2013年12月11日水曜日
●ひだりじんごろう【左 甚五郎】
●ひだりじんごろう【左 甚五郎】
◆左 甚五郎(ひだり じんごろう、ひだの じんごろう)http://p.tl/_wyp
江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人。落語や講談で有名であり、左甚五郎作と伝えられる作品も各地にある。講談では地元の大工に腕の良さを妬まれて右腕を切り落とされたため、また、左利きであったために左という姓を名乗ったという説もある。
日光東照宮の眠り猫をはじめ、甚五郎作といわれる彫り物は全国各地に100ヶ所近くある。しかし、その製作年間は安土桃山時代~江戸時代後期まで300年にも及び、出身地もさまざまであるので、左甚五郎とは一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたようである。
◆左甚五郎 歌舞伎・浄瑠璃外題辞典
読み方:ヒダリジンゴロウ
初演 宝暦1.2(江戸・市村座)
★★★★★
・左甚五郎
読み方:ヒダリジンゴロウ
初演 寛政3.3(大坂・北堀江芝居)
◆左甚五郎 短編小説作品名辞典
作者大日本雄弁会講談社
収載図書少年小説大系 別巻2 少年講談集
出版社三一書房
刊行年月1995.3
◆ひだり‐じんごろう 〔‐ジンゴラウ〕 【左甚五郎】 デジタル大辞泉
江戸初期の宮大工・彫刻師。播磨(はりま)の人。姓は伊丹、名は利勝。京都の禁裏大工棟梁遊左与平次の弟子。寺社の造営・宮彫(みやぼり)にすぐれ、日光東照宮の「眠り猫」の作者とされているが、根拠はない。生没年未詳。
◆朝日日本歴史人物事典の解説.
江戸時代に彫物の名手として知られた人物で,日光東照宮の眠り猫,東京上野東照宮の竜など,甚五郎の作品と伝えられる彫物は全国に多数存在する。黒川道祐の『遠碧軒記』(1675)によると,「左の甚五郎と云もの」が「左の手にて細工を上手に」し,京都の北野神社の透彫や豊国神社の竜の彫物を作ったという。この当時すでに甚五郎に関する伝承があったことを示すが,左は姓ではなく左手を示したこともわかる。四国高松の生駒家の分限帳(寛永10〈1633〉年,同16年の2種)に大工頭の甚五郎の名があり,その墓とされるものも現存するが,墓は古いものではない。いずれにせよ甚五郎は伝承上の人物で,庶民の間に生まれた英雄伝説の一種と考えるべきである。江戸中期以降,神社や寺院に彫物を多用することが流行し,これが伝説と結び付いたのであろう。
(西和夫)
◆ひだりじんごろう【左甚五郎】 世界大百科事典
江戸時代の彫物の名人と伝えられる人物。日光東照宮の眠り猫,東京上野東照宮の竜など,甚五郎作と伝えられる彫物は全国に多数ある。竜の彫物が毎夜池におりて水を飲んだなど,甚五郎あるいはその作品にまつわる伝説は多く,講談,歌舞伎,落語などにとりあげられている。しかし作品の量の多さや江戸初期から末期にわたる伝承の内容から考えて,実在したと仮定すると何人もの甚五郎がいたことになる。 黒川道祐の《遠碧軒記》には,〈左の甚五郎と云(いう)もの〉が〈左の手にて細工を上手に〉し,京都の北野神社の透彫や豊国神社の竜の彫物がその作品だと書かれており,この時代にすでに甚五郎の存在を語る伝承があったことが判明する。
◆左甚五郎 ひだり-じんごろう デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説.
江戸時代前期の建築彫刻の名人とつたえられる人物。
寛永(1624-44)のころ活躍したという。各地に甚五郎とその作品にまつわる伝説があり,出身地も播磨(はりま)(兵庫県)明石,紀伊(きい)根来(ねごろ)(和歌山県),讃岐(さぬき)高松など諸説がある。日光東照宮の「眠り猫」,東京上野東照宮の「昇り竜」などが,その作品とされる。生没年に文禄(ぶんろく)3-慶安4年(1594-1651)説がある。
◆世界大百科事典内の左甚五郎の言及.
【河童】より
… 各地に伝わる河童起源譚のうちで,最も広く流布しているのが,人造人間説である。たとえば天草地方に伝わる話では,左甚五郎が城を造る際,期限内の完成が危ぶまれたので,多くの藁人形を作って生命を吹き込み,その加勢を得てめでたく完成したが,その藁人形の始末に困り,川に捨てようとしたところ,人形たちが,これからさき何を食べたらよいか,と問うたので,甚五郎は〈人の尻を食え〉と言った。それが河童となったという。…
◆伝 左甚五郎「眠り猫 - KIRIN~美の巨人たち~ http://p.tl/3ozg
江戸時代、庶民が一生に一度は訪れたいと願っていた徳川家康を祀る日光東照宮。有名な陽明門の奥に朱色が美しい東回廊があります。
昭和26年にその回廊全体が国宝に指定されました。その回廊の中ほど、家康が眠る奥宮の入り口にある『眠り猫』。札がなければ通り過ぎてしまうほどの小さな彫刻です。国宝とされるこの猫は、咲き誇る牡丹の花の下で穏やかな表情で眠っています。
◆左甚五郎の忘れ傘 京都府の民話 <福娘童話集 きょうの日本昔話> http://p.tl/Kdrl
むかしむかし、日本一の名工と名高い左甚五郎(ひだりじんごろう)が、京都の知恩院(ちおんいん)というお寺の本堂を完成させた時、それを見た都の人たちが、そのあまりの見事さにこんなうわさをしました。
「さすがは、左甚五郎。見事な出来だ」
「ああ、ここには、一点の欠点もない」
「しかし、あまりにも完全すぎると、それを知った神さまが嫉妬(しっと)して、不幸を起こすと言うぞ」
もちろん、この言い伝えを知っていた左甚五郎は、この仕事がまだ不完全であるかのように見せかけるために、お堂の屋根の瓦を二枚、わざとつけなかったのです。
そしてさらに自分が使っている唐傘(からかさ)を、わざと本堂のわきに置いて帰りました。
◆左甚五郎 http://p.tl/ZIny
「左甚五郎」という名を聞いたことがあるだろうか。大工、または彫刻の世界で日本一の名人といえば、後にも前にもこの人にとどめを刺すだろう。 甚五郎は、1600年後半から1600年代初頭の人。播州明石で生まれ、飛騨山脈で鑿の修行をしたといわれる。
◆落語 「左甚五郎」 三遊亭圓生(六代目) - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=pSK6hfOolgo
◆慶安四年(1651年)4月28日、江戸時代初期に活躍した彫刻師・左甚五郎が57歳でこの世を去りました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ http://p.tl/vQ_z
・・・と言っても、架空の人物説まである謎の人物です。
日光東照宮の「眠り猫」を代表に、江戸初期の神社仏閣などには、左甚五郎(ひだりじんごろう)の作品と称される物がいくつかあるものの、その経歴や人となりなどはまったくわからず、人物像が浮かんで来ないのです。
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