2012年10月31日水曜日

●太郎太刀●示現流(じげんりゅう)●柳生新陰流

●太郎太刀●示現流(じげんりゅう)●柳生新陰流
★真柄 直隆(まがら なおたか)
、天文5年(1536年) - 元亀元年6月28日(1570年8月9日))
戦国時代の武将。朝倉氏の家臣。十郎左衛門。弟に真柄直澄、子に真柄隆基。
朝倉家中でも武勇に優れた人物で、黒鹿毛の馬に跨り、越前の刀匠千代鶴の作による五尺三寸(約175センチ)もの太刀「太郎太刀」を振り回して戦いでは常に暴れまくったという。
1570年、姉川の戦いで敵中に深く斬りこみすぎて、子の隆基とともに戦死した。なお、弟の直澄も勇猛で知られたが、この戦いで討死している。直隆を討ち取ったのは向坂三兄弟とされているが、『信長公記』においては青木所左衛門が討ち取ったとしている。しかし、向坂兄弟が討ち取った時に使用した太刀は「真柄斬り」と名付けられ名刀の一つになっている。
太郎太刀は現在、愛知県名古屋市の熱田神宮宝物館に奉納されている。熱田神宮にある物が直澄の次郎太刀で白山比咩神社にある物が直隆の太郎太刀という説もある。
あまりに弟直澄の資料が少ないため、直隆と同一人物とする説もある。
真柄氏は、朝倉家中では、堀江氏などと共に、在地性・独立性が強い国人衆で、越前に足利義昭が頼ってくるまで、朝倉氏に臣従的態度を取りつつも、軍役を一部負担するだけという立場で、朝倉家の完全な家臣という立場ではなかった。(完全に家臣化として取り込まれた勢力の人物の多くは「景」の字を授かっている者が多い)
姉川の戦いで親子揃って戦死しているものの、朝倉氏滅亡後の天正11年(1583年)に「真柄加介」宛てに丹羽長秀から知行安堵状が発給されており、一族はその後も存続していることが窺われる。
アニメ映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』では、直隆をモチーフにしたと思われる「真柄太郎左衛門直高」というキャラクターが登場。

★大太刀(おおたち)または(おおだち) http://p.tl/Qsvn
日本刀の一種。長大な打刀、及び太刀のこと。
「野太刀(のだち、のたち)」とも呼ばれる。
現代の分類では刀身の長さが三尺(約90cm)以上のものを指すのが一般的で、昔の日本人の平均的な身長(150cmから165cm)と比べると非常に大きい物である事がわかる。普通は背中に背負うか従者に持たせて携行したが、槍の様に長い身の丈六尺(約180cm)などといわれた長身の者は、通常の刀のように腰に佩いたり差したりもしたようである。歩兵の武器ではなく馬上に乗って馬の走る勢いで斬る武器である。そのためにあまり振り回す必要はない。しかし腕力を誇る武士が馬に乗らない白兵戦で使用する場合もあった。
なお、文献や研究者によっては、5~9種類以上の分類をする事さえある。従って、「大太刀」という言葉が指すサイズの定義は常に一定というわけではない。
「太平記」には、五尺以上のものが多く見られ、最大で九尺三寸(約282cm)のものが描写されている。五尺(約150cm)の大太刀二振を佩き、更に手には刃長八寸の大斫斧(まさかり)を持って参陣したという長山遠江守(ながやま とおとうみのかみ)や、七尺三寸(約221cm)の大太刀を振るって奮戦したという山名の郎党、福間三郎(ふくまさぶろう)の描写からは、長寸の大太刀が実際の戦闘で使われていた状況が推察できる。
★主な遺品  http://p.tl/iPDU
・弥彦神社(新潟県) 志駄(志田)の大太刀
 ・刃長220.4cm(七尺二寸八分五厘)、茎長101.8cm(三尺三寸五分)、全長322.2cm 弥彦文化財・大太刀
 ・刃長 七尺四寸(224cm)、茎長 三尺一寸(93cm)  弥彦文化財・大太刀
・八幡宮(新潟県三条市)大太刀
 ・全長209.1cm  三条市HP 大太刀-三条市
・飯香岡八幡宮大太刀
 ・全長163cm、刃長130cm、反り3.5cm  市原氏教育情報ネットワークHP 大太刀
・三嶋大社(静岡県)大太刀
 ・全長161.5cm 刃長114.3cm 茎長47.5cm 反り5.0cm  三嶋大社宝物館 大太刀:高力長吉作
・日光二荒山神社(栃木県) 山金造波文蛭巻大太刀 別名 祢々切丸
 ・刃長2.2m(七尺一寸二分)全長3.4m(一丈一尺三寸二分) 重さ22.5kg  山金造波文蛭巻大太刀(号祢々切丸) 重要文化財
・大山祇神社(愛媛県)大太刀 無銘(伝豊後友行)革包大太刀拵付
 刃長180.0cm、茎長58.5cm、反5.4cm  革包大太刀拵
・花岡八幡宮(山口県) 破邪の御太刀
 ・刃長345.5cm、茎長120cm、反28cm、身幅13cm、重ね3cm、重量75kg  下松市の文化財 安政6年 延寿国村27代末孫三光軒北辰子国綱
・白山比咩神社(石川県) 太郎太刀 
 ・真柄直隆使用の刀。下記次郎太刀と入れ替わって伝わっている説がある。
・熱田神宮(愛知県) 次郎太刀
 ・真柄直澄使用の刀。上記太郎太刀と入れ替わって伝わっている説がある。

★薬丸自顕流(やくまるじげんりゅう) http://p.tl/pXFZ
薩摩藩士・薬丸兼陳(やくまる けんちん)が示現流を修めた後、家伝の野太刀の技を元に編み出した剣術である。野太刀自顕流(のだちじげんりゅう)、薬丸流、薬丸派示現流または単に自顕流とも呼ばれる。読みが同じなためしばしば示現流と混同される。

★示現流(じげんりゅう) http://p.tl/tKMd
薩摩藩を中心に伝わった古流剣術。流祖は東郷重位。
薩摩藩内では江戸後期に島津斉興より御流儀と称され、分家の佐土原藩を除き、藩外の者に伝授することを厳しく禁じられていた御留流である。 近隣諸藩にもジゲン流を称する流派が存在するが、それらが単なる借名か、それとも藩を致仕した元門人による伝授など示現流と関連があったのかどうかは、熊本藩に伝わっていた寺見流以外は多くが失伝しているために不明である。興味深いのは関東の笠間藩に伝わった流れで、佐土原藩経由で延岡藩に伝わり、延岡藩主だった牧野家が常陸の笠間に転封になった事から、笠間まで伝わったようである。

★御留流  http://p.tl/C2Bg
江戸時代に一つの藩でのみ伝承され、同じ藩内でも他流の者に稽古を見せることを、藩より禁じられた武術の流派のこと。武道史の研究者間では御留流は存在しないという説もある。

★寺見流(じけんりゅう) http://p.tl/mWpK
熊本藩に伝えられていた剣術流派のひとつ。熊本県に現存する。
薩摩の僧・甲野善衆が霧島山中で天狗より剣技を授かったことに始まり、善衆の弟子の都甲肥前がこれを継承した伝えられている。ただし、善衆と善吉、都甲肥前と東郷肥前(東郷重位)が似ており、この伝承は示現流の伝承が元になっているといわれる。この点の他、流派の読みが似ている点や他流に比べて比較的単純な内容であることが示現流と似ている(無論、示現流と異なる技法もある)ことから、示現流より分かれた流派とも推測されるが確証はない。
寺見流とは別に、薩摩に近い熊本藩南部地域では薩摩藩系の示現流が伝わっていた。
江戸時代には、熊本藩で中島家が代々伝えた。

★柳生心眼流(やぎゅうしんがんりゅう) http://p.tl/cXwA
日本の伝統武術の流派。竹永隼人(直入)兼次(金次)を開祖とする(荒木又右衛門を開祖と伝える系統もある)。現存する技法では当身技を中心とする特異な内容の柔術を伝えることで知られる。系統によって伝える内容は異なるが、体術(柔術)・剣術・居合術・棒術・薙刀術などを含み、剣術は大太刀を遣う技法も伝えられている。
合気道開祖・植芝盛平は若かりし頃、大阪府堺市で教授を行っていた中井正勝の道場で柳生心眼流(通称・後藤派柳生流)を学び坪井政之輔から免許を得ている。
現代に伝わる柳生心眼流には大きく分類して東北伝(星派)、東京伝(星野派、別称、柳生心眼流荒木堂)、関西伝(依藤派)などの柳生心眼流がある。上記三派のうち東京伝(星野天知の伝)と関西伝(依藤忠八郎の伝)の柳生心眼流は後藤派柳生流と言う呼ばれ方をする事もあるが、剣術で著名な柳生家の新陰流の一派の事ではなく、仙台で興った柳生心眼流の一派の事を指している。

★柳生新陰流  http://p.tl/COo6
柳生宗厳以降の新陰流の俗称。正式な流儀名は新陰流。
★柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)  http://p.tl/g4Xf
江戸時代初期の武将、大名、剣術家。徳川将軍家の剣術師範。大和柳生藩初代藩主。剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。
★柳生藩(やぎゅうはん) http://p.tl/oq2M
大和国添上郡柳生郷(現奈良市柳生地区)を治めた藩。石高1万石程度の小藩であったが、藩主家の柳生氏は代々将軍家の剣術指南役として幕閣に重きをなした。
★柳生氏(やぎゅうし)http://p.tl/CdJP
新井白石が作成した系譜の『藩翰譜』(または後世の『寛政重修諸家譜』)によると、柳生氏の姓は菅原姓とされ、菅原道真が祖先とも言われている。
実際の柳生氏の事項が明らかになるのは、南北期の播磨守永珍(別名:宗珍、大膳亮永家の子とされる)の頃からで、柳生家の家譜である『玉栄拾遺』によると、元弘3年(1331年)に、南朝方として、六波羅探題の北条仲時・時益の軍勢と戦った永珍は戦功によって、後醍醐帝から賜った大和国小楊生(大楊生とも)庄の領主となり、柳生氏と名乗った事から始まるとされる(ただし、『玉栄拾遺』の記述自体も伝承の域を出ないという)。
柳生家の発祥地は大和国添上郡柳生郷(現奈良市柳生地区)で、大和国北部にある。また「楊生」・「夜岐布」・「夜支布」・「養父」とも記され、いずれも「やぎう」と発音するという。
戦国期に、上泉信綱から新陰流を相伝された柳生宗厳(石舟斎)は、永珍(宗珍)から8代目の子孫に当たる人物である。

★新陰流(しんかげりゅう) http://p.tl/L3cH
上泉信綱により1560年代に成立した剣術の流派。上泉信綱は新陰流とも新影流とも書いている

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