2012年9月26日水曜日

●山師(やまし)

●山師(やまし)
★はてなキーワード > 山師
鉱山の発掘や鉱脈の発見すること仕事としている人。鉱山技師。転じて、鉱脈を発見する仕事が一山当てて一攫千金を目指すような要素が強いことから投機的な事業で金儲けをたくらむ人や儲け話を持ちかけて他人をだます詐欺師を指す言葉として用いられるようになった。
★山師(やまし) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
本項では鉱山経営者としての山師について述べる。山師は、鉱山の経営いっさいを支配統轄した。山師の下には、金子(かなこ)(坑内の掘り場の責任者)、大工(採鉱係)、手子(てこ)(運搬夫、掘り子ともいい、女、子供があたった)、樋大工(排水樋の製作にあたる)、樋引き(排水係)、山留め(支柱係)などがいて鉱山の生産に携わった。
鉱山業は近世になってから大いに発展し、測量・採鉱・選鉱・精錬などの鉱山技術者、熟練労働者の専業化が進んだが、そのなかから指導力、経営力のある者が、山師となって他を率いるようになったのである。徳川家康は、江戸幕府の財政を確立するために鉱山を重視し、「山例(さんれい)五十三箇条」を定めて山師に特権を与えた。そのため鉱山の構内は一種の治外法権が認められ、殺人者が鉱山に逃げ込んでも役人に渡さなくてもよいことになっていた。19世紀初期の鉱山経営技術者である佐藤信淵(のぶひろ)は『坑道法律』のなかで、「……山内のことは山主の心次第なるものなれば、山主たる者は智慮(ちりょ)深く、外貌(がいぼう)は甚だ愚にして、行状は放蕩(ほうとう)に見えて、内心甚だ倹素に厚く施すことを好みて諸勘定極めて高く、勇豪にして甚だ涙軟(もろ)く……」と山師の心得を述べている。 [ 執筆者:黒岩俊郎 ]
★山師(やまし)ウィキペディア
・職業としての山師は鉱山技師を参照。
・人柄を形容する山師
・詐欺師としての山師は詐欺を参照。
・投機的な事業で金儲けを企てる者。
山師の玄関ということわざも存在する。
★詐欺 - Wikipedia   http://p.tl/H3sr
詐欺(さぎ)とは、他人をだまして、金品を奪ったり損害を与えたりすること。
山師とは本来は鉱物資源や水資源などを産出する山岳を探し出し、莫大な利益を得る ことに賭ける事を生業にする者。
★詐欺師   http://p.tl/s5B3
★山師の玄関【ヤマシノゲンカン】デジタル大辞泉
《山師は玄関を特にりっぱにするところから》外観ばかりがりっぱなこと。
〔山師が玄関を特に立派にすることから〕 みかけばかり立派なたとえ。こけおどし。
★林業(りんぎょう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .   http://p.tl/IKYz
forestry [英語]
Forstwirtschaft [ドイツ語]
conomie forestire [フランス語]
一般に林業とは、広義には森林を維持造成し、その主産物および副産物を生産・販売するまでの経済行為をいう。狭義には、森林の維持造成から木材の生産・販売までを林業とし、キノコや山菜の採取・栽培・販売などは特用林産として区分する。また、近年における地球規模の環境問題の発現とともに、これまでの経済行為に加えて、森林のもつ国土保全・水資源保持などの公益的機能が注視され、そうした側面の維持造成も林業の重要な行為と認識されつつある。 [ 執筆者:山岸清隆 ]

★石見銀山(いわみぎんざん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
戦国期から江戸中期にかけての代表的銀山。石見国邇摩(にま)郡大森(島根県大田(おおだ)市大森町)にあり、近世の金銀山開発の先駆をなした。14世紀初めに発見されたと伝えられるが、16世紀前半から本格化し、1533年(天文2)神谷寿禎(かみやじゅてい)が博多(はかた)から吹大工(ふきだいく)(製錬工)を伴い、銀の製錬に成功した。以後、大内(おおうち)、小笠原(おがさわら)、尼子(あまご)、毛利(もうり)氏らの銀山争奪戦が反復されたが、1600年(慶長5)関ヶ原の戦い後は徳川氏が支配し、代官頭(だいかんがしら)大久保石見守長安(いわみのかみながやす)の奉行(ぶぎょう)時代に盛況となり、代官陣屋の設置と銀山町が形成された。16世紀後半には1か年で数百貫以上の産出があり、長安の時代には山師安原因繁(やすはらよりしげ)の本谷の釜屋間歩(かまやまぶ)は、1602、03年ころには1か年の運上銀3600貫にも達した。しかし寛永(かんえい)年間(1624~44)以降はしだいに衰退し、享保(きょうほう)期(1716~36)以降には年間100貫前後となり、1837年(天保8)から57年(安政4)灰吹銀(はいふきぎん)高は平均42貫余と激減した。江戸期の銀山の管轄は大森代官所で、18世紀以降は銅も産して、銀銅が尾道(おのみち)を経由して大坂へ送られた。明治以降にも稼行し、1887年(明治20)大阪の藤田組の所有となり、一時は銅、金、銀1か月3130貫を産出したが、1923年(大正12)に休山となった。 [ 執筆者:村上 直 ]

★院内銀山(いんないぎんざん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
出羽(でわ)国雄勝(おがち)郡院内(秋田県湯沢市銀山町)にある銀山。1606年(慶長11)に村山宗兵衛(そうべえ)らが発見、秋田藩の直営(直山(じきやま))となる。1619年までは運上銀年200貫以上、人口1万の鉱山町として繁栄した。元和(げんな)・寛永(かんえい)期(1615~44)の運上銀は150~50貫を上下し、その後はしだいに衰退した。初期には山奉行(やまぶぎょう)梅津政景(うめづまさかげ)により鉱山行政全般の確立が図られたが、1725年(享保10)には直山から請山(うけやま)となり山師の請負になった。1817年(文化14)以後ふたたび直山となり、生産額は増加し、33年(天保4)から10年間、銀が毎年1000貫を超え、金も30~40貫に及んだ。明治以降は小野組経営や工部省官営を経て、1885年(明治18)古河(ふるかわ)鉱業会社(現古河機械金属)の経営となり、一時は銀産額年間4100貫に達したが、1921年(大正10)には休山となり、以後、操業再開されたが、1954年(昭和29)閉山した。 [ 執筆者:村上 直 ]

★6.江戸時代 - 特殊生産諸力   http://p.tl/xbk6
... 鉱業では山師(やまし)―金名子(かなこ)・大工(だいく)―掘子(ほりこ)、床大工(とこだいく)―手子(てご) ... 山師、山主、浜主、網主などはいずれも特権商人あるいは特権商人的地主で ...

★8.鉱山 - 鉱山開発の歴史    http://p.tl/Opn2
... 直轄鉱山を御直山(おじきやま)とよび、山師(やまし)(鉱山技術者)に採掘を委任した鉱山からは運上金(鉱産額に応じた税金)を上納させ ... 山師に名字帯刀を許すほか多くの特典を与えて積極的に鉱山開発を促し ...

★山例五十三箇条(さんれいごじゅうさんかじょう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
徳川家康が駿河(するが)国安倍(あべ)郡梅島郷日蔭沢(ひかげざわ)金山(静岡市)において、山師・金掘(かねほり)衆に定めた鉱山仕法の箇条書。作成は1573年(天正1)、88年、1611年(慶長16)の諸説があり、各地の旧家所蔵の同文書には53か条のうち数条が欠けているものもある。最初の条文で、見石(みいし)(見本の鉱石)所持の者は関所が通過できる、鉱山を見立てたならただちに注進することなどが定められている。また、金格子(かなこうし)を破り、柱根(支柱)を掘り、鑿角(のみかど)(盗掘防止のためのしるし)を送った者は重罪に処すとある。そのほか鉱山内の治安秩序の保持や出入りを取り締まる規定、鉱山役人や山師などの座席順序、山師など稼業関係者の特典格式、公納分や運上免除の条件を定めた山例金銀売高格合の仕法、さらに金筋の発見、採掘、製錬、売却の手順や方法、日常生活などの規定も含まれている。江戸中期以降には、家康の定書(さだめがき)として山師がこの山例を携帯所持していたが、箇条書の内容や順序は若干異なっている場合がある。 [ 執筆者:村上 直 ]

★内藤正敏(ないとうまさとし) [ 日本大百科全書(小学館) ] .(1938― )
写真家、民俗学者。東京・蒲田区(現大田区)に生まれる。1954年(昭和29)早稲田大学高等学院に入学。在学中から写真撮影に熱中する。57年早稲田大学理工学部応用化学科に入学。61年に同大学卒業後倉敷レイヨン(現クラレ)に就職し、同社中央研究所で合成化合物を研究する。このころから、高分子化合物と化学薬品の反応によって生じる不定形の造形を撮影しはじめ、「SF写真」と名づけてカメラ雑誌等に発表した。それらの写真と現実の光景とをモンタージュした一連の作品は、63年に『カメラ芸術』新人賞、二科賞を受賞するなど高い評価を受けた。
63年、出羽三山の湯殿山(ゆどのさん)で弥勒菩薩(みろくぼさつ)の救済を願って断食死した僧侶のミイラ、即身仏を見て大きな衝撃を受け、のめり込むように撮影を開始した。それらの写真群は、個展「日本のミイラ」(1966、白木屋、東京・日本橋)で発表され、日本写真批評家協会新人賞を受賞した。さらに即身仏の時代背景を探るうちに民俗学に興味を抱き、本格的にその研究を開始する。内藤の研究はきわめて実践的なもので、66年には山伏(やまぶし)の修行のため羽黒山(はぐろさん)に入峰し、院号を得ている。
出羽三山の撮影を契機にして、内藤の関心は東北の民間信仰全般に向かっていった。恐山(おそれざん)、遠野(とおの)などを撮影した成果は『婆(ばば) 東北の民間信仰』(1979)、『遠野物語』(1983)といった写真集にまとめられた。これらの写真集では、闇を照らし出すストロボが効果的に使われている。ストロボの閃光によって、闇の中から写真家自身思ってもいなかった「異界」の眺めが浮かび上がってくるのである。さらにこれらの写真を通じて、東北の山中を漂泊しつつさまざまな文化の伝達者としての役目を果たしていた山師、金掘り、山伏などの存在をクローズ・アップした「金属民俗学」の構想が芽生えてきた。それらの研究は『聞き書き遠野物語』(1978)、『修験道(しゅげんどう)の精神宇宙』(1991)等にまとめられ、民俗学者としての内藤の業績にも注目が集まるようになった。
80年代になると、内藤は東北に向いていた視線を、一転して「都市の闇」に向けるようになる。85年の写真集『東京 都市の闇を幻視する』に集成された銀座の地下道のネズミ、浮浪者たちの集会、浅草の見世物小屋等の強烈なイメージは、東北と東京の空間が「闇」を媒介としてどこか地続きにつながっており、土俗的な生命力溢れるもう一つの「東京」が存在していることをまざまざと示していた。内藤は90年代以降も、山岳信仰としての修験道の世界観を、スケールの大きなカラー写真のシリーズとして表現しようとした「神々の異界」などの作品を、精力的に発表し続けている。写真と民俗学を結びつけ、互いに触発しあうなかからユニークな発想を紡(つむ)ぎ出してきた内藤の仕事は、さらに深く、幅広く展開しつつある。 [ 執筆者:飯沢耕太郎 ]

★細倉鉱山(ほそくらこうざん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
宮城県北西部、栗原(くりはら)市鶯沢(うぐいすざわ)にある鉛・亜鉛鉱山。栗駒山(くりこまやま)南東麓(ろく)に位置する。採掘の開始は天正(てんしょう)年間(1573~92)からで、近世には仙台藩が開発、経営し、最初は銀を採掘したが、その後鉛の生産が増加した。元禄(げんろく)期(1688~1704)には銀・銅製錬の材料としての鉛の需要が増え、鉱山は隆盛期を迎えた。仙台藩では運上をとって山師経営を許可し、鉛の地金を買い上げて問屋に払い下げていた。明治以降は近代的経営により1895年(明治28)には鉛の年間生産額は全国一となった。その後、亜鉛需要の増加により好況を迎えた。共立鉱業、三菱(みつびし)鉱業と経営体は変化し、昭和30年代のピーク以後産出量は減少。1987年(昭和62)閉山した。現在は鉱山跡を利用した観光施設細倉マインパークとなっている。また、近くには鶯沢鉱山資料館もある。 [ 執筆者:後藤雄二 ]

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