2012年9月18日火曜日

●太公望(たいこうぼう)

●太公望(たいこうぼう)
★呂 尚(りょ しょう)http://p.tl/htIq
紀元前11世紀ごろに活躍した周の軍師、後に斉の始祖。姓は姜、氏は呂、名は尚または望、字は子牙または牙。謚は太公。斉太公、姜太公とも呼ばれる。一般的には、太公望(たいこうぼう)という呼び名でも知られる。
太公望という別名は、一般的には渭水で釣りをしていたところを文王が「これぞわが太公 (祖父)が待ち望んでいた人物である」と言って召し抱えたという話に由来 ... 一方、中国 で「太公望の魚釣り」(太公釣魚)と言えば、「下手の横好き」と言うニュアンスである。
★史上最も有名な奥さんに逃げられた人・太公望   http://p.tl/WMkb
★太公望(たいこうぼう)の意味・語源・由来を解説。
【意味】 太公望とは、釣りをする人。釣り好きな人。
【太公望の語源・由来】
太公望は、周代の政治家であった呂尚(りょしょう)の別名。
出典は中国の『史記(斉世家)』。
呂尚は大変な釣り好きで、渭水(いすい)という川で釣りをしていたところ、周の文王に「我が太公(周の祖)が<b>望</b>んでいた賢人だ」と見いだされたという故事から、呂尚の釣り好きにちなんで、釣り人や釣り好きな人を「太公望」と呼ぶようになった。
★はてなキーワード > 太公望
姓は姜、氏は呂、名は尚。生没年は未詳だが、紀元前11世紀に活躍したとされる。
『詩経』では師尚父と呼ばれ、太公望という呼び名は『孟子』(前300年頃成立)以降に広く行われたらしい(意地の悪い言い方をすれば師尚父と太公望が同一人物という保証はない)。また、姜子牙は古い文献や史書の類には見えず、説話化を押し進めるに当たって新たに創作された称謂である。
『史記』等の説話では、渭水のほとりで釣りをしているところを周の文王に見出され(釣り人を太公望と呼ぶのはこれが典故である)、その子武王を助けて殷王朝を打倒したことになっている。
また、周王朝創建後は齊に封じられたという(が、これは単なる系譜上の作為であるという説もある)。
後軍師として尊ばれ、その手になるという兵書が多く偽作された。また、仙道の実現者ともされた。
★太公望呂尚 - e-taigongwang     http://p.tl/KWH8
★太公望  覆水盆に返らず      http://p.tl/cf1H
★太公望とは - 語彙          http://p.tl/YepW
★釣り(つり)あるいは魚釣り(さかなつり)http://p.tl/O-QT
釣り針、釣り糸、釣り竿などの道具を使って、魚介類などの生物を採捕する行為、方法のことである。
英語ではAngling(アングリング)あるいはPole fishing ポール・フィッシングなどと言われる。
★釣り名人の代名詞として良く知られる、太公望の釣りの対象は魚ではなくて「天下」でした。http://p.tl/Hz8n

★賢聖障子(けんじょうのしょうじ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
皇居、紫宸殿(ししんでん)の母屋(もや)の北側、玉座の後方に立てられる9枚の襖(ふすま)障子で、中国殷(いん)代より唐代までの賢臣32名の肖像が描かれているので名づけられた。中央の間に文書を負う亀(かめ)と、獅子狛犬(ししこまいぬ)を描き、その左右4枚の1枚ごとに4名ずつ描く。各人上方に色紙形の枠内に名前と徳行才能の賛詞が記されている。おこりについては『帝王編年記』に弘仁(こうにん)年間(810~824)、『皇年代記』に陽成(ようぜい)帝の代(在位876~884)、『古今著聞集(ちょもんじゅう)』に寛平(かんぴょう)年間(889~898)とあって一定ではないが、平安時代の初めころと推定され、現存のものは寛政(かんせい)年間(1789~1801)に造営したときに描かれたものである。なお、32名の人物は、馬周、房玄齢、杜如晦(とじょかい)、魏徴(ぎちょう)、諸葛亮(しょかつりょう)、伯玉(きょはくぎょく)、張良、第伍倫(だいごりん)、管仲(かんちゅう)、劉()禹(りゅうう)、子産、蕭何(しょうか)、伊尹(いいん)、傅説(ふえつ)、太公望(たいこうぼう)、仲山甫(ちゅうざんぽ)、李勣(りせき)、虞世南(ぐせいなん)、杜預(どよ)、張華、羊(ようこ)、揚雄(ようゆう)、陳寔(ちんしょく)、班固(はんこ)、桓栄(かんえい)、鄭玄(じょうげん)、蘇武(そぶ)、倪()寛(げいかん)、董仲舒(とうちゅうじょ)、文翁、賈誼(かぎ)、叔孫通(しゅくそんとう)である。 [ 執筆者:郷家忠臣 ]

★紫宸殿(ししんでん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
「ししいでん」とも読む。平安宮内裏(だいり)の正殿。南殿(なでん)、前殿(ぜんでん)ともいう。元日(がんにち)、白馬(あおうま)などの節会(せちえ)や天皇・皇太子の元服など大小各種の儀式や公事(くじ)が行われ、天皇が病気であったり、大極殿(だいごくでん)の焼失などの特別の場合には、即位式が行われることもあった。
内裏の南中央に位置し、入母屋造(いりもやづくり)、檜皮葺(ひわだぶ)きで、東西9間、南北2間の母屋の四面に廂(ひさし)、周囲に簀子(すのこ)(縁(えん))がある南向きの建物。母屋は天井を張らない化粧屋根裏になっている。儀式のときには母屋の中央に帳台(ちょうだい)や倚子(いし)を置き、天皇の座とした。母屋と南廂、東廂との間は間仕切りがなく、西は壁で、北廂との間には儀式のときに賢聖障子(けんじょうのしょうじ)が立てられた。これは絹張りの襖(ふすま)障子で、高御座(たかみくら)の真後ろにあたる1間には動物の絵が、残りの左右各4間には諸葛亮(しょかつりょう)、太公望(たいこうぼう)、蘇武(そぶ)ら計32人の中国の名臣の肖像が描かれていた。
南廂はやはり儀式の場で、東廂は通路、北廂は御後(ごご)ともいわれ儀式の際に装束や食事などを調える準備室となり、西廂は御膳を納めておく御膳宿(おものやどり)であった。南廂中央には「紫宸殿」の額が掲げられ、その下に、儀式の場となる南庭に続く18段の階があり、南庭には東に左近桜(さこんのさくら)、西に右近橘(うこんのたちばな)が植えられていた。
平安遷都当時の紫宸殿は、約160年後の960年(天徳4)に焼失し、以後の火災で規模は順次縮小された。また平安中期から発生した里内裏(さとだいり)では、寝殿が紫宸殿にあてられたが、清涼殿を兼ねる場合もあった。本来の内裏は1227年(安貞1)焼亡したのちは再建されず、紫宸殿も里内裏に残るのみとなる。南北朝期以後、内裏として固定した土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)(現在の京都御所)でも、紫宸殿の形は造営のたびに変化したが、江戸後期の1790年(寛政2)平安内裏を復原した形で造営され、火災後も同じように再建されて現在に至っている。 [ 執筆者:吉田早苗 ]

★斉(せい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
中国、周代の侯国。姜(きょう)斉ともいう。周の文王に用いられて、武王の殷(いん)の討滅を助けた太公望(たいこうぼう)呂尚(りょしょう)が営丘(えいきゅう)(現在の山東省益都(えきと)県付近)に封ぜられたのに始まるとされる。7代目献公(けんこう)のときから都を臨(りんし)(現在の山東省博(しはく)市東方)に移し、以後都は変わらなかった。紀元前7世紀初頭ごろから勢力を伸ばし、桓公(かんこう)(在位前685~前643)が即位すると、名宰相管仲(かんちゅう)の補佐の下で富国強兵策を推進し、前651年には覇者となり、周辺の小国を併合し、衛(えい)国を復興させ、楚(そ)の侵入を阻止し、斉を一躍強国にした。桓公以後は覇者とはならなかったが、晋(しん)、楚と並ぶ大国として君臨した。しかし、前5世紀以後は有力貴族の台頭や内乱によって国内は混乱し、前379年、有力貴族の田敬仲(でんけいちゅう)が康公(こうこう)にかわって公位についた。 [ 執筆者:太田幸男 ]

★釣り(つり) [ 日本大百科全書(小学館) ] .http://p.tl/XEH8
一般的に釣りは、その目的から職漁としての釣りと、趣味、レジャーのそれとに大別される。前者は漁業というべきであり、趣味として楽しむ釣り人(アングラーangler)の釣り、あるいはゲーム・フィッシングとは、やはり区別してとらえるべきだろう。本項では、趣味としての釣りについてのべる。 [ 執筆者:森 秀人 ]

★覆水盆に返らず(ふくすいぼんにかえらず) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
いったん盆からこぼれた水はふたたび盆に返ることはないとの意で、一度離別した夫婦は元の鞘(さや)に収まることはないことや、一度しでかしてしまったことは取り返しがつかないことのたとえとして用いられる。中国、周の呂尚(りょしょう)(太公望)は読書に熱中して暮らしを顧みないので、妻の馬は愛想を尽かし、離縁をして家を出てしまったが、のちに太公が斉(せい)に封ぜられると、復縁を求めてやってきた。すると太公は一盆の水をとり、それを傾けて水を地上にこぼして、元のとおりに水を盆に戻すことができたなら、希望に応じようといった、とある『拾遺記』などの故事による。 [ 執筆者:田所義行 ]

★武経七書(ぶけいしちしょ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
中国の7種の兵法書。春秋時代呉(ご)の将軍孫武(そんぶ)の『孫子(そんし)』、戦国時代魏(ぎ)の将軍呉起(ごき)の『呉子(ごし)』、春秋時代斉(せい)の大司馬(だいしば)田穣苴(でんじょうしょ)の『司馬法』、唐初の将軍李靖(りせい)の『李衛公問対(りえいこうもんたい)』、秦(しん)の国尉(こくい)尉繚(うつりょう)の『尉繚子』、秦の隠者黄石公(こうせきこう)の『三略』、周創業の功臣太公望呂尚(たいこうぼうりょしょう)の『六韜(りくとう)』をさし、略して『七書』ともいう。いずれも宋(そう)代に武官養成のテキストとして選ばれ、武人の経典として権威づけられることになった。 [ 執筆者:篠田雅雄 ]

★六韜三略(りくとうさんりゃく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
中国の兵書、六韜と三略の2書。前者は太公望呂尚(たいこうぼうりょしょう)、後者は黄石公(こうせきこう)の撰述(せんじゅつ)と伝え、併称して韜略(とうりゃく)の書という。いずれも後世の偽書であるが、宋(そう)代、『武経七書』のうちに組み入れられ、中国古兵法の教科書として広く読まれてきた。六韜は周の文王・武王の問いに対し、呂尚が経世済民(けいせいさいみん)の術、富国強兵の策を説くもので、第1巻は文韜12編・武韜5編、第2巻は龍(りゅう)韜13編・虎韜12編・第3巻には豹(ひょう)韜8編・犬(けん)韜10編、計3巻60編からなり、文・武では治国、龍韜は奇変、虎韜は勇猛果断、豹韜は奇計、犬韜は突進を主題としている。三略は上略・中略・下略の3巻からなり、戦略の機微を上・中・下の三つに分かち、礼賞を設けて奸雄(かんゆう)を分かち、賢者を用いて国の安危を察し、将を御(ぎょ)して衆を暢(の)ぶるの道を明らかにしている。わが国では、934年(承平4)大江維時(おおえのこれとき)が唐から帰朝の際に持ち帰ったと伝え、以後大江家の兵法となり、源家(げんけ)の古伝(こでん)兵法に受け継がれたという。 [ 執筆者:渡邉一郎 ]

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