●安政の大獄
★安政の大獄(あんせいのたいごく)http://p.tl/i2tT
安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて、江戸幕府が行なった弾圧である。
当初は戊午の大獄(つちのえうまのたいごく、ぼごのたいごく)とも呼ばれていた。
江戸幕府の大老井伊直弼や老中間部詮勝らは、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また将軍継嗣を徳川家茂に決定した。安政の大獄とは、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件である。弾圧されたのは尊皇攘夷や一橋派の大名・公卿・志士(活動家)らで、連座した者は100人以上にのぼった。
形式上は第13代将軍・徳川家定が台命(将軍の命令)を発して全ての処罰を行なったことになっているが、実際には大老・井伊直弼が全ての命令を発した(家定の台命として行なわれたのは家定死去の直前である7月5日、徳川慶勝や松平慶永、徳川斉昭・慶篤と一橋慶喜に対する隠居謹慎命令(慶篤のみは登城停止と謹慎)だけであり、大獄の始まる初期のわずかな期間だけである。
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・経緯
江戸時代後期の日本には、外国船が相次いで来航した。清朝がアヘン戦争に敗れると、日本国内でも対外的危機意識が高まり、幕閣では海防問題が議論される。老中・阿部正弘が幕政改革を行ない、1854年にアメリカ合衆国と日米和親条約を、ロシア帝国とは日露和親条約を締結した。
黒船が来航した1853年には、第12代将軍徳川家慶が死去し、第13代将軍に家慶の四男・徳川家定が就任するが、病弱で男子を儲ける見込みが無かったので将軍継嗣問題が起こった。前水戸藩主徳川斉昭の七男で英明との評判が高い一橋慶喜を支持し諸藩との協調体制を望む一橋派と、血統を重視し、現将軍に血筋の近い紀州藩主徳川慶福(後の徳川家茂)を推す保守路線の南紀派とに分裂し、激しく対立した。
その頃、米国総領事タウンゼント・ハリスが、通商条約への調印を江戸幕府に迫っていた。この時、江戸幕府は諸大名に条約締結・調印をどうしたらよいか意見を聞いていた。そして、条約締結はやむなし、しかし調印には朝廷の勅許が必要ということになり、幕府も承認した。このため、勅許を受けに老中・堀田正睦が京に上った。当初、幕府は簡単に勅許を得られると考えていたが、梅田雲浜ら在京の尊攘派の工作もあり、元々攘夷論者の孝明天皇から勅許を得ることは出来なかった。
堀田が空しく江戸へ戻った直後の安政5年(1858年)4月、南紀派の井伊が大老に就任する。井伊は無勅許の条約調印と家茂の将軍継嗣指名を断行した。前水戸藩主・徳川斉昭は、一旦は謹慎していたものの復帰、藩政を指揮して長男である藩主徳川慶篤を動かし、尾張藩主徳川慶勝、福井藩主松平慶永らと連合した。彼らは(条約調印自体は止むを得ないと考えていたが)「無勅許調印は不敬」として、井伊を詰問するために不時登城(定式登城日以外の登城)した。井伊は「『不時登城をして御政道を乱した罪は重い』との台慮(将軍の考え)による」として彼らを隠居謹慎などに処した。これが安政の大獄の始まりである。
薩摩藩主・島津斉彬は井伊に反発し、藩兵5000人を率いて上洛することを計画したが、同年7月に鹿児島で急死、出兵は頓挫する。斉彬死後の薩摩藩の実権は、御家騒動で斉彬と対立して隠居させられた父・島津斉興が掌握した。1858年8月には朝廷工作を行なっていた水戸藩らに対して戊午の密勅が下され、ほぼ同じ時期、幕府側の同調者であった関白・九条尚忠が辞職に追い込まれた。このため9月に老中間部詮勝、京都所司代酒井忠義らが上洛し、近藤茂左衛門、梅田雲浜、橋本左内らを逮捕したことを皮切りに、公家の家臣まで捕縛するという激しい弾圧が始まった。そして、吉田松陰が最後の刑死者となる。
京都で捕縛された志士たちは江戸に送致され、江戸伝馬町の獄などで詮議を受けた後、切腹・死罪など酷刑に処せられた。幕閣でも川路聖謨や岩瀬忠震らの非門閥の開明派幕臣が処罰され、謹慎などの処分となった。この時、寛典論を退けて厳刑に処すことを決したのは井伊直弼と言われる。[1]。
安政7年(1860年)3月3日、桜田門外の変において井伊が殺害された後、弾圧は収束する。
文久2年(1862年)5月 勅命を受け一橋慶喜が将軍後見職に、松平春嶽が政事総裁職に就任。
慶喜と春嶽は井伊直弼が行なった大獄は甚だ専断であったとして、
1.井伊家に対し10万石削減の追罰
2.弾圧の取調べをした者の処罰
3.大獄で幽閉されていた者の釈放
4.桜田門外の変・坂下門外の変における尊攘運動の遭難者を和宮降嫁の祝賀として大赦
を行なった。
幕閣では一橋派が復活し、文久の改革が行なわれ、将軍家茂と皇女・和宮の婚儀が成立して公武合体路線が進められた。
安政の大獄は幕府の規範意識の低下や人材の欠如を招き、反幕派による尊攘活動を激化させ、幕府滅亡の遠因になったとも言われる。
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★安政の大獄-Yahoo!百科事典 http://p.tl/MKwo
1858年(安政5)江戸幕府の大老井伊直弼(いいなおすけ)による尊攘運動(そんじょううんどう)への弾圧事件。 http://100.c.yimg.jp/lib/media/81306024001871.jpg
幕末の尊攘運動に一時期を画した政治的事件である。
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★井伊直弼の安政の大獄と桜田門外の変・尊攘運動の急速な台頭 http://p.tl/RBI0
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★安政の大獄に関するQ&A-Yahoo!知恵袋 http://p.tl/qzvU
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★安政の大獄~吉田松陰であります~ http://p.tl/PCeR
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★安政の大獄と井伊直弼 http://p.tl/Czrc
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★安政の大獄 http://p.tl/V2SS
1858年(安政5)、井伊直弼が尊攘派に対しておこなった弾圧事件。
京都では大勢の逮捕者が出た。
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★吉田松陰の最期(吉田松陰.com)http://p.tl/IcLE
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★安政の大獄処罰者一覧表(彦根藩士長野主膳まとめ)http://p.tl/PsIg
この表は記録に残ってるものだけで、他にも多数の処罰者がいた模様である。
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★橋本左内と安政の大獄: 今日は何の日?徒然日記 2012年10月7日 http://p.tl/GxTb
安政六年(1859年)10月7日、井伊直弼が行った安政の大獄で、越前藩士・橋本左内が 斬首されました。
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★前回書いたように、もしも井伊直弼の大老就任が無かったら http://p.tl/Rb-J
2009年05月31日 | 歴史「if」 徳川幕府は倒れるべくして倒れたのか。その問いには、そうだろうとしか言いようが無い。
世界史の情勢を見れば、あれ以上封建制の社会が日本で続いていくことは難しかったと考えられる。いかに極東の国であったとしても世界の流れには抗うことは出来なかっただろう。
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★もしも安政の大獄が無かったら http://p.tl/CE62
2009年06月15日 | 歴史「if」 安政の大獄の直接の原因は「戊午の密勅」であろうと考えられる。だが、それは膨らみきった風船を刺す針と同じことであっただろう。それまでに積載された事象があった。
少し整理してみる。
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★第3章 井伊直弼と安政の大獄 http://p.tl/nT1V
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