清盛の弟である平経盛の末子。位階は従五位下。官職にはついておらず、無官大夫と称された。
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★熊谷 直実(くまがい なおざね) http://p.tl/XiO0
平安時代末期から鎌倉時代初期の武蔵国熊谷郷(現埼玉県熊谷市)の武将。熊谷直貞の次男。
熊谷氏は桓武平氏・平貞盛の孫[2]・維時の六代の孫を称するが、武蔵七党の私市党、丹波党の分かれともされ、彰かではない[3]。直実の祖父盛方が勅勘をうけたのち、父直貞の時代から大里郡熊谷郷の領主となり、熊谷を名乗った。
平家に仕えていたが、石橋山の戦いを契機として源頼朝に臣従し御家人となる。のちに出家して蓮生(れんしょう / れんせい)と号した。『平家物語』「敦盛最期」の章段における平敦盛との一騎打ちは、武家の性(さが)や世の無常観を表現する題材として後世武士の間で非常に好まれ、直実は敦盛とともにこの故事の主人公として、能の演目『敦盛』、幸若舞の演曲『敦盛』をはじめ様々な作品に取り上げられている。
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★武蔵七党(むさししちとう) http://p.tl/GGgK
平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称である。
横山党、児玉党、猪俣党、村山党、野与党、丹党、西党、綴党、私市党などが知られているが、鎌倉時代末期に成立した『吾妻鏡』には「武蔵七党」との表現がないことから南北朝時代以降の呼び方と考えられており、数え方も文献により異なり一定していない。
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★武士団(ぶしだん) http://p.tl/TN79
主に平安時代後半から、鎌倉時代、南北朝時代を中心に室町時代までの武士の集団を指す。1930年代から日本中世史での学術用語として使用され始めた[1]。中世史研究史上においては「武士」と同義語として扱われることもあるが、「武士」は中世から近世(江戸時代)までを対象とし、また「武士」論は「武士団」を率いる「侍」のみを対象とすることもあるに対し、「武士団」ではその郎党も含めた社会的実態が問題とされる。
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★郎党(ろうとう、ろうどう) http://p.tl/ji-Z
中世日本の武士社会における主家の一族や従者。郎等とも。
平安時代中期に承平天慶勲功者やその子孫の中から登場した武士階層は、田堵負名、すなわち田地経営者としての側面も持っていた。武士たちは在地にあって田地経営を行いながら武芸の鍛錬に励み、国衙から軍事動員が課せられたときは軍事活動に参加した。こうして彼らは国衙から「国内武士」としての認知を受け、それによって武士身分を獲得していた。(→国衙軍制)
上記のような在地武士たちは、戦力を一定以上確保するために、自らに従う者を「郎党」と呼んで主従関係を結んだ。郎党は、武士と同身分であるとは言い切れないものの、在地武士と同様に騎乗する権利を持ち、戦闘に参加する義務を負っていた。郎党の出自を見ると、下人・所従から郎党になった者もいれば、百姓身分の者が在地武士と主従関係を持って郎党となった者もいた。
郎党と同様、武士に従いながら戦闘に参加したのが「家の子」(子弟)である。家の子と郎党の差異は、家の子が武士の一族・子弟であり、血縁関係を有していたのに対し、郎党はそうでなかったという点にある。
武士間で主従関係を結んで、ある武士が別の武士の郎党となることもあった。11世紀ごろに武家の棟梁と呼ぶべき指導的な武士(例えば源頼信など)が登場すると、多数の武士が棟梁と主従関係を結んで、棟梁の郎党となっている。
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★田堵(たと) http://p.tl/CWbz
日本の平安時代に荘園・国衙領の田地経営をおこなった有力百姓層である。田刀、田頭とも。貞観元年(895年)12月付の元興寺領近江愛智荘(えちのしょう)の検田帳に「田刀」とあるのが初見である。田堵の堵は、垣を意味する。
9世紀~10世紀ごろに律令制の解体が進展していくと、百姓の中に他から田地を借りて耕作し、富を蓄積する富豪層が出現した。これが田堵である。初期における「田刀」は後世の田堵とやや性格を異にし、荘園の職掌の1つとしての性格が強く、荘園の土地を預作をすると同時に自らの私宅(穀物の貯蔵庫にもなり得る)と治田(開墾地)を有していた。田刀は院宮王臣家や寺社に私宅と治田を寄進して田刀の身分を手に入れて国衙からの租税を逃れようとした。延喜の荘園整理令制定の目的の1つにはこうした田刀の行動を規制することも含まれていた。
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★負名(ふみょう) http://p.tl/gDMv
日本の平安中期ごろから始まる王朝国家体制のもとでの租税収取形態または租税収取を請け負った者をいう。10世紀ごろ、朝廷は律令制に由来する人別支配体制を放棄し、土地課税に基礎をおく支配体制(王朝国家体制)へとシフトしたが、このとき、課税単位へ編成された土地を名田(みょうでん)といい、名田経営を請け負った者が「負名」と呼ばれるようになった。
8世紀から本格的に開始した日本の律令制は、戸籍・計帳によって人民百姓を把握し、口分田を班給する代わりに租庸調を租税として収取する支配体制であった。8世紀末から9世紀初頭の桓武天皇による諸改革も上記のような律令制支配の維持強化を目的としていたが、9世紀前期までには、百姓の逃亡・浮浪が著しく増大し、律令制の人別支配は根幹から動揺し始めていた。こうした社会状況を受けて、9世紀前期(藤原冬嗣執政期)から土地課税を重視する傾向が次第に強まっていき、9世紀末期~10世紀初頭(寛平の治・延喜の治期)には再び律令制の原則へ回帰する政策が採られたものの、結局それは失敗に終わり、律令制の人別支配への回帰は完全に放棄されることとなった。★
★名田(みょうでん) http://p.tl/ScVG
日本の平安時代中期から中世を通じて見られる、荘園公領制における支配・収取(徴税)の基礎単位である。名(みょう)とも呼ばれるが、名と名田を別のものとする見方もある。
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★口分田(くぶんでん) http://p.tl/ElEn
律令制において、民衆へ一律に支給された農地である。北魏(中国)の均田制における露田が口分田の前身であると考えられている。その後、唐律令に口分田の規定が置かれた。日本では、飛鳥時代に令(または律令)を制定する際、唐の制度を参考としたため、唐と同様に口分田が導入されたと考えられる。
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★均田制(きんでんせい) http://p.tl/XxxB
中国に於いて南北朝時代の北魏から唐代まで行われた土地制度。国家が国民に田や荒地を給付し、得た収穫の一部を国家に納め、定年により土地を返却する。
均田制は民を戸籍に登録された労働に耐える人間へ、一代限りの口分田(露田、麻田)と一定の広さまで世襲が認められる永業田(桑田、世業田)を給付し、その一定額の給付に対して定額の租(穀物)、調(繊維)、役(労役)(租庸調)の納税を求める制度である。
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★国衙(こくが) http://p.tl/bN8l+
日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画である。
国衙に勤務する官人・役人(国司)や、国衙の領地(国衙領)を「国衙」と呼んだ例もある。
各令制国の中心地に国衙など重要な施設を集めた都市域を国府、またその中心となる政務機関の役所群を「国衙」、さらにその中枢で国司が儀式や政治を行う施設を国庁(政庁)と呼んだ。
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★青葉城【あおばじょう】 日本の城がわかる事典の解説.
福島県石川郡浅川町にあった山城(やまじろ)。平安時代末期の1189年(文治5)、源頼朝の奥州藤原氏征伐に従軍した甲斐源氏の浅利(浅川)知義が戦功により浅川の地頭職となり、その居館として築いた城である。浅川氏は代々この城を居城としたが、しだいに石川氏と同族化し、戦国時代末期にはたびたび侵入を繰り返す南の佐竹氏に対する防衛の拠点となっていった。1569年(永禄12)から1589年(天正17)にかけて、城の近隣では数度の合戦が行われている。棚倉町から浅川町に向かう国道118号線の右手にあるのが城山で、城山公園として整備されている。JR水郡線磐城浅川駅から車で約10分。
仙台城の別称。
★青葉城【あおばじょう】 世界大百科事典内の青葉城の言及.
【仙台[市]】より
…奈良時代,北方の多賀城(現,多賀城市)に陸奥国府と鎮守府が設けられ,仙台には陸奥国分寺および国分尼寺が建立された。近世初め,伊達政宗が青葉城を築いて以来,伊達氏の城下町として繁栄した。1871年の廃藩置県後,仙台は仙台県,次いで宮城県の県庁所在地となり,軍事,教育,司法などの諸施設が設置された。…
【広瀬川】より
…愛子盆地から下流は安山岩地域を切って流れ,両岸に地すべり地形が発達する。仙台市街主要部は広瀬川左岸の段丘上に展開し,右岸の段丘と青葉山の丘陵端は青葉城址で,広瀬川は外堀の役割をもっていた。青葉城南側には丘陵をうがつ小支流の竜ノ口峡谷がある。…
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★青葉山【アオバヤマ】
1.京都府舞鶴市と福井県高浜町との境にある山。標高693メートル。西国三十三所第29番札所の松尾寺がある。丹後富士。
2.仙台市にある小丘。青葉城跡がある。
・大辞林
1. 京都府舞鶴市と福井県大飯郡の境にある死火山。海抜699メートル。あおばのやま。あおばさん。歌枕 「秋の露は移しにありけり水鳥の青葉の山の色付く見れば /万1543」
2.仙台市にある小丘。伊達氏の青葉城(仙台城)跡がある。
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★青葉者【アオバモノ】 デジタル大辞泉
あおば‐もの 〔あをば‐〕 【青葉者/▽白歯者】
雑兵(ぞうひょう)。歩卒。こっぱ武者。また、具足を着けたことのない中間・小者の類。「―を一人討っては槍先に血をつけ」〈甲陽軍鑑・二四〉
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★木の葉武者【コノハムシャ】 デジタル大辞泉
取るに足らない弱い雑兵(ぞうひょう)をののしりあざけっていう語。こっぱざむらい。「神変不思議の太刀風に、吹き散らされし―」〈浄・矢口渡〉
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★端武者【ハムシャ】
は‐むしゃ 【端武者/葉武者】
身分の低い、取るに足りない武者。雑兵(ぞうひょう)。木端武者(こっぱむしゃ)。
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★雑人輩【ゾウニンバラ】
ぞうにん‐ばら 〔ザフニン‐〕 【雑人▽輩】
《「ばら」は接尾語》雑人ども。武家では、具足を着用しない雑兵(ぞうひょう)。「矢面の―そこのき候へとて」〈平家・一一〉
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★雑兵【ぞうひょう】 世界大百科事典
室町時代に一般化する下級の兵卒の総称。騎馬の侍・武者にたいして歩卒。〈討たるる侍名字七十余人,其の外雑兵数を知らず〉(《看聞御記》応永25年4月24日),〈宗徒の侍・雑兵一万ばかり討死〉(《信長公記》天正3年5月21日)というように,侍と対比して,それ以下の身分の兵の総称としてひろく用いられ,〈ざうひゃうの手にかかりて命をむなしくせん事,口惜しければ〉(《曾我物語》)というように,侍からは卑賤視された。
・百科事典マイペディア
中世の下級兵卒の総称。〈ざっぴょう〉ともいう。室町期に一般化するもので,騎馬の侍(さむらい)・武者(むしゃ)に対して歩卒(ほそつ)をいうが,侍と対比してそれ以下の身分の兵を広く雑兵と称したらしい。
・ぞう‐ひょう 〔ザフヒヤウ〕 【雑兵】
1 身分の低い兵士。歩卒。ざっぴょう。
2 取るに足りない者。下っ端。「我輩の如き―すら…一身を顧みるに遑(いとま)なかったです」〈魯庵・社会百面相〉
・世界大百科事典内の雑兵の言及.
【荒子】より
…1591年(天正19)の豊臣秀吉の身分統制令に〈奉公人,侍,中間,小者,あらし子に至る,去七月奥州江御出勢より以後,新儀ニ町人百姓ニ成候者在之者〉(小早川家文書)とある。戦場で土木,輜重(しちよう),炊事などの雑役に従事した雑兵であり,その身分は百姓・町人とは明確に区別されていた。江戸幕府には小石川の薬園に22人の荒子(15俵一人半扶持高,抱席,御目見以下)がおかれていた。…
【合戦】より
…一騎打ちは往々にして組打ちによって勝負を決し,古来,功名の最たるものとされた。〈将は将をねらう〉,これが少なくとも源平時代の戦闘様式の基本であり,騎馬の士が雑兵の手にかかることは恥とされた。後世,足軽の活躍によって戦闘法に変化をきたした室町中期以後でさえ,足軽の一矢に命をおとすことは〈当座の恥辱のみならず,末代の瑕瑾(かきん)を残せる〉(一条兼良《樵談治要》)といわれた。…
【農兵】より
…(1)日本の中世において16世紀末の兵農分離以前の兵,とくに雑兵(ぞうひよう)をいう。中世社会は兵農未分離で,武士は農村に土着し,農民もみずから武装しているのが常であり,ともに兵として徴発された。…
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