2013年4月15日月曜日

●掌典職(しょうてんしょく)日本の皇室において宮中祭祀を担当する部門

●掌典職(しょうてんしょく)日本の皇室において宮中祭祀を担当する部門
★掌典職(しょうてんしょく)http://p.tl/TZms 日本の皇室において宮中祭祀を担当する部門
宮中三殿においてその職務を行う。
戦前、国家機関であった当時は、宮内省の外局として国家機関の位置付けであった。
・宮内省式部職掌典部
「宮内省官制」(明治40年皇室令第3号)制定当時は、「典式」として式部職の所掌とされ、式部職に掌典部が置かれ、掌典長、掌典次長、掌典、内掌典及び掌典補を置くことが定められた。
   それぞれの職務権限を述べると、
「掌典長」は親任官又は勅任官とされ、皇室祭祀に奉仕し、掌典部・掌典職の事務を掌理し、所部職員を監督する。
.「掌典次長」は勅任官とされ、掌典長をたすけ、掌典長に事故があるときはその職務を代理する。
.「掌典」は12人を定員とされ、奏任官(名誉官とすることもできた。)とし、祭事を分掌する。
.「内掌典」及び「掌典補」は判任官とし、「内掌典」のうち1人は奏任官とできた。ともに祭事に従事する。
  .なお、「内掌典」は女性が就任する官職である。
・宮内省掌典職
「掌典職官制」(昭和14年皇室令第4号)により、宮内省に掌典職が置かれ、掌典職には、掌典長、掌典次長、掌典、内掌典、掌典補、事務官及び属を置くことが定められた。
 .掌典長、掌典次長、掌典、内掌典及び掌典補は、宮内省式部職掌典部時代と同様の職掌である。
 .「事務官」は奏任官として掌典職の庶務を掌り、「属」は判任官として掌典職の庶務に従事していた。
・内廷機関としての掌典職
1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行に伴う同省の廃止(宮内府への移行)により、掌典職も国家機関としては廃止された。
 
その後も皇室費の内廷費をもって人件費に充てられる職員が置かれる。現在は、天皇の私的使用人としての性格を有する『内廷の職員』とされ侍従のような宮内庁職員(国家公務員)ではない(天皇家に直接雇用されている存在)。
 
責任者の掌典長をはじめ掌典次長、掌典、内掌典、掌典補等、宮内省掌典職時代と同職名の職員が置かれている。
 
1975年以後伊勢の神宮や勅祭社における祭典では、天皇の使者である「勅使」をつとめる。
 
・関連項目
宮内庁侍従職   http://p.tl/GwNc
侍従       http://p.tl/lDgE
女官       http://p.tl/8NP2
高谷朝子(元内掌典)http://p.tl/VulS


★宮中祭祀(きゅうちゅうさいし)http://p.tl/9Bez
天皇が国家と国民の安寧と繁栄を祈ることを目的におこなう祭祀。皇居宮中三殿で行われる祭祀には、天皇が自ら祭典を斎行し、御告文を奏上する大祭と、掌典長(掌典職)らが祭典を行い、天皇が拝礼する小祭がある。

★宮中三殿(きゅうちゅうさんでん)http://p.tl/JbFq
皇居の三つの神殿、賢所(かしこどころ、けんしょ)、皇霊殿(こうれいでん)、神殿(しんでん)の総称。
吹上御苑の東南にある。
 
一年を通して、掌典(神職)と、内掌典(巫女)が清め護っている。
 
毎朝、午前8時から、賢所、皇霊殿では内掌典が、神殿では掌典が、清酒、赤飯などを供える「日供の儀」(にっくのぎ)をそれぞれ行い、午前8時30分に、宮内庁侍従職の当直侍従が、また天皇が行幸及び外国旅行で不在でも居残り役の侍従が、賢所、皇霊殿、神殿を天皇に代わって拝礼する「毎朝御代拝」(まいちょうごだいはい)を行う。日供の儀及び毎朝御代拝は、廃朝や宮中喪が発せられていても欠かさず行われる。
 
四方拝、新嘗祭は宮中三殿近くの神嘉殿で、鎮魂祭は宮中三殿近くの綾綺殿で行う。
 
宮中三殿の改修工事などの際には、「ご神体」は仮殿にそれぞれ「移御」される。

★四方拝(しほうはい)http://p.tl/C60y 宮中で行われる一年最初の儀式。
戦前には四方節とよばれていた。皇室令が廃止された戦後においても、皇室の私的な行事とされる以外は旧皇室令に準拠して行われている。
 
元日の午前5時30分に、今上天皇が黄櫨染御袍と呼ばれる束帯を着用し、皇居の宮中三殿の西側にある神嘉殿の南側の庭に設けられた建物の中に入り、伊勢の神宮の皇大神宮・豊受大神宮の両宮に向かって拝礼した後、続いて四方の諸神を拝する。ただし、2009年の四方拝は今上天皇の高齢化に伴う祭祀の簡略化により、皇居の御所において行われた。
 
この時に天皇が拝される神々・天皇陵は伊勢神宮、天神地祇、神武天皇陵・先帝三代(明治天皇の伏見桃山陵、大正天皇の多摩陵、昭和天皇の武蔵野陵)の各山陵、武蔵国一宮(氷川神社)・山城国一宮(賀茂別雷神社と賀茂御祖神社)・石清水八幡宮・熱田神宮・鹿島神宮・香取神宮である。
 
・沿革
平安時代初期の嵯峨天皇の御代に宮中で始まったとされている。儀式として定着したのは宇多天皇の時代とされ、『宇多天皇御記』の寛平2年旧暦元旦が四方拝が行われた最古の記録である。
 
旧暦元旦の寅の刻(午前4時ごろ)に、みかどが綾綺殿で黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう:みかどの朝服)を召され、清涼殿東庭に出御して天皇の属星(ぞくしょう:誕生年によって定まるという人間の運命を司る北斗七星のなかの星)、天地四方の神霊や父母の天皇陵などの方向を拝し、その年の国家・国民の安康、豊作などを祈った。
 
このとき唱えた言葉は、「内裏儀式」・「江家次第」に掲載されている。
 
これらによると、
 
“ 賊寇之中 過度我身、毒魔之中 過度我身、危厄之中 過度我身、五危(厄とも)六害之中 過度我身、百病除癒、所欲悩心、急々如律令 ”
 
とある。 これに倣って貴族や庶民の間でも行われ、四方を拝して一年間の豊作と無病息災を祈っていたが、時代を経るごとに宮中行事として残るのみとなった。
 
その後、応仁の乱で一時中断されたが、後土御門天皇の文明7年(1475年)に再興されて以後は孝明天皇に至るまで、京都御所の清涼殿の前庭で行われた。
 
明治以後は、国学的観点から、道教の影響(北斗七星信仰や急々如律令などの呪文)は排除され、純粋に神道祭祀として復元された上、国の行事として行われて四方節と呼ばれ、祝祭日の中の四大節の一つとされていた。

★新嘗祭(にいなめさい、にいなめのまつり、しんじょうさい)http://p.tl/8nkc
宮中祭祀のひとつ。大祭。また、祝祭日の一つ。
 
収穫祭にあたるもので、11月23日に、天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に進め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する。宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われる
 
・解説
本では、古くから五穀の収穫を祝う風習があった。その年の収穫物は国家としてもそれからの一年を養う大切な蓄えとなることから、大事な行事として飛鳥時代の皇極天皇の御代に始められたと伝えられている。
 
一時中断されたが、元禄時代の東山天皇の在位中に復活した。1873年(明治6年)の太陽暦採用以前は旧暦の11月の2回目の卯の日に行われていた[1]。1908年(明治41年)9月19日制定の「皇室祭祀令」では大祭に指定。同法は1947年(昭和22年)5月2日に廃止されたが、以降も宮中では従来通りの新嘗祭が行われ、最も重要な祭祀としている。神嘗祭と同様に神宮(伊勢神宮)には勅使が遣わされる。
 
また、「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」および「休日ニ関スル件」により、1873年(明治6年)から1947年(昭和22年)まで同名の祝祭日(休日)であった。以降も「国民の祝日に関する法律」により、勤労感謝の日と改称されて国民の祝日となっている[1]。なお、固定日の休日では最も長く続いており、11月23日は日本国民に最も定着している休日でもある。
 
現代では稀であるが、新嘗祭まで新米を口にしない風習も残っている。
★関連項目
大嘗祭 - 天皇に即位して最初の新嘗祭を大嘗祭と呼ぶ。
豊明節会  http://p.tl/WbqJ
五節舞   http://p.tl/hZ39
相嘗祭   http://p.tl/FtxY
神嘗祭   http://p.tl/-AKq
神道    http://p.tl/DDe6
伊勢神宮  http://p.tl/nr-X
長尾神社  http://p.tl/Z1s4


★鎮魂祭(ちんこんさい、みたましずめのまつり)http://p.tl/nB3l
宮中で新嘗祭の前日に天皇の鎮魂を行う儀式である。宮中三殿に近い綾綺殿にて行われる。石上神宮でも同日に行われている。天皇に対して行う場合には「みたましずめ」「みたまふり」と言う。鎮魂祭はかつては旧暦11月の2度目の寅の日に行われていた[1](太陽暦導入後は11月22日)。この日は太陽の活力が最も弱くなる冬至の時期であり、太陽神アマテラスの子孫であるとされる天皇の魂の活力を高めるために行われた儀式と考えられる。また、新嘗祭(または大嘗祭)という重大な祭事に臨む天皇の霊を強化する祭でもある。第二次世界大戦以後は皇后や皇太子夫妻に対しても行われている。

★賢所乗御車(かしこどころじょうぎょしゃ)http://p.tl/nNF7
日本国有鉄道の前身である鉄道院が、神鏡(八咫鏡)を輸送(移御)するために製造した鉄道車両(皇室用客車)である。

0 件のコメント:

コメントを投稿