2013年12月31日火曜日
『ベルギーと日本』=ねずさんのひとりごと=
『ベルギーと日本』=ねずさんのひとりごと=
歳末になりましたので、すこし暖かなお話を。
ベルギーのことです。
最近の海外旅行はベルギーが人気なのだそうです。
ベルギーは、英国海峡に面しフランスとドイツオランダ、ルクセンブルグと国境を接する人口約一千万人の王国で、童話の「青い鳥」の原作者のメーテルリンクは、ベルギーの出身だし、フランダースの犬でおなじみのフランダース地方は、まさにベルギーのアントワープ地方とその近郊のことをいいます。
街は、まるで童話の世界のようです。
また、自転車好きな方ならおなじみのロードレースも、ベルギーが発祥の地です。
オートバイのモトクロス競技も同じくベルギーが発祥です。
実は、そのベルギー王国は、たいへんな親日国です。
なぜでしょうか。
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日本がベルギーと国交を持ったのは、慶応2(1866)年の日本国白耳義(ベルギー)国修好通商及び航海条約の調印が始まりです。
明治26(1893)年、アルベール・ダネタン男爵が特命全権公使として来日しました。
氏はその後16年間にわたって日本に駐在し、世界における日本の地位向上のために努めてくださいました。
例えば日清戦争で日本が旅順港を占領したとき、米国のワールド紙などは、「日本が現地で無辜の住民を6万人も虐殺している」と報じました。
ところがこのときアルベール・ダネタン男爵が、事の真偽を確かめようと調査に乗り出し、結局この報道は米国記者による捏造記事であることを突き止めたのです。
ダネダン公使は、その日のうちにべルギー本国政府に報告書を送りました。
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日本は敵兵であっても傷病者に配慮し、赤十字は皇后陛下の後援のもとで完璧なまでに仕事を遂行し、ジュネーブ協定を遵守している。
これはアジア人の間の戦争においてはおそらく初めてであろうと思われる。
その場に居合わせたフランス武官・ラブリ子爵から直接聞いたところ、殺されたのは軍服を脱いだ兵士たちである。つまり「婦女子が殺された」というのは真実ではない。
ほとんどの住民は占領前に避難を済ませている。
町に残っていたのは兵士と工廠の職工だけだしかない。
日本兵は無残に扱われた戦友の死骸を見ながら、敵を捕虜にするだけにとどめたのである。
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当時支那兵は、捕らえた相手国兵士を殺して、遺体をバラバラに切断して吊るして、これを食べたりしていました。
そのことは当時の東洋を知る白人たちの常識でした。
要するに人種差別が絶対だった時代において、東洋人=支那人であり野蛮人だというのがまさに白人たちにとっての常識だったわけです。
先日も書きましたが、そもそも西欧には、ヘロドトス以来のアジア人=恐怖のサタン族という伝統的な見方があります。
つまり、欧米の世界支配が支那に至ったとき、まさにそれは現実となったし、実証されたのです。
「日本も同じことをしている」という米国記者の報道は、欧米諸国に「なるほど」と充分に思わせるものがありました。
「日本人は公正と報じられているけれど、なあんだ、日本人も同じじゃないか。やっぱり有色人種だからねえ」というわけです。
ですから米国人記者による捏造報道は、そのまま各国の新聞に転載され、欧米中に拡散され、「日本人も支那人と同じ野蛮人」と白人諸国の多くの人々に納得を与えていたのです。
ところがベルギーのダネタン公使は、自ら現地調査を行い、事実はまるで正反対で、日本はきわめて公正な振る舞いをしていたし、実に立派な行動を示していたことを見事に立証しました。
男爵は、何も格別なことをしたわけではありません。
自分の足で調査をし、調査の結果わかった事実を淡々とありのままに、本国に報告しただけのことです。
ところが当時の世界において、日本が支那人と異なり、きわめて「公正」であるということが、社会的地位のある白人によって立証されたということは、とても重要なことでした。
こういうことは、当事者である日本人がいくら否定しても、笑い者になるだけです。
野蛮人がまた嘘を言っているとしか思われない。
けれど、白人であり、社会的地位のあるダネダン公使の報告は、違いました。
日本の名誉、ひいては日本人の名誉を見事に守ったのです。
ダネタン公使は、日露戦争でもロシア兵捕虜が虐待されているという海外メディアの虚偽報道を是正する報告を流してくれました。
また夫人のエリアノーラ・メアリー・ダネタンは、日本滞在中の日常の見聞を、「ベルギー公使夫人の明治日記」という本に遺し、この本は当時の外交関係者の動向や社交界の様子を客観的に伝える貴重な資料となりました。
そのダネタン公使夫妻が任務を終えて帰国したのが明治43(1910)年のことなのですが、その4年後の大正3(1914)年に、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発しました。
第一次世界大戦においてドイツは、フランスを攻めるためにベルギー領内を通過しました。
ベルギーは、永世中立を宣言した国です。
ところがいくら中立宣言をしていても、ドイツ軍の通過を認めれば、それはベルギーがドイツの肩をもったことになります。
これは「ベルギーは中立である」という姿勢に反することになります。
ですからベルギーは、ドイツに敢然と立ち向かいました。
これは重要なポイントです。
なぜなら「中立」を守るということは、たとえそれが強大なドイツ帝国であったとしても、敢然と立ち向かわなくてはならないという意志を必要とするものだからです。
非道が行われ、蹂躙されても何もしないということと、「中立」であることは全然違うということなのです。
このことを考えれば、日露戦争(1904年)時における当時の大韓民国(朝鮮)のだらしなさがよくわかります。
当時の大韓民国は、その時点ではまだ日本に併合された日本統治領ではなく、自称であれなんであれ、あくまで独立国(日韓併合は1910年)を標榜していました。
けれど彼らは、日露戦争における日本軍の大韓民国領土の通過に何の反応も示していません。
もっというなら、国際世論も、そのことに何の反応も示していません。
これが何を意味するかというと、当時の世界から見た大韓民国は、世界からみたら無主地同然の扱いでしかなかったということです。
また清国も、日本軍の朝鮮半島通過を黙って見過ごしています。
つまり、彼らには、国民国家としての尊厳もなければ、国家としての意識さえも、カケラもなかったということです。
戦後の日本も同じです。
戦わず、中立でもなく、ただ戦争放棄を歌うということは、国際的にみれば、日本は国家としても民族としても何の尊厳をもたない、ただの無主地に他ならないということです。
たまたま日本は四方を海に囲まれ、米軍の保護下にあって、しかも戦時中にあまりにも勇敢だったから、襲撃や領土通過の脅威にさらされずに済んだだけで、では戦後の平和がこのままの状態でいつまでも温存できるかといえば、それは「違う」ということです。
ベルギーは戦いました。
中立を標榜した以上、たとえ相手がいかなる強国であったとしても、自国を勝手に通過することは許さない。それが自尊自立ということです。
ペルギーは、ドイツ軍の侵入に対して、国をあげて敢然と立ちあがったのです。
繰り返しになりますが、中立というのは、ただ「戦わない」というひ弱な精神ではありません。
どこにも組みしないということは、どこの国からの干渉も絶対に認めないし許さないという強靭な意思を伴うものだということです。
その気概と行動がないなら、中立など成立しえないのです。
当時のドイツ軍は、圧倒的強国です。
ベルギー軍の抵抗もむなしく、領内は次々と侵略されました。
ついにベルギー国王の国王アルべール一世は、フランスとの国境にあるフェルヌに近い寒村にまで追いつめられました。
しかし国王は、絶対に降伏しませんでした。
自ら銃をとって戦い、傷ついた将兵を慰め、不眠不休の戦いを続けていました。
そして連日のベルギーのこうした勇敢な報道に接した日本は、勇敢に戦うべルギー国民を激励しようと、ついに支援活動に立ち上がったのです。
当時の朝日新聞社長の村山龍平は、「中立を蹂躙せられ国歩艱難を極めつも、親しく陣中に在はして将卒と共に惨苦を嘗め給へる白耳義(ベルギー)皇帝アルバート陛下の勇武を欣仰するために、愛蔵の日本刀一振りを口ンドン駐在の特派員杉村楚人冠を通じて献上(大正3年11月7日付大阪朝日新聞)」しました。
また日本国内の新聞各紙をはじめ雑誌その他の刊行物を通じて、苦衷に立つべルギーへの支援活動が日本国内で熱烈に展開されました。
大正8(1918)年、第一次世界大戦が終わった4年後、関東大震災が起きました。
この大震災の二ュースは世界各国に報道され、諸外国から援助の手が差し伸べられることとなったのですが、このとき、群を抜く支援活動をしてくれたのが、べルギー王国でした。
9月3日の震災の報道を受けたべルギーでは、5日には「日本人救済べルギー国内委員会」が結成されました。
上智大学教授の磯見辰典氏によれば、当時、ベルギー国内で、音楽会、講演会、バザー、さらに「日本の日」が各地で催され、新聞はもとより、カトリック教会もこのキャンぺーンに積極的に参加し、なんと約264万2千フラン(日本円で約220億円)を集めて日本に贈ってくれたのです。
これは米英に次ぐ、多額の援助金でした。
ベルギーは、人口わずか1千万の国です。
米国3億人、英国6千万人であることを考えると、いかに大きな貢献をしてくれたかがわかります。
(東日本大震災当時の台湾と同じです)
このときべルギー国内で配布された「元兵士へ」(1923年)と題する日本への支援を訴えた文書が、いまに残っています。
この文書を見ると、9年前の第一次世界大戦の際、ドイツ軍の侵略と戦うべルギー軍兵士に対して数々の援助を尽くしてくれた日本人への賛辞が述べられ、べルギーの元兵士はこのときの恩義を今こそ日本に返そうではないかという趣旨が書かれています。
つまり、あの厳しい戦いであった第一次大戦のときのことを、ベルギーの人々はしっかりと覚えていてくれたのです。
下の絵は、有島生馬画伯が描いた関東大震災の絵です。
この絵の右側に、一台の車があり、その横に双眼鏡を手にした山本権兵衛首相が描かれています。
そしてそのすぐ脇に、オフホワイトの背広を着て、赤い洋服を着た小さな女の子が描かれています。
この二人は、背広姿の紳士が日本駐在べルギー大使のバッソンピエール男爵、小さな女の子が有島画伯の姪の皎子(きょうこ)さんです。
有島画伯は、震災における日本支援の象徴として、当時の内閣総理大臣の山本権兵衛、日本支援の象徴としてベルギー公使のバッソンピエール男爵、そして絵を書いた有島画伯の姪の三人を絵にしています。
国際日本人養成講座の(たぶん伊能さんだと思うのですが)、このベルギーと日本の関係を書いたメルマガの冒頭に、次の文章がありました。
〜〜〜〜〜〜
わが国の近代外交史に関する教科書記述の大半は、いわゆる「脱亜入欧」の方針のもと欧米列強と同様の帝国主義路線を邁進し、ついに第二次世界大戦によってその野望は破綻したと見る図式が基調をなしていると見てよかろう。
そうした物差しを当て嵌めて近代史を見てしまうから、わが国が近代の当初に、列強とはひと味違う国々に国作りの手本を求めたり、また親密な交流の歴史を刻んでいた史実などは切り捨てられて顧みられないのである。
わが国はけっして大国志向だけの路線を突っ走ってきたわけではない。
近代化のための様々な選択肢を模索しながら二十世紀を生き抜いてきたのである。
〜〜〜〜〜〜
まさにこの文にある通りで、最近の教科書や歴史学会では、あたかも戦前の日本が軍国主義への道をひた走りに走ったかの如く書かれているものが目立ちます。
大きな間違いです。
以前「奴隷制度と人種排除」の記事(http://p.tl/dL4q)の記事の中で、安政4(1857)年の米最高裁が、 「黒人ならびにその子孫は、所有者の財産であって、合衆国の市民ではない」 という判決を出したことを紹介しました。
このことは、たいへんに象徴的です。
要するに当時の世界の常識は、カラード(有色人種)は、人ではなく「動産」だったということであり、「動産」であるということは、人とのしての権利を持つ「人間」ではないとみなされていたということだからです。
日本人も「人間」ではなく、一般的には、蛮族であり、獣とみなされました。
けれど、そのとき日本がどうしたかというと、それに対して抗議の声をあげるとか、妙な宣伝活動をするとか、相手国の悪口を言うとかという行動はとっていません。
私達の先人達は、ただひたすらに日本にもとからある「公正」さを培い、それを黙々と実践しました。
世界の良心が、それを見て目覚め、自然と日本人を対等な「人間」であり「隣人」であり「友人」と認めてくれるように、ただひたすらに努力を重ねたのです。
日清戦争を観戦したフランスの国際法学者ポール・フォーシーユは、次の言葉を残しています。
〜〜〜〜〜〜〜
日本は、単に自国に法制度を施行して文明国に列しようとしているだけではなく、国際法上においても、まさに文明国であり文明人であることを見事に証明した。
すなわち日清戦争において、清軍はあからさまに国際法を無視したけれど、日本軍は国際法をどこまでも尊重した。
日本の軍隊は、慈悲をもって捕虜を待遇し、敵の負傷者を見つけては救護を拒まなかった。
日本は未だ1868年12月11日のセントピータスブルグ宣言(害敵手段を制限する取り決め)に加盟していないけれど、相手国兵士に無用の苦痛を与える兵器の使用を避けた。
また、あえて敵対しない住民の生命財産を保護する事にもすこぶる注意を払った。
日本は、未だどこの国もしなかった事をしてみせた。
その仁政を熱心に行う余り、ついには敵国の住民の租税を免じ、敵国民から対価を得ることなしに彼らを給養してしまった。
兵士の間ですらも人命を重んじることに極めて厚く、人々を救済する策を惜しむことはなかった。
見るがいい!
日本軍の通過する所には、必ず衛生法を守らせる為の規則が布告されている事を!!
戦前の日本は軍国主義に走ったのではありません。
私達の先人は、「公正」と「人道」と「信義」を大切にし、日本をむしろ世界の模範となれるよう、必死の自制と努力を重ねたのです。
そうすることで世界の良心が、むしろ積極的に日本を認めざるをえないよう、努力を重ねてた。
それが明治から先の大戦にいたるまでの日本の姿です。
その結果、戦うべきときには戦わざるを得なかったし(それをしなければ、ただの無能な馬鹿とみなされた)、そのための軍備を整えたのです。
戦後の歴史解釈が逆なのです。
「笑いの石垣」という有名な小話があります。
概略、次のようなお話です。
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熊野には、石垣が沢山ありました。
あるとき八幡社の裏手に、石垣を積もうという話になりました。
高さ10メートル、幅30メートルの2段積みといいますから、たいそう立派な石垣です。
ところがその石垣の下に住む村人から、
「危険だから止めてもらいたい」と言う抗議が出たのです。
その時の石屋さんの証書が残っています。
そこに書かれていたのは、
「万が一崩れた時は、お笑い下されたく候」でした。
〜〜〜〜〜
昔の人は、人に笑われるのを最大の恥とした、そのことで村人たちも納得したというのです。
それほどまでに、日本人は民度が高かったのです。
戦地における弾薬不足という非常事態を起こして、緊急事態だからと日本に弾薬補給を要請して助けてもらいながら、あとになって「あれは要らなかった。日本が勝手にしたことだ」といい加減なデタラメを公式に発言するような野蛮な国とは違うんです。
同様のことは、明治10(1877)年から明治13年まで日本に滞在し、東大で生物学を教えた米国の生物学者エドワード・S・モースも、日本での体験として次の言葉を残しています。
〜〜〜〜〜
「私が帰るまで金と時計をあずかってくれぬか」と亭主にたのんだら、亭主は快く承知した。
召使が一人「ふたの無い浅い塗り盆」を持って私の部屋へ来て、それが私の所有品をいれるものだといった。
で、それ等を彼女が出している盆に入れると、彼女はその盆を畳の上に置いたまま出て行った。
私はいうまでもないが、彼女がそれを主人の所へ持って行き、主人は何等かの方法でそれを保護するものと思って、じりじりしながら待っていた。
ところが召使は帰ってこない。
私は彼女を呼んで、何故盆をここに置いて行くのかと訊ねた。
彼女はここに置いてもいいのですと答えた。
私は主人を呼んだ。
彼もまたここに置いても絶対に安全であり、彼はこれ等を入れる金庫も他の品物も、持っていないのといった。
未だかつて日本中のいかなる襖にも、錠も鍵もかんぬきも見たことが無い事実からして、この国民が如何に正直であるかを理解した私は、この実験をあえてしてみようと決心した。
恐らく私の留守中に何回か客が入るであろうし、また家中の召使でも投宿客でも、楽々と入り得るこの部屋のふたの無い盆に、銀貨と紙幣とで八〇ドル、それに金時計とを入れたものを残して私は出発した。
私達は一週間にわたる旅をしたのであるが、帰ってみると時計はいうに及ばず、小銭の一セントにいたるまで、私が残して行った時と全く同様にふたの無い盆に載っていた。
(中略)
人々が正直である国にいることは実に気持がよい。
私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。
錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りしても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。
私の大外套と春の外套をクリーニングするために持って行った召使いは、間もなくポケットの一つに小銭若干が入っていたのに気がついてそれを持って来たが、また今度はサンフランシスコの乗合馬車の切符を三枚持って来た。
〜〜〜〜〜
同様のことは、他の数多くの日本を訪れた外国人が記録として残しています。
つまり、もともと日本は、きわめて治安が良く、民度がたいへんに高かったのです。
だからこそ、日本は、その高い民度のままに、「公正」と「人道」と「信義」を世界の中にあっても貫き通しました。
そのことによって、日本は、まさに世界に認められる国となり、ついに明治35(1902)年には、当時の世界の最強国である英国と対等な軍事同盟を締結するに至っています。
白人国家の代表である世界最強の大英帝国と、東洋の有色人種国家である日本が「対等な同盟」をするというのは、これこそ世界史に残る大事件です。
なぜなら、「カラード=猿」とみなすことが世界の常識であった時代に、人間の代表が猿と同盟を結んだということだからです。
言い換えれば、それが実現できるほどまでに、日本は優れた人種国家であると世界が認めた、ということです。
ベルギーは、もともとハプスブルグ家の飛び地領土だったネーデルランドです。
レオポルド一世が立憲君主に即位することで、ベルギー王国となったのが、天保2(1831)年です。
つまり、日本と通商条約を締結した、わずか35年前に独立した国家です。
そしてそのベルギーは、道義と公正を目指す国家建設にあたり、日本を模範としたともいわれています。
道徳心が高く公正な日本は、欧州における新国家建設の模範となりうる国家でもあったのです。
私達の先人達は、日本をして軍国主義、大国主義を指向しようとしたのではありません。
日本にもとからある「公正」と「人道」と「信義」の文化を護り、伝統と歴史ある日本を守るために誇りをもって努力を積み重ねてきた。
それが、日本です。
そしてベルギーが親日的なのは、戦後の日本がお金持ちになったからでは、ない、ということも知っておく必要があります。
戦前の日本が、公正、人道、信義の3つを大切にした。
そのことがベルギーをして、いまも親日国にしてくれている。
そういうことを、わたしたちは歴史に学ぶ必要があると思います。
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