2012年10月28日日曜日

●落武者 ●落人伝説●野伏せり●「野武士」【野伏/野▼臥】

●落武者 ●落人伝説●野伏せり●「野武士」【野伏/野▼臥】
1.落人伝説(おちゅうどでんせつ)http://p.tl/0frl
自然説明伝説の一つ。中央の高貴な身分の者が、合戦や政争に敗れて僻村(へきそん)の山間邑落(ゆうらく)に定着したとか、それを葬ったとか、その子孫が今日の邑落をつくったとかとする伝説。... もっとも多いのは平家の落人が住み着いたとする「平家谷」と、7人の落武者を葬った「七人塚」の伝承である。また、一般とまったく往来 ... 落武者が休んだ「腰掛石」とか、「杖銀杏(つえいちょう)」「杖栗 ...
2.隠田(おんでん)http://p.tl/ntCU
「かくしだ」ともいい、隠地(おんち)、隠没田(おんぼつでん)、院田(いんでん)、忍田(しのびた)などともいう。... 戦国時代から江戸時代にかけて、戦いに敗れた落武者などによって、隠田村として開発される例もあり、太閤(たいこう)検地や江戸時代の検地では、その摘発が一つの目的であった。 ...
3.鹿島槍ヶ岳(かしまやりがたけ) http://p.tl/P6Ei
... この谷に平家の落武者の子孫と伝える鹿島の集落があり、茨城県鹿島神宮の末社を祀(まつ)っている。西方黒部川の谷へは緩やかな傾斜で臨む。山頂の北東部、鹿島川の源流付近の地形は氷食によるともいわれている。 ...
4.雉車(きじぐるま) http://p.tl/n1vE
野鳥のキジの形につくり、車をつけた木製の郷土玩具(がんぐ)。... 発生の起因については、木地屋もしくは平家落武者集落などの、山奥暮らしの生活と信仰からという説、神話伝説にキジが瑞鳥(ずいちょう)として登場するのにちなんだという説、帰化人などによる海外文化の渡来説 ...
5.白根(新潟県) http://p.tl/n-9M
新潟県の中央にあった旧市名(白根市)。現在は、新潟(にいがた)市の南部(南(みなみ)区の一部)にあたる。... 川沿いの自然堤防上には戦国落武者の開拓による新田村が発生した。近世は新発田(しばた)藩領に属し、沼沢地の干拓が進められ、明治末期に下流の大郷川揚排水機場が完成されてから ...
6.神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし) http://p.tl/1LkU
浄瑠璃義太夫節(じょうるりぎだゆうぶし)。時代物。5段。福内鬼外(ふくうちきがい)作。1770年(明和7)1月、江戸・外記座(げきざ)初演。... 義貞の子義興(よしおき)が奸臣(かんしん)の裏切りで滅んだあと、義興の弟義岑(よしみね)は落武者となり、愛人のうてなを連れて矢口渡の渡し守頓兵衛の家に泊まる。かつて義興を謀殺した頓兵衛は ...
7.塚(つか) http://p.tl/pHeG
土を高く盛り上げたものをいうが、石をもって築いた石塚もある。わが国にはいろいろな目的でつくられた塚があるが、人が足を踏み入れない聖地の標識としたものが多い。... 七人塚についても落武者を葬ったなどの伝説が伝えられている。  塚には上述のように伝説の付随しているものが多いが、行政・経済など実際上の必要から築いたものがある。 ...
8.東京(都) - 社会・文化  http://p.tl/prCL
... とくに南秋川の谷奥にある檜原(ひのはら)村数馬(かずま)は武田氏の落武者集落といわれ、堂々とした草葺(くさぶ)き屋根と大きな破風(はふ)をつけた民家は甲州系のカブト造りで ...
9.朝長(ともなが) http://p.tl/NL_d
能の曲目。二番目・修羅(しゅら)物。五流現行曲。観世元雅(かんぜもとまさ)作とも。... 平治の乱で平清盛(きよもり)に敗れ、落武者となった源義朝父子。義朝の第二子朝長は膝(ひざ)の負傷のため父の手にかかるが、能では自害として描いている。 ...
10.檜原(村)(ひのはら)http://p.tl/ZtBn
東京都の西端、西多摩(にしたま)郡にある村。... 南秋川の最上流の数馬(かずま)は武田氏の落武者集落といわれ、多層構造の兜造(かぶとづくり)民家がある。JR五日市(いつかいち)線の武蔵(むさし)五日市駅(あきる野市)からバスが通じ ...
11.紅皿欠皿(べにざらかけざら) http://p.tl/j_Un
昔話。「シンデレラ」型の継子(ままこ)話の一つ「糠福米福(ぬかぶくこめぶく)」の別称。継子と実子の名前に由来する。関東、東海地方にこの例が多い。... 応仁(おうにん)(1467~69)のころ高田村に住んでいた落武者の子で、姉の継娘は美人、妹の実子は不美人だったので、近所の人が皿に例えて姉を紅皿、妹を欠皿とよんだという。 ...
12.麦や節(むぎやぶし)
富山県の南西端、五箇山(ごかやま)地方の民謡。麦屋節ともいう。五箇山は南砺(なんと)市に属する山あいの秘境で、合掌造と大家族制度、そして平家の落武者の伝説で知られた所。近年は道路が整備され、観光地として脚光を浴びている。この五箇山はまた民謡の宝庫で ...

★五箇山(ごかやま) http://p.tl/2LMn
富山県南西部、庄(しょう)川上流の地方名。南砺(なんと)市に属し、岐阜県と境する。「五箇山」の地名は、庄川本流に沿う赤尾谷(あかおだに)、上梨(かみなし)谷、下梨谷、小谷(おたに)と支流利賀(とが)谷の五つの地域からなることに由来する。庄川の本・支流に面した山麓(さんろく)緩斜地、段丘上に約70の集落が散在する。礪波(となみ)平野とは庄川峡、西は細尾峠、小瀬(おぜ)峠などのある山地で隔絶された谷底盆地で、古来平家の落人(おちゅうど)集落ともいわれたが確証はない。...
★合掌造(がっしょうづくり) http://p.tl/5PFp
二つの材を三角状にあわせた扠首(さす)を合掌という。岐阜県高山市、白川村から富山県南砺(なんと)市にかけての山村農家では、小屋裏を「あま」とよび、蚕室に利用するため、大きな合掌を入れ3階、4階をつくる。
★合掌(がっしょう) http://p.tl/OC41
両方の手のひらをあわせ、胸あるいは額に当てて行う礼拝の表現。サンスクリット語およびパーリ語のアンジャリajaliの訳語。インド古来の敬礼法の一種。その様式には、十指をそろえて手のひらをあわせる通常の合掌、十指を交互に組み合わせる叉十(しやじゆう)、握り手を他方の手で覆う叉手(しゃしゅ)などがあり、いずれも輪と十字に象徴される統合、中心を示している。
★切妻(きりづま) http://p.tl/MaMV
二つの同じ大きさの長方形の平面を合掌形に寄り掛けた屋根形式をいい、あたかも本をなかば開いて伏せたような形である。軒と棟との長さが等しく、隅棟(すみむね)(降り棟)もなく、寄棟(よせむね)、入母屋(いりもや)などに比べ単純な屋根形となる。古く銅鐸(どうたく)に鋳出された高床(たかゆか)家屋や伊勢(いせ)神宮正殿がこの屋根をのせており、...

★平家の落人(へいけのおちうど) http://p.tl/Attm
治承・寿永の乱(源平合戦)において敗北し僻地に隠遁した敗残者のこと。主に平家の一門及びその郎党、平家方に加担した者が挙げられる。平家の落武者ともいうが、落人の中には武士に限らず公卿や女性や子供なども含まれたため、平家の落人というのが一般的である。こうした平家の落人が特定の地域に逃れた伝承を俗に「平家の落人伝説」などという。
・平家の落人とは
今日、日本各地において平家の落人伝説が伝承されている。そもそも平家の落人とは、源氏と平家とが雌雄を決した源平合戦で一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いにおいて平家方が連戦連敗を繰り返した中で発生した平家方の難民であり、残党の追捕から逃れた者が落人となって各地に潜んだことから様々な伝承が伝えられるようになった。武士に限っては平家の落武者と呼ぶ場合もあるが、落ち延びたのは武士だけではないことから平家の落人という言われ方をすることの方が比較的多い。そうした平家の落人が潜んだ地域を平家谷、平家塚、平家の隠れ里、平家の落人の里などという。

★落人(おちゅうど、おちうど) 
合戦に敗れて僻地に隠遁したもの、およびその末裔を指す言葉である。単に落人と言った場合、源平合戦に敗れた平家の郎党およびその末裔を指すことが多い。
山間部の集落においては、平家の落人にまつわる伝承が残っていることが多い。

★落武者(おちむしゃ)とは、戦乱において敗者として生き延び、逃亡する武士である。
落ち延びた先の山間部などに集落を作った例もある。戦国時代における落武者は、首級に対する恩賞や所持品を狙う農民による落武者狩りの対象とされた。 落ち武者は薄の穂にも怖ずという慣用句は怖いと思うと何にでも恐怖を感じるという意味である。
岐阜県や長野県では落ち武者の事を「だいこう」と呼ぶ地域もある。 これは「だいゅう(大夫)」が訛ったものだという説が最も有力視されている。また関西の一部地域では「おちぷはあ」と呼ばれていたが、現在ではほとんどそう呼ぶことはなくなった(差別用語とされる声があるため)。
現代においては、政治などで選挙を戦と例え、それに負けた立候補者を落ち武者と呼び、その候補者が選挙期間中に不正行為を働いていたりして後日、検挙される場合を「落武者狩り」と呼ぶ人もいる。また、頭頂部のみ禿げていて、両サイドの髪を伸ばしている人の事を落ち武者と呼ぶ事もある。

★十三塚(じゅうさんづか) http://p.tl/XhA6
日本列島各地に分布する、民間信仰による土木構造物である。一般には13基の高塚(マウンド)から構成される。また地名となっているところもある。本来は十三仏に由来するとされているが、それぞれの塚の伝承では必ずしもそうなってはおらず、数も13に限定されていない。
・戦死者、落武者ら13人の供養塚ないし墳墓として造られた。

★『七人の侍』(しちにんのさむらい) http://p.tl/vAWN
1954年(昭和29年)に公開された日本映画である。監督は黒澤明。
日本の戦国時代(劇中の台詞によると1586年[1])を舞台とし、野武士の略奪により困窮した百姓に雇われる形で集った七人の侍が、身分差による軋轢を乗り越えながら協力して野武士の一団と戦う物語。
・あらすじ 前編
戦国時代、戦により行き場を失い盗賊と化した野武士(作中では「野伏せり」という言葉が使われる)の一団がある農村を狙っていた。村は前年も野武士に襲われ略奪の憂き目にあっていた。麦が実ったらまた村を襲うことに決めて去る野武士を偶然居合わせた村人が目撃していた。

★のぶせり 【野伏せり/野▼臥せり】
(1)「のぶし(野伏)(2)」に同じ。
(2)山野に伏し、野宿する者。特に、都市およびその近郊に野宿する乞食・浮浪者など。

★のぶし  【野伏/野▼臥】
(1)山野に野宿して修行する僧。山伏。
「仏名の―にてまかり出でて侍りける年/拾遺(雑下詞)」
(2) (「野武士」とも書く)南北朝・室町時代、農民の武装集団。山野に潜伏し、物資を略奪し戦闘にも参加した。戦国時代に大名などが徴発し、戦闘に参加させた者をもいう。のぶせり。
(3) 合戦に先だち小人数で攻撃をしかけること。[日葡]
(4) 定まった住居がなく山野に野宿している者。のぶせり。
「足腰の立たざる―の非人をかたらひ/浮世草子・二十不孝 4」

★釣り野伏せ(つりのぶせ) http://p.tl/Uwgt
戦国時代に九州の戦国大名島津義久により考案・実践されたと言われている戦法の一つ。釣り野伏せり・釣り野伏と呼ばれることもある。なお、大友氏配下の立花道雪など同じ九州の武将も類似した戦法を用いた記述がある。

★『八つ墓村』(やつはかむら)  http://p.tl/IFRq
横溝正史著による長編推理小説。本作を原作とした映画が3本、テレビドラマが6作品、漫画が5作品、舞台が1作品ある(2010年8月現在)。
9度の映像化は横溝作品の中で最多である(次いで『犬神家の一族』が映画3本、ドラマ5本)。
1977年の映画化の際、テレビCMなどで頻繁に流された「祟りじゃ~っ!」というセリフ=キャッチコピーは流行語にもなった。
『本陣殺人事件』(1946年)、『獄門島』(1947年)、『夜歩く』(1948年)に続く名探偵金田一耕助シリーズ長編第4作。
・あらすじ
戦国時代(永禄9年=1566年)のとある小村に、尼子氏の家臣だった8人の落武者たちが財宝とともに逃げ延びてくる。
最初は歓迎していた村人たちだったが、やがて毛利氏による捜索が厳しくなるにつれ災いの種になることを恐れ、また財宝と褒賞に目がくらみ、武者達を皆殺しにしてしまう。
武者大将は死に際に「この村を呪ってやる! 末代までも祟ってやる!」と呪詛の言葉を残す。
その後、村では奇妙な出来事が相次ぎ、祟りを恐れた村人たちは野ざらしになっていた武者達の遺体を手厚く葬るとともに村の守り神とした。
これが「八つ墓明神」となり、いつの頃からか村は「八つ墓村」と呼ばれるようになった。

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