2012年9月17日月曜日

●平家物語

●平家物語
★はてなキーワード > 平家物語
軍記物語。作者不詳、信濃前司行長など諸説ある。
平清盛を中心とする平氏一門の興亡に即して歴史の激動と諸行無常をとらえている。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず ただ春の世の夢のごとし
たけき者も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ
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諸行無常 平治の乱 大河ドラマ  源義朝 崇徳院 四字熟語

★平家琵琶の豆知識   http://p.tl/aOuT
 
1.平家琵琶
平曲(へいきょく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .『平家物語』の詞章を琵琶(びわ)の伴奏で弾き語りする語物(かたりもの)の一種。「平家琵琶」「平語(へいご)」ともいう。室町時代まで盲人演奏家によって伝承され、江戸時代以降は晴眼者で演奏する者も現れた。
[ 執筆者:シルヴァン・ギニアール ]
  A.歴史と流派
  B.曲の種類
  C.曲節と楽器.
A. 歴史と流派
13世紀初めに雅楽・声明(しょうみょう)・盲僧(もうそう)琵琶の三者を源流として成立。『徒然草(つれづれぐさ)』第226段には、信濃(しなの)前司行長(ゆきなが)と生仏(しょうぶつ)という盲僧の協力で鎌倉時代の初めころつくられたとあるが、その成立をめぐっては多くの異説がある。約100年後の南北朝時代になると、検校(けんぎょう)明石覚一(あかしかくいち)(1300?―71)という名人が現れて詞章・曲節に改良を加え、現行のような形に整えたとされる。「当道」という盲人の位階制度ができたのも覚一のころで、最高位者を検校、のちには最高責任者を総検校と称した。これから室町時代が平曲の最盛期である。江戸時代に入っても幕府の保護を受けていたため、三味線の流行にも駆逐されることなく、とくに徳川家光(いえみつ)は平曲を愛好して、波多野孝一(こういち)検校(?―1651)に京都で波多野流を、前田九一(くいち)検校(?―1685)に江戸で前田流を開かせた。京都でこの両流を学んだ荻野知一(とものいち)検校(1731―1801)は、名古屋に出て『平家正節(まぶし)』(1776成立)という譜本をつくった。数多い晴眼の平曲愛好者のための譜本の集大成ともいうべき優れたもので、今日まで前田流の規範譜である。明治に入ると当道保護の政策が廃止され、京都の波多野流は藤村性禅(せいぜん)(1853―1911)の死によって事実上の断絶をみた。
一方、前田流は名古屋のほか平曲に熱心であった津軽藩にも伝わり、藩士館山漸之進(たてやまぜんのしん)は1910年(明治43)『平家音楽史』を著した。第二次世界大戦後は、名古屋の井野川幸次、土居崎正富、三品正保の三検校と、仙台の館山甲午(こうご)(漸之進の子)の4人が「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」に選択された。これらの芸筋は廃絶しかかったが、館山の弟子橋本敏江が東京で活躍しているほか、名古屋でもわずかに伝承されている。
[ 執筆者:シルヴァン・ギニアール ]
B. 曲の種類
平曲は『平家物語』の各章を一曲(一句という)として数え、全200曲余、これを伝習制度上、〔1〕平物(ひらもの)(大部分)、〔2〕伝授物(習(ならい)物ともいい33曲)、〔3〕秘事(ひじ)(五曲)に分ける。荻野検校は平曲の習得を次のように定めている。平物50曲をマスターすることが初段で、そのあと伝授物のうち「読物(よみもの)」(13曲)を学ぶ。平物100曲以上を習得した者は、同じ伝授物のうちの「五句物」「炎上物」「揃(そろい)物」(いずれも五曲)などを覚えてから、「灌頂巻(かんじょうのまき)」(「女院(にょういん)御出家」以下の5章)の伝授を受ける。秘事は「小秘事」の二曲(祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)・延喜聖代(えんぎせいだい))と「大秘事」の三曲(宗論(しゅうろん)・剣(けん)の巻・鏡の巻)で、これは総検校にのみ伝授され、一生に三度しか演奏しないほどの秘曲として尊重された。
[ 執筆者:シルヴァン・ギニアール ]
C. 曲節と楽器
平曲の1章(句)は、曲節とよばれる類型的な部分の組合せでつくられている。曲節には「口説(くどき)」「初重(しょじゅう)」「三重(さんじゅう)」「上歌(あげうた)」など約50種あるが、主要なものは11種ほどである。それぞれ音階・音程・リズムが異なり、合戦描写では「拾(ひろい)」の曲節というように詞章の内容などとも関連がある。その詞章や曲節は、平曲以後の能、浄瑠璃(じょうるり)、地歌箏曲(じうたそうきょく)などに多大な影響を与えた。
平曲に用いる平家琵琶は、雅楽の楽琵琶よりやや小さく、四弦五柱(じゅう)。柱と柱の間を押さえて演奏する。調弦は荻野検校によればA2―C3―E3―A3であったが、現在の平曲ではすこし異なる。撥(ばち)はツゲ製が多く、先の両端はとがっている。琵琶は曲節の前奏や間奏を奏し、詞章とともには弾かれず、琵琶の手は「口説」の前では「口説撥」のように続く曲節によって決定されている。
[ 執筆者:シルヴァン・ギニアール ]
2.琵琶(びわ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .中国、朝鮮、日本のリュート属撥弦(はつげん)楽器。中国、朝鮮では「ピパ」とよばれる。日本へは奈良時代に中国から伝来したが、その起源はおそらくペルシアにあると考えられる。ササン朝ペルシア(3~7世紀)のバルバットbarbatという木製・曲頸(きょくけい)洋ナシ形胴の弦楽器がイスラム時代にウードとなり、アラビア商人によって広く伝播(でんぱ)し、ヨーロッパではリュートに、アジアでは琵琶となった。琵琶の名はこのバルバットに由来するという説、弾弦の往復運動を表す漢語という説などがある。
[ 執筆者:シルヴァン・ギニアール ]
目次目次を閉じる琵琶
A.中国
B.朝鮮
C.日本
楽琵琶、 盲僧琵琶、 平家琵琶、 薩摩琵琶、 筑前琵琶
A. 中国
唐代の琵琶については、正倉院に保存されている五つの楽器が資料として重要である。これらのうち四つが四弦曲頸洋ナシ形胴の楽器で、残りの一つが五弦直頸洋ナシ形胴の螺鈿紫檀五絃(らでんしたんごげん)琵琶である。前者がイラン起源、後者がインド起源と考えられる。またこのほかに四弦直頸円形胴の阮咸(げんかん)(唐代以前は秦(しん)琵琶とよばれた)が二面保存されている。いずれも美しい装飾が施され、撥(ばち)面にはラクダやゾウの図もみえる。宋(そう)代には独奏および伴奏楽器として広く愛好され、とくに南部では叙事物語の朗唱(弾詞(だんし))の伴奏に用いられた。明(みん)代にはさらに室内音楽および劇場音楽としても使われたが、清(しん)代に入って三弦の胡弓(こきゅう)に似た楽器によってとってかわられた。
今日の中国の琵琶は、曲がった棹と洋ナシ形の胴をもつ四弦16柱(じゅう)(17柱、24柱のものもある)の楽器で、普通A2-D3-E3-A3に調弦される。奏者は椅子(いす)に座り、膝(ひざ)の上に楽器を垂直に立てるように置いて、指の爪(つめ)で弾奏する。親指と人差し指によるトレモロおよびクレッシェンドやデクレッシェンドが特徴的である。
[ 執筆者:シルヴァン・ギニアール ]
B. 朝鮮
朝鮮にも3種類の琵琶があり、これらはもっぱら宮廷音楽(雅楽)に用いられた。第一のタイプは四弦曲頸洋ナシ形胴の琵琶で、新羅統一(676)前後に唐から輸入されたものと考えられる。唐琵琶(タンピパ)とよばれ、唐楽の中心的弦楽器であった。高麗(こうらい)朝(10~14世紀)には宮廷雅楽が唐楽と郷楽(きょうがく)(朝鮮固有の音楽)に分かれ、唐楽には唐琵琶、郷楽には第二のタイプである五弦直頸洋ナシ形胴の郷琵琶(ヒヤンピパ)が使われ始めた。李朝(りちょう)(15~19世紀)に入ると郷楽にも唐琵琶が用いられ始め、その際、柱の数も4から12に増えるなどの変更を受けた。この楽器は現在ではまったく使われていない。第三のタイプは月琴(げっきん)である。これは現在使用される中国の月琴よりむしろ阮咸に似た長棹円形胴の楽器で、郷楽にのみ用いられたが、これも今日では使われていない。
[ 執筆者:シルヴァン・ギニアール ]
C. 日本
今日、日本では次の5種の琵琶が用いられている。すべて曲がった棹と洋ナシ形の胴をもち、撥で弾奏する。
[ 執筆者:シルヴァン・ギニアール ]
・楽琵琶
雅楽で用いる琵琶。もっとも起源が古く、奈良時代にまでさかのぼる。現在、雅楽のなかでは旋律楽器としてではなく、和音や単音を弾奏して拍節表示をするリズム楽器として位置づけられている。しかし、かつては独奏曲も輸入されたこともあり、833年(天長10)に藤原貞敏(さだとし)は唐から『流泉』など三曲を持ち帰ったが、それらが秘曲とされていたこともあって、近世には消失してしまった。楽器は5種の琵琶中もっとも大きく、奏者は楽器を水平に構え、弦の上を押さえて弾奏する。
[ 執筆者:シルヴァン・ギニアール ]
・盲僧琵琶
盲目の僧侶(そうりょ)が『地神経(じしんきょう)』などの経文を琵琶伴奏で唱えるもので、「地神琵琶」「荒神(こうじん)琵琶」ともいわれる。楽琵琶と同時か遅くとも9世紀には成立し、当時は天台宗の仏教儀式に用いられ、主として九州で栄えた。今日でも九州地方にのみわずかに残る。現在、筑前(ちくぜん)盲僧琵琶、薩摩(さつま)盲僧琵琶の二大系統があり、福岡の成就院、鹿児島の常楽院がそれぞれの中心地となっている。楽器は携帯の便のため小形で、奏者は楽器をやや斜めに立てて構え、柱と柱の間を押さえて弾奏する。
[ 執筆者:シルヴァン・ギニアール ]
・平家琵琶
平曲、つまり『平家物語』を語る音楽の伴奏楽器。平曲は室町時代に全盛期を迎え、江戸時代に前田流(江戸)と波多野流(京都)に分裂した。江戸幕府によって能と同じく式楽として保護されていたため、三味線の流行にも駆逐されることなく、明治時代まで存続し、今日も名古屋、仙台などに奏者が残っている。楽器はやや大形で、奏者は楽器をほぼ水平に構え、柱の上を押さえて弾奏する。
[ 執筆者:シルヴァン・ギニアール ]
・薩摩琵琶
室町時代末期に薩摩盲僧琵琶から派生した琵琶で、今日、正派(せいは)、錦心(きんしん)流、錦(にしき)琵琶、鶴(つる)派など多くの流派がある。薩摩(鹿児島県)島津藩の島津忠良(ただよし)が、武士の道徳教育の目的で薩摩盲僧淵脇寿長院(ふちわきじゅちょういん)に琵琶歌を作曲させたのが始まりで、江戸時代末期に名手池田甚兵衛が今日の正派様式を確立した。明治維新後、東京を中心に全国に広まり、男性的な楽器としてもてはやされた。明治後期、東京の永田錦心が都会的趣味の錦心流を開き、分派。以後、本来の薩摩琵琶を正派とよぶ。さらに昭和初年、錦心流から水藤錦穣(すいとうきんじょう)が錦琵琶を考案し、1980年代にはやはり錦心流から鶴田錦史(つるたきんし)が鶴派を開いて分派した。正派と錦心流の琵琶はやや大ぶりで、奏者は楽器を立てて構え、柱と柱の間を押さえてたたくように激しく弾奏する。男性奏者が多い。錦琵琶は薩摩琵琶と筑前琵琶を融合したもので、曲調面からも両者の折衷といえ、奏者は女性が多い。鶴派琵琶は、曲折した柱、撥での擦奏など、楽器機構・奏法に斬新(ざんしん)なくふうを加えている。
[ 執筆者:シルヴァン・ギニアール ]
・筑前琵琶
明治維新後の当道座廃止によって衰微した筑前盲僧琵琶の伝統を基に薩摩琵琶、三味線音楽の要素を取り入れて、明治20年代に北九州で創始された新琵琶楽。橘智定(たちばなちじょう)(初世旭翁(きょくおう))、鶴崎賢定(けんじょう)、吉田竹子らによって始められた。とくに上京して活躍した橘旭翁の尽力で明治後期から昭和初めにかけて盛行し、薩摩琵琶と人気を二分するに至った。楽器は薩摩琵琶よりやや小さく、曲調も全体的に女性的である。しかし、大正時代に薩摩琵琶の影響で考案された五弦琵琶の曲には勇壮な男性的曲調のものもみられる。奏者にはいまなお女性が多い。
・薩摩琵琶楽、筑前琵琶楽はともに大正から昭和初年にかけて大流行したが、戦記物語を題材とする曲が多いため、第二次大戦後その人気は急速に衰えてしまった。しかし今日では、短く詩的な内容をもつ「琵吟(びぎん)」とよばれる新しいジャンルが筑前琵琶橘会の山崎旭萃(きょくすい)によって始められたり、武満徹(たけみつとおる)ら現代音楽の作曲家によって琵琶が積極的に取り入れられるなど新たな展開をみせている。
[ 執筆者:シルヴァン・ギニアール ]
3.兼常清佐(かねつねきよすけ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .(1885―1957)
音楽学者。山口県萩(はぎ)市生まれ。1910年(明治43)京都帝国大学文学部卒業。平家琵琶(へいけびわ)、地歌三味線などの理論研究で学位を取得。15年(大正4)東京音楽学校ピアノ科入学。22年渡独、帰国後、大原労働研究所で音響学を研究。評論、随筆の面でも活躍し、『ピアニスト不要論』など逆説的論議で楽壇をにぎわした。主著に『日本の音楽』(1913)、『日本音楽教育史』(1932)、『日本音楽と西洋音楽』(1941)などがある。 [ 執筆者:柴田典子 ]
4.太平記(たいへいき) [ 日本大百科全書(小学館) ] .南北朝時代の軍記物語。40巻。
[ 執筆者:山下宏明 ]
目次目次を閉じる太平記
  1.成立
  2.諸本
  3.内容
  4.影響.
1. 成立
足利(あしかが)氏の一支族で九州探題として足利政権の確立に貢献した今川貞世(いまがわさだよ)(了俊(りょうしゅん))の著『難太平記(なんたいへいき)』によれば、暦応(りゃくおう)(1338~42)、康永(こうえい)(1342~45)のころ、法勝寺(ほっしょうじ)の清僧、恵鎮(えちん)(1356没)が、30余巻の『太平記』を、将軍尊氏(たかうじ)を補佐した足利直義(ただよし)のもとに持参し、天台の学僧、玄慧(げんね)(1350没)に読ませたという。『太平記』の成立に、恵鎮は編集者として、玄慧は監修者として参加したらしい。暦応2年(1339)8月の後醍醐(ごだいご)天皇崩御あたりまでを描く未完の作品であったが、その内容に誤りが多く、直義により修正、削除、加筆が命じられ、いったん執筆は中断していたのを、のちに書き継いだという。この成立、加筆の過程で、たとえば『洞院公定(とういんきんさだ)日記』にみえる小島(こじま)法師のような、戦いの敗残者をも含む遁世(とんせい)者で、高い教養の持ち主でもあった物語僧が参加し、1370年(建徳1・応安3)ごろには40巻本が完成していた。読まれるとともに、平家琵琶(びわ)のような曲節は伴わないが音読もされ、説教の後の余興として語られ、やがて太平記読みとして、講釈師により講釈されることになった。 [ 執筆者:山下宏明 ]
2. 諸本
上述のような限られた場で編纂(へんさん)され、その後の流布も限られていたようで、その事情はわからないが早くから巻22を欠き、現存の諸本は、いずれもこの巻を欠く本文を伝えている。すなわち、その巻22を欠いた当時の形を伝える神田(かんだ)本、西源院(せいげんいん)本、玄玖(げんきゅう)本などの古本、この欠巻を前後の巻から記事をつづり合わせてつくろった前田本や流布本、記事を年代順に配列し、他の史料により加筆をも行った天正(てんしょう)本など、古本を41巻ないし42巻に再編成した豪精本などのつごう四類に分かれるが、諸本の間に、『平家物語』の諸本のような、作品の性格を左右する異同はない。 [ 執筆者:山下宏明 ]
3. 内容
文保(ぶんぽう)2年(1318)後醍醐天皇の即位以後、約50年の期間を描く。その第一部、巻1から巻11までは、後醍醐天皇による北条(ほうじょう)幕府討伐の計画から、その成就、建武(けんむ)政権の確立まで、楠正成(くすのきまさしげ)らの動きを軸として描き、完結した物語をなしている。第二部、巻12から巻21までは、建武政権の乱脈を批判しつつ、諸国の武士の、新政に対する不満を背景に足利・新田(にった)の対立、足利の過去の善因による勝利、後醍醐天皇の吉野での崩御までを描く。残る第三部は、観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)、直義の死に代表される足利幕府中枢部の内訌(ないこう)から細川頼之(よりゆき)の将軍補佐による太平の世の到来までを描く。とくにこの第二、第三部は、その対象とする動乱のさなかに太平の世を求めて書き継がれた。そのため混乱が多く、物語としての完成度に欠ける。人々の欲望むき出しの下剋上(げこくじょう)の動乱期を、『史記』『文選(もんぜん)』『白氏文集(はくしもんじゅう)』など紀伝道の中国古典に学ぶ儒教的な政道観や歴史観、それに太平の世を求め不思議を期待する聞き手たちの願い、落書にみられる京都の人々の痛烈な批判・風刺の目を通して描く。長文にわたる多くの挿入説話からは、登場人物や事件を物語に位置づける方法を学びとっている。それらの多くの史伝は、歴史観と、人生百般の知恵を供給する百科辞書的な意味をも有している。 [ 執筆者:山下宏明 ]
4. 影響
儒教的な政治論が顕著なためか、『平家物語』に比べて古典化する傾向が少なく、他の作品に及ぼす影響も少ない。一部謡曲や中世小説に素材を提供しているが、幸若(こうわか)舞曲の「新曲」や中世小説の『ゑんや判官(はんがん)』などのように『太平記』の一節をそのまま抜き出した作品がみられるし、とくに近世、封建秩序の安泰を期待する風潮にのって、曲亭馬琴(きょくていばきん)らの読本(よみほん)に、講釈調の教訓や話題を提供した。この点でも『平家物語』と異なる。 [ 執筆者:山下宏明 ]
5.日本演劇(にほんえんげき) http://p.tl/y6ph
... 文楽は、中世に庶民の間に流行した平曲(へいきょく)(平家琵琶(びわ))に発する浄瑠璃という語物と、16世紀後半に琉球(りゅうきゅう)を経て渡来し国産化された三味線と ...
6.日本文学 - 中世文学    http://p.tl/1sj3
... また、平家琵琶(びわ)にかわって、牛若丸と浄瑠璃(じょうるり)姫の恋物語などを語る浄瑠璃が新たな語物として生まれた。中世後期の文化の担い手としては、僧侶たちを忘れることはできない。 ...
7.琵琶法師(びわほうし) [ 日本大百科全書(小学館) ] .琵琶を弾奏しながら物語などを語った僧形(そうぎょう)の芸能者。ほとんどが盲人であったが、なかには晴眼者もあった。平安中期に、中国から渡来した琵琶を用いて経文を読唱する琵琶法師があり、平安末期には寺社縁起譚(たん)や合戦物語を語り歩いた。鎌倉時代に入ると『平家物語』を生仏(しょうぶつ)という盲僧が語ったといわれ、その系譜は平曲(へいきょく)とよばれて進展した。一方(いちかた)流、八坂(やさか)流(城方流)の平曲は15世紀に全盛時代を迎えた。その後、流派が多発したが、江戸時代に入ると三味線に圧倒されてしだいに衰微していった。そのため琵琶法師の流れをくむ盲僧たちは箏曲(そうきょく)のほうに移り、いまでは箏曲を指導する老検校(けんぎょう)のなかに平家琵琶を語る者が残存し、後継者が出始めている。薩摩(さつま)琵琶など平曲以外の琵琶法師は九州などにわずかに残っている。 [ 執筆者:関山和夫 ]
8.平曲(へいきょく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .『平家物語』の詞章を琵琶(びわ)の伴奏で弾き語りする語物(かたりもの)の一種。「平家琵琶」「平語(へいご)」ともいう。室町時代まで盲人演奏家によって伝承され、江戸時代以降は晴眼者で演奏する者も現れた。
[ 執筆者:シルヴァン・ギニアール ]
目次目次を閉じる平曲
  1.歴史と流派
  2.曲の種類
  3.曲節と楽器.
1. 歴史と流派
13世紀初めに雅楽・声明(しょうみょう)・盲僧(もうそう)琵琶の三者を源流として成立。『徒然草(つれづれぐさ)』第226段には、信濃(しなの)前司行長(ゆきなが)と生仏(しょうぶつ)という盲僧の協力で鎌倉時代の初めころつくられたとあるが、その成立をめぐっては多くの異説がある。約100年後の南北朝時代になると、検校(けんぎょう)明石覚一(あかしかくいち)(1300?―71)という名人が現れて詞章・曲節に改良を加え、現行のような形に整えたとされる。「当道」という盲人の位階制度ができたのも覚一のころで、最高位者を検校、のちには最高責任者を総検校と称した。これから室町時代が平曲の最盛期である。江戸時代に入っても幕府の保護を受けていたため、三味線の流行にも駆逐されることなく、とくに徳川家光(いえみつ)は平曲を愛好して、波多野孝一(こういち)検校(?―1651)に京都で波多野流を、前田九一(くいち)検校(?―1685)に江戸で前田流を開かせた。京都でこの両流を学んだ荻野知一(とものいち)検校(1731―1801)は、名古屋に出て『平家正節(まぶし)』(1776成立)という譜本をつくった。数多い晴眼の平曲愛好者のための譜本の集大成ともいうべき優れたもので、今日まで前田流の規範譜である。明治に入ると当道保護の政策が廃止され、京都の波多野流は藤村性禅(せいぜん)(1853―1911)の死によって事実上の断絶をみた。
一方、前田流は名古屋のほか平曲に熱心であった津軽藩にも伝わり、藩士館山漸之進(たてやまぜんのしん)は1910年(明治43)『平家音楽史』を著した。第二次世界大戦後は、名古屋の井野川幸次、土居崎正富、三品正保の三検校と、仙台の館山甲午(こうご)(漸之進の子)の4人が「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」に選択された。これらの芸筋は廃絶しかかったが、館山の弟子橋本敏江が東京で活躍しているほか、名古屋でもわずかに伝承されている。
[ 執筆者:シルヴァン・ギニアール ]
2. 曲の種類
平曲は『平家物語』の各章を一曲(一句という)として数え、全200曲余、これを伝習制度上、〔1〕平物(ひらもの)(大部分)、〔2〕伝授物(習(ならい)物ともいい33曲)、〔3〕秘事(ひじ)(五曲)に分ける。荻野検校は平曲の習得を次のように定めている。平物50曲をマスターすることが初段で、そのあと伝授物のうち「読物(よみもの)」(13曲)を学ぶ。平物100曲以上を習得した者は、同じ伝授物のうちの「五句物」「炎上物」「揃(そろい)物」(いずれも五曲)などを覚えてから、「灌頂巻(かんじょうのまき)」(「女院(にょういん)御出家」以下の5章)の伝授を受ける。秘事は「小秘事」の二曲(祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)・延喜聖代(えんぎせいだい))と「大秘事」の三曲(宗論(しゅうろん)・剣(けん)の巻・鏡の巻)で、これは総検校にのみ伝授され、一生に三度しか演奏しないほどの秘曲として尊重された。
[ 執筆者:シルヴァン・ギニアール ]
3. 曲節と楽器
平曲の1章(句)は、曲節とよばれる類型的な部分の組合せでつくられている。曲節には「口説(くどき)」「初重(しょじゅう)」「三重(さんじゅう)」「上歌(あげうた)」など約50種あるが、主要なものは11種ほどである。それぞれ音階・音程・リズムが異なり、合戦描写では「拾(ひろい)」の曲節というように詞章の内容などとも関連がある。その詞章や曲節は、平曲以後の能、浄瑠璃(じょうるり)、地歌箏曲(じうたそうきょく)などに多大な影響を与えた。
平曲に用いる平家琵琶は、雅楽の楽琵琶よりやや小さく、四弦五柱(じゅう)。柱と柱の間を押さえて演奏する。調弦は荻野検校によればA2―C3―E3―A3であったが、現在の平曲ではすこし異なる。撥(ばち)はツゲ製が多く、先の両端はとがっている。琵琶は曲節の前奏や間奏を奏し、詞章とともには弾かれず、琵琶の手は「口説」の前では「口説撥」のように続く曲節によって決定されている。
[ 執筆者:シルヴァン・ギニアール ]

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