2012年9月20日木曜日

●日記●記録●日次(ひなみ)記●日録(にちろく)●

●日記●記録●日次(ひなみ)記●日録(にちろく)●
★日記(にっき) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
日々のできごとや感想を毎日記したもの。「にき」とも読み、日次(ひなみ)記、日録(にちろく)などともいう。日本史の文献史料としては狭義の記録と同義に用いられる。古文書と並ぶ重要な史料である。 [ 執筆者:編集部 ]
★記録(きろく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
広い意味では、物事を書き記したものはすべて記録といえるが、とくに日本史の文献史料に限定すれば、不特定多数の読者をあらかじめ想定している著作物・編纂物(へんさんぶつ)や、相手に意志を伝達するために書く文書(もんじょ)に対して、個人もしくは特定の機関が備忘のために書くものを記録と称する。その中心となるのは、日々のできごとを毎日記してゆく日記、すなわち日次記(ひなみき)であるが、特別な行事の際に、日次記のほかに行事の次第を別に詳しく記録した別記、さらには日次記・別記をもとに、その記載内容を事項別に分類・編集した部類記も記録のなかに含まれる。すなわち記録とは、狭い意味では日記と同義に用いられる語である。日記は、公的な日記と私日記に大別できる。公的な日記としては、『養老令(ようろうりょう)』の職員(しきいん)令に、中務(なかつかさ)省の内記が「御所記録」をつかさどると規定されているのをはじめ、太政官(だいじょうかん)の外記(げき)が記録する外記日記、当番の蔵人(くろうど)が職掌として書きとどめる殿上(てんじょう)日記などが古くより知られるが、そのほか江戸時代に至るまで、『御湯殿上(おゆどののうえ)日記』『禁裏番衆所(きんりばんしゅうじょ)日記』『禁裏執次詰所(きんりとりつぎつめしょ)日記』『院中番衆所日記』『仙洞(せんとう)御所詰所日記』『議奏日次案』など多くの公的な日記が現れた。一方、私日記は、『日本書紀』斉明(さいめい)紀などに引かれ、遣唐使の往還に関して記録した『伊吉連博徳書(いきのむらじはかとこのふみ)』『難波吉士男人(なにわのきしおひと)書』、また『釈日本紀』所引の、壬申(じんしん)の乱に関する日記である『安斗智徳(あとのちとこ)日記』『調連淡海(つきのむらじおうみ)日記』『和邇部臣君手(わにべのおみきみて)記』などが現在知られるもっとも古いものであり、また奈良時代には746年(天平18)の具注暦(ぐちゅうれき)に書き込まれた日記が正倉院文書のなかに伝わっているが、とくに10世紀以後、宮廷の儀式の作法がしだいに形成されるに伴い、それら儀礼を子孫に伝える必要上、公家(くげ)の私日記が数多く書かれるようになった。また儀式典礼の典拠とするために先人の日記を書写し、所持しておくことは公家の重要な任務の一つとされたから、必然的に多数の日記の写本がつくられ、あるいは儀式ごとに日記の記事を分類して編集した部類記、日記中の必要な記事を抜き出した抄出本も作成された。今日まで多くの日記が写本や抄出本などの形で伝来しえたのは、公家社会において日記が担ったこのような意義に負うところが少なくない。私日記の記載内容は、記主の身分や地位によって異なるものの、日記を書く目的は多かれ少なかれ朝廷の儀式作法を正確に記録して将来に備えるところにあったから、公家社会や宮廷に関する歴史的事実を的確に把握するためには、日記はもっとも重要な文献史料となる。古代・中世の日記は『史料大成』『大日本古記録』『史料纂集』などに収められて、かなり多くのものが刊行されているが、江戸時代の膨大な数に上る日記はほとんど未刊の状態である。 [ 執筆者:吉岡眞之 ]
★古文書(こもんじょ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .   http://p.tl/_ni1
歴史資料の一つ。 [ 執筆者:千々和到 ]
★日記文学(にっきぶんがく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .http://p.tl/OPQc

★日次【ヒツギ】デジタル大辞泉
1 毎日。日ごと。また、日々のこと。「吹き渡す比良の吹雪の寒くとも―の御狩せでやまめやは」〈堀河百首〉
2 毎日奉る貢ぎ物。「朝まだき桐生(きりふ)の岡に立つきじは千代の―の始めなりけり」〈拾遺・賀〉
3 日がら。日ついで。「なほ今日わたり給へ。―もあしければ」〈成尋母集・詞書〉
★日次記【ひなみき】世界大百科事典 第2版
日々のできごとを日次を追って書きついでゆく日記。古くは具注暦の暦面に書かれることが多かったので〈暦記〉とも称された。これに対し特定の事柄について詳細な記録を残すため書かれたものを〈別記〉という。《政事要略》に引載する790年(延暦9)の追儺の〈外記別日記〉は,すでに平安時代の初めに日次記と別記の並存したことを物語っている。藤原師輔の《九条殿遺誡》にも,毎日起床後まず昨日のことを暦記に注すべきこと,要枢の公事については別に詳しく書きしるして後鑑に備うべきことをおしえている。 日記のこと。
★日次紀事【ひなみきじ】世界大百科事典 第2版
江戸前期の京都を中心とする朝野公私の年中行事解説書。黒川道祐編。1676年(延宝4)林鵞峰序。中国明朝の《月令広義》にならって編集されているが,民間の習俗行事を積極的に採録したのが特徴。正月から各月ごとに,毎月1日から月末まで日をおい,節序,神事,公事,人事,忌日,法会,開帳の項を立て,それぞれ行事の由来や現況を解説している。しかし,神事や儀式には非公開をたてまえとするものもあり,出版後まもなく絶板の処分をうけた。
・百科事典マイペディアの解説.
江戸前期の京都を中心とする年中行事の解説書。12巻12冊。黒川道祐(くろかわどうゆう)編。1676年林鵞峰(はやしがほう)序。月ごとに日を追って節序・神事・公事・人事・忌日・法会・開帳の項を立て,行事の由来や現況を解説する。
★日次紀事【ひなみきじ】http://p.tl/Rddx
京都を中心に記した年中行事の解説書。
★議奏日次案(ぎそうひなみあん)http://p.tl/h0I8
江戸時代に議奏が日々の公務に関して記述した公的日記のこと。

★蔭凉軒日録(いんりょうけんにちろく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
相国(しょうこく)寺鹿苑(ろくおん)院内の蔭凉軒主がしるした公用日記。足利義満(あしかがよしみつ)は禅宗寺院の人事行政を総轄する僧録(そうろく)の職を置き、これを鹿苑院に住まわせ、義持(よしもち)はその南に、参禅聴講のため蔭凉軒を創設した。その蔭凉軒の留守居(るすい)役をやがて蔭凉軒主とよぶようになるが、軒主は鹿苑僧録を補佐し、僧事に関する将軍への披露取次を行い、一時は僧録をもしのぐ勢力を誇った。日記の中心記事は僧職の任免で、現存するのは季瓊真蘂(きけいしんずい)、益之宗箴(えきしそうしん)、亀泉集證(きせんしゅうしょう)の時期、すなわち1435年(永享7)から93年(明応2)までの断続的な記録である。ただし益之の時期の分は亀泉の筆になる。また継之景俊(けいしけいしゅん)の日記が『鹿苑日録』に混入し、1553年(天文22)から72年(元亀3)までの記事が断片的に残されている。原本は関東大震災によって焼失したが、尊経閣(そんけいかく)文庫にその影写本が架蔵されている。『大日本仏教全書』本は多くの錯誤を含むが、『増補続史料大成』本で訂正されている。 [ 執筆者:田中博美 ]
★にち‐ろく【日録】
日々の記録。日記。
★日録 - dagboek voor mijn onderzoekingsleven    http://p.tl/4JIo
★春秋堂日録        http://p.tl/Cqgf

★鹿苑日録【ろくおんにちろく】世界大百科事典     http://p.tl/uQN3
京都相国(しようこく)寺鹿苑院主の歴代の日記。1487‐1651年(長享1‐慶安4)の景徐周麟(けいじよしゆうりん),梅叔法霖(ばいしゆくほうりん),西笑承兌(さいしようしようたい),有節瑞保(ゆうせつずいほ),昕叔顕晫(きんしゆくけんたく)の日記を年代順に編集し,文書案や詩集の断簡を付加したもの。彼らが僧録を務めたことから禅宗寺院の人事が詳記され,室町幕府の日明貿易に関する事柄や室町末期から江戸初期の京都の社会情勢を知る上でも貴重。

★蔭涼軒日録【いんりょうけんにちろく】世界大百科事典   http://p.tl/EcZM
相国寺塔頭(たつちゆう)鹿苑院(ろくおんいん)蔭涼軒主歴代の日記。〈おんりょうけんにちろく〉とも読みならわす。前半の1435‐41年(永享7‐嘉吉1)と1458‐66年(長禄2‐文正1)が季瓊真蘂(きけいしんずい),後半の1484‐93年(文明16‐明応2)が亀泉集証(きせんしゆうしよう)の筆録である。また,《鹿苑日録》中に〈鹿苑院古文案〉として継之景俊(けいしけいしゆん)の日録が断片的に残っている。

★唐通事会所日録【とうつうじかいしょにちろく】世界大百科事典
長崎における唐通事仲間の執務日記。写本10冊。記事は1663年(寛文3)から1715年(正徳5)に及ぶ。ただし第2冊を欠く。唐通事会所の設立は1751年(宝暦1)で,それ以前は年番唐大通事の自宅が役所として使用されていた。内容は,唐船貿易,在崎唐人の動静,オランダ通詞関係,長崎関係一般情報など。とくに長崎奉行との交渉関係記事は詳細である。《大日本近世史料》に収録。【片桐 一男】

★碧山日録【へきざんにちろく】世界大百科事典   http://p.tl/jwrd
室町時代の日記。5巻。筆者は東福寺内の霊隠軒主太極。1459‐63年(長禄3‐寛正4)と65年,68年(応仁2)の記事が伝存。応仁の乱前夜の幕府政治の乱れと,京都近郊の社会不安を活写する。ことに61年の寛正大飢饉で洛中餓死者8万人が出たことや,清水寺の勧進僧願阿の救済活動などを記録するほか,応仁の乱中の足軽の活躍や,山城木幡郷の郷民の動向等,下層民の記事が生彩に富む。《増補続史料大成》所収。【今谷 明】

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