2012年10月30日火曜日

●多摩(たま)●タマ(リ)●田間●「タワ」

●多摩(たま)●タマ(リ)●田間●「タワ」
★多摩(たま)http://p.tl/vvpc   http://p.tl/Rv0p
おおむね令制国の武蔵国多摩郡に相当し、行政の中心地である武蔵国府が置かれた地である。
 
・東京都中~西部に当たる、東京都のうち区部と島嶼部を除いた地域。⇒多摩地域参照
・「多摩地域」のことを指すことが多いが、本来は令制国の武蔵国多摩郡に当たる部分を指し区部の一部や神奈川県の一部を含む。
・異字表記として多磨があるが、現在では府中市の一地区名(旧多磨村)として使われる。また、世田谷区の地区名に残る玉川の「玉」も同源である。
・語源
『和名類聚鈔』に太婆の注釈が記されていること、多摩川の支流に丹波山村を水源とする丹波川(たばがわ)があることなどから、古くはタバであったとする説がある。また、『安閑紀』にある多氷が、多末の誤記で、多摩のことだともいう。これらの説は江戸時代の『新編武蔵風土記稿』で言及された。
 ・タマ(あるいはタバ)自体の語源ははっきりせず、
  ・タマ(リ)。水が多く溜まる地の意味。
  ・田間。
  ・峠を意味する「タワ」、あるいはウラル・アルタイ説でその古形とされる「ダバ」。大菩薩峠から流れる川の意。
  ・魂。
など諸説がある。
なお一説に(有力な説ではない)、埼玉(さいたま)は多摩の前(さき)にあるからサキタマだという。
また、魏志倭人伝に見られる「投馬国」との関連を言及されることもある。


★投馬国(とうまこく) http://p.tl/B7WR
3世紀に日本列島や朝鮮半島南部に存在したとされる国のひとつである。
『三国志』「魏書」東夷伝の通称「魏志倭人伝」によれば、投馬国は、不弥国から(あるいは末廬国、または伊都国、または帯方郡の郡治から)、南へ水行20日の位置にあり、5万余戸の人家があり、長官は弥弥、副官は弥弥那利と呼ばれている。

★和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう) http://p.tl/D00b
平安時代中期に作られた辞書である。
承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。
中国の分類辞典『爾雅』の影響を受けている。名詞をまず漢語で類聚し、意味により分類して項目立て、万葉仮名で日本語に対応する名詞の読み(和名・倭名)をつけた上で、漢籍(字書・韻書・博物書)を出典として多数引用しながら説明を加える体裁を取る。今日の国語辞典の他、漢和辞典や百科事典の要素を多分に含んでいるのが特徴。
当時から漢語の和訓を知るために重宝され、江戸時代の国学発生以降、平安時代以前の語彙・語音を知る資料として、また社会・風俗・制度などを知る史料として国文学・日本語学・日本史の世界で重要視されている書物である。

★源 順(みなもと の したごう)http://p.tl/LMnf
、延喜11年(911年) - 永観元年(983年))は、平安時代中期の学者・歌人。嵯峨源氏の一族で、大納言源定の孫・左馬允源挙(みなもと の こぞる)の次男。子に貞がある。下総権守・和泉守等を歴任し、極官は従五位上、能登守。

★源氏二十一流 > 嵯峨源氏(さがげんじ)http://p.tl/QuRo
第52代嵯峨天皇の皇子・皇女を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。
★源氏二十一流  http://p.tl/0Iol
源氏二十一流(げんじにじゅういちりゅう)または二十一流は、源氏の21の系統。
武家として繁栄した。嵯峨源氏・清和源氏

★清和源氏(せいわげんじ) http://p.tl/Xp_U
第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。

★『新編武蔵風土記稿』(しんぺんむさしふどきこう)http://p.tl/cB9d
文化・文政期(1804年から1829年、化政文化の時期)に編まれた武蔵国の地誌。
昌平坂学問所地理局による事業(林述斎・間宮士信ら)。1810年起稿。1830年完成。全266巻。地誌取調書上を各村に提出させたうえ、実地に出向いて調査した。調査内容は自然、歴史、農地、産品、神社、寺院、名所、旧跡、人物、旧家、習俗など、およそ土地・地域についての全ての事柄に渡る。新編とは、古風土記に対して新しいという意味で付けられている。洋装活字本としては、内務省地理局が編纂した物を全8冊にまとめて1969年(昭和44年)に歴史図書出版社が発行したものの他に、大日本地誌体系刊行の一環として雄山閣から1957年(昭和32年)に全13巻で発行された物、この地域を東京都区部・三多摩・埼玉等の地区別に分けて1981年(昭和57年)に千秋社から発行されたものがある。
同事業では、『新編相模国風土記稿』(1830年起稿、1842年完成。全126巻)も編纂された。

★東京だるま  http://p.tl/w_ZK
東京だるま(とうきょうだるま)は、別名多摩だるま(たまだるま)ともいわれ、東京都西部で生産されているだるまである。主な生産地として、瑞穂町、青梅市、立川市がある。 現在、生産を続けているだるま屋は数件ほどである。JR八高線箱根ヶ崎駅に瑞穂町の特産品として、東京だるまが展示されている。
現在の多摩地域を含む武蔵国ではすでに18世紀後半には織物の産地として有名であった。当時の有名な織物の産地として 飯能、青梅、八王子、川越、五日市、拝島などがあり、生糸や絹の取引をする市がにぎわっていたという。これらの市が経済的に熟成すると在郷町が各地に出現した。各地の養蚕農家が豊作や息災を願って神棚に飾ったことからだるま作りが広まり、やがて、織物市がだるま市に変化していったとされる。
ここで指摘した飯能市、青梅市、川越市、五日市町(現東京都あきる野市)、拝島(東京都昭島市)では現在でもだるま市(だるまいち)が開催されている。
・だるまの木型に紙を貼り、乾いたら木型を抜き張子を作る。張子には「しった」とよばれる底をつけることによって、いわゆる「七転び八起き」を実現している。
・顔は職人たちの手によって描かれている。高崎だるまと比較して毛の量が少なく、あっさりとした顔が多い。
・生産は秋から冬にかけて行われる。関東の空っ風が塗料を乾燥させるのに適しているとされる。
・年内に作られただるまは次の年の正月に行われるだるま市によって売られる。東京だるまを買うことができるだるま市は東京都に限らず、埼玉県の川越市、所沢市、入間市でも行われている。
・目は白目のまま売られ、買い手が後から黒目を入れることができるようになっている。
・最近は赤のだるまだけでなく、金、銀、白やその他カラフルな色をしただるまも生産されている。また、腹部に「合格」と記された、受験祈願のだるまも生産されている。

★多摩市 - Wikipedia  http://p.tl/6Xqz
多摩丘陵ではおよそ3万年前から人が住み始めたと言われている。昭和40年辺りから 広範囲に宅地や商業地の造成(多摩ニュータウンの開発など)が行われる事が決まり、 それに伴い大規模な遺跡発掘調査が行われた。縄文時代、古墳時代を中心に遺跡調査 ....

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