● 【八幡】はちまん
「八幡神」(ほんだわけのみこと) 文武の神 応神天皇 品陀和気の命
八幡系は全国に三万とも四万とも言われ分祀の数では稲荷社につぐ二番目である
★はちまん 【八▼幡】
(名)
「八幡神」「八幡宮」の略。
(副)
〔八幡神に誓って、の意〕
(1)(下に否定の語を伴って)誓って。まちがいなく。
「―命かけて堪忍ならず/風流仏(露伴)」
(2)本当に。誠に。
「―気に入申候/浮世草子・一代男 7」
(3)(感動詞のように用いて)どうか。必ず。
「―一夜のお情あれ/浄瑠璃・嫗山姥」
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・はちまん 【八幡】
岐阜県中部、郡上(ぐじよう)郡の町。古来美濃と飛騨を結ぶ交通の要地で、近世は城下町。郡上踊り・郡上温泉などで知られる。
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・ばはん 0 【▽八▼幡】
(1)倭寇(わこう)の異名。
(2)海賊。また、海賊船。
「―の海賊乗りふせ/浄瑠璃・大職冠」
(3)江戸時代、国禁を犯して密貿易をしたり、外国に渡航したりすること。
(4)「ばはんせん(八幡船)」の略。〔室町時代から江戸時代にかけて用いられた言葉で、「奪販」「番舶」「破帆」などとも書く。一説に倭寇の船が八幡大菩薩の幟(のぼり)をたてていたことから生じた呼称ともいう〕
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・やはた 【八幡】
福岡県北九州市西部の地名。八幡東区と八幡西区に分かれる。もと独立の市で製鉄所を中心に発展。
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・やわた やはた 【八幡】
(1)千葉県市川市の地名。
(2)京都府南部の市。木津川・桂川・宇治川が合流して淀川となる狭隘部の南東部を占める。もと淀川水運の河港、石清水(いわしみず)八幡宮の門前町として発達。住宅地化が進む。
(3)石清水八幡宮のこと。
「―を伏し拝み/太平記 4」
» (成句)八幡の不知藪
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★源氏の守護神として人気拡大
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★八幡 歴史民俗用語辞典
読み方:バハン(bahan)
(1)倭寇。
(2)戦国時代~江戸時代の他人の物を略奪すること。
(3)国禁を犯して外国に渡ること。
(4)江戸時代の長崎に入港した唐船から積荷を陸揚げすること。
(5)中世の海賊船、江戸中期の密貿易船。
別名 破帆、番舶、奪販
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★八幡 隠語大辞典
読み方:やわた
1.芸人・理髪業者の符牒にして八といふ数量を表す。八幡(はちまん)は、「やはた」と読むからいつたものである。通り符牒を参照せよ(※巻末「通り符牒」参照)。〔符牒〕
2.芸人社会で、八の数をいう語。
3.数字の八。八幡はヤワタだから。〔芸能(寄席・落語)〕
4.八。〔理髪業・職人〕
5.〔芸〕数字の八。八幡は「やわた」だから。
6.〔符牒〕数字の八、八幡はヤワタとも読む。
7.八幡太郎より出ず。
分類 寄席、寄席/落語、理髪業/職人、符牒、芸人、芸能、芸能界、落語界
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★八幡(はちまん、やはた、やわた、はつま)http://p.tl/WCve
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★八幡で始まる記事の一覧 http://p.tl/Qt6R
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★源 義経(みなもと の よしつね、源義經)(八幡太郎源義と教えられた。年の違いで変わっている)
平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。
河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に奥州平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平家打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、その最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平家との戦いにおける独断専行によってその怒りを買い、それに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた。
その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓という言葉、多くの伝説、物語を産んだ。
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★源 義家(みなもと の よしいえ)http://p.tl/RfvV 平安時代後期の武将。伊予守源頼義の長男。
(今はこちらを言うらしい)八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる。後に武家政権鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府の足利尊氏などの祖先に当たること等から後世に英雄視され、様々な逸話が生み出される。
比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となったとき、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約10年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された。
その活動時期は摂関時代から院政時代に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な憶測がされてきた。生前の極位は正四位下。
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