2012年10月28日日曜日

●奈良明日香時代

●奈良明日香時代
★飛鳥時代 - Wikipedia  http://p.tl/jXnF
古墳時代と合わせて大和時代とされていた時期があったが、今日では古墳時代と飛鳥時代に分けて捉えるのが一般的である。推古朝に飛鳥文化、天武・持統朝に白鳳文化が華開いた時代でもある。
現在の奈良県高市郡明日香村付近に相当する「飛鳥」の地に宮・都が置かれていたとされることに由来する。「飛鳥時代」という時代区分は、元々美術史や建築史で使われ始めた言葉である。1900年前後に、美術学者の関野貞と岡倉天心によって提案され、関野は大化の改新までを、岡倉は平城京遷都までを飛鳥時代とした。日本史では通常、岡倉案のものを採用しているが、現在でも美術史や建築史などでは関野案のものを使用。大化の改新以降を白鳳時代(はくほうじだい)として区別する事がある。
★奈良時代 - Wikipedia  http://p.tl/-L4W
平城京(奈良)に都が置かれた時代である。平城時代(へいじょうじだい)ともいう。
広義では、710年(和銅3年)に元明天皇によって平城京に遷都してから、794年(延暦13年)に桓武天皇によって平安京に都が遷されるまでの84年間。狭義では、同じく710年から、784年(延暦3年)に桓武天皇によって長岡京に都が移されるまでの74年間を指す。
「奈良の都」の異名を持つ平城京に都が置かれたことから、「奈良時代」や「平城時代」という。740年から745年にかけて、聖武天皇は恭仁京(京都府木津川市)、難波京(大阪府大阪市)、紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽)に、それぞれ短期間であるが宮都を遷したことがある。

★白鳳文化(はくほうぶんか)http://p.tl/n-ec
645年(大化元年)の大化の改新から710年(和銅3年)の平城京遷都までの飛鳥時代に華咲いたおおらかな文化であり、法隆寺の建築・仏像などによって代表される飛鳥文化と、東大寺の仏像、唐招提寺の建築などによって代表される天平文化との中間に位置する。なお、白鳳とは日本書紀に現れない元号(逸元号や私年号という)の一つである(しかし続日本紀には白鳳が記されている)。天武天皇の頃に使用されたと考えられており(天智天皇のときに使用されたとする説もある)、白鳳文化もこの時期に最盛期を迎えた。

★飛鳥文化(あすかぶんか)http://p.tl/E0x4
推古朝を頂点として大和を中心に華開いた仏教文化である。時期としては、一般に仏教渡来から大化の改新までをいう。
朝鮮半島の百済や高句麗を通じて伝えられた中国大陸の南北朝の文化の影響を受け、国際性豊かな文化でもある。多くの大寺院が建立され始め、仏教文化の最初の興隆期であった。
仏教の百済からの公伝は、538年(宣化天皇3年)または552年(欽明天皇13年)とされている。『日本書紀』は欽明天皇13年(552年)、百済の聖王(聖明王)の使者が金銅釈迦仏像、経典などを天皇に献上したと記す。一方、『上宮聖徳法王帝説』、『元興寺縁起』はこれを欽明天皇7年の戊午年(538年)のこととする。『書紀』と『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』とでは天皇の在位年代が異なっており、上記の戊午年は『書紀』では宣化天皇3年にあたる。現在では仏教公伝を538年とする説が一般的だが、異説もある(詳細は「仏教公伝」の項を参照)。

★仏教公伝(ぶっきょうこうでん)http://p.tl/Hk_Q
国家間の公的な交渉として仏教が伝えられることを指す。上代の日本においては6世紀半ばの欽明天皇期、百済から倭(古代日本)への仏教公伝のことを指すのが一般的であり、この項でもそれについて説明する。単に仏教伝来と称されて来たが、後述のごとく公伝以前に、すでに私的な信仰としては伝来していたと考えられるため、「公伝」と称されることが多い。
★渡来人による私的崇拝  http://p.tl/C4TR
古代の倭へは、古くから多くの渡来人(帰化人)が連綿と渡来してきており、その多くは朝鮮半島の出身者であった。彼らは日本への定住にあたり氏族としてグループ化し、氏族内の私的な信仰として仏教をもたらし、信奉する者もいたと思われる。彼らの手により公伝以前から、すでに仏像や経典はもたらされていたようである。522年に来朝したとされる司馬達等(止利仏師の祖父)などはその好例で、すでに大和国高市郡において本尊を安置し、「大唐の神」を礼拝していたと『扶桑略記』にある。
★蕃神(あだしくにのかみ)・今来神(いまきのかみ) http://p.tl/TDKc
仏教が伝来する以前、倭には土着の宗教(信仰)として原始神道(古神道)が存在したと思われる。新たに伝来した仏教における如来・菩薩・明王などの仏も、これらの神といわば同列の存在と把握されたことは想像に難くない。これらは一般的な倭人にとって「蕃神(あだしくにのかみ)」「今来の神(いまきのかみ)」「仏神」として理解されたようである。受容の過程が下記のように紆余曲折を経たこともあり、神道とは違う仏教の宗教としての教義そのものの理解は、主として7世紀以降に進められることとなる。

★ばんしん 0 【▼蕃神/蛮神】歴史民俗用語辞典
外国人の信じている神。また、外国から渡来した神。
外来の神を指して言った語。
別名 隣国の神、客神、今来神

★大和時代(やまとじだい)  http://p.tl/Pjnp
一般的には4世紀頃から6世紀頃までを指すが、時に飛鳥時代(6世紀後半 - 7世紀)をも含め、弥生時代の後、奈良時代の前をいうこともある。ただし近年では、「古墳時代」という時代区分の方が一般的となり、「大和時代」はあまり使われなくなった。ヤマト王権による支配が強まり、壮大な古墳(前方後円墳・円墳)が盛んに作られ、古代国家の基礎が整えられた時期にあたる。
前期は大伴・物部・蘇我の各豪族が先後して実権を握っていたが、聖徳太子の法律(十七条憲法)・官制改革(冠位十二階)を経て、大化の改新(645年)後、天皇中心の政治へ変換していった。朝廷はそれまでの氏姓制度を改め、公地公民制や統一的税制(租庸調制など)を施行し、地方行政機構を改組して中央集権化するなど、律令制の導入を図った。
また、6世紀前半には仏教が朝鮮半島より伝来し(日本の仏教の項を参照)、さらに遣隋使・遣唐使の派遣もあって、農業・鍛鉄・建築など多方面にわたって技術が発展し、なかでも仏教美術は発達した。

★古墳時代(こふんじだい)  http://p.tl/CAk4
日本列島において古墳、特に前方後円墳の築造が卓越した時代を意味する、考古学上の時期区分である。一般に、縄文時代、弥生時代と対比して用いられる場合が多い。当然のことながら、古墳の成立とその衰滅をいかに捉えるかによって、古墳時代の時期区分にも微妙な差異が生じる。例えば、前方後円墳が造営され始めた年代に関しても、現在議論が大きく揺れ動いている。現在のところ一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の時代と呼ばれることもある。
前方後円墳が造られなくなった7世紀に入っても、方墳・円墳、八角墳などが造り続けられるが、この時期を古墳時代終末期と呼ぶこともある。

★古墳(こふん)  http://p.tl/ZttP
一般に日本史上、3世紀後半から7世紀前半に築造された墳丘を持つ古い墓である。古代の東洋では位の高い者や権力者の墓として盛んに築造された。
日本史では、墳丘を持つ墓は墳丘墓と呼んでいるが、この内、3世紀後半から7世紀前半に築造されたものを特に「古墳」と呼んで区別している。

★墳丘墓(ふんきゅうぼ) http://p.tl/pkp1
一般に、上に土あるいは石を積み重ねて丘のような形(墳丘)とした墳墓をいう。墳丘は塚、マウンド(Mound)、土饅頭などと呼ぶこともある。世界の様々な地域にあり、代表的なものとして日本の古墳があるが、日本でも弥生時代から現代の陵墓に至るまでいろいろな時代に造られている。
なお、弥生時代の墳丘墓を古墳時代の古墳と区別して特に墳丘墓(弥生墳丘墓)と呼ぶ。

★弥生時代の墓制(ぼせい) http://p.tl/Dmfl
縄文時代は、住居のそばに埋葬することが一般的であり、共同墓地としてはストーンサークルが知られるが、弥生時代になると集落の近隣に共同墓地を営むことが一般的となった。また、縄文期には地面に穴を掘り遺体を埋葬する土壙墓(どこうぼ)が中心だったが、弥生期は甕棺・石棺・木棺など埋葬用の棺の使用が中心となっていく。弥生期の墓制は、地域ごと、時期ごとに墓の形態が大きく異なる点に特徴があった。社会階層の分化に伴い、階層による墓制の差異も生じた。
甕棺墓(かめかんぼ)は、甕・壺を棺とする墓である。弥生時代前期~中期の北部九州で非常に顕著に見られる。甕棺墓は縄文時代から一部に見られていたが、甕棺は小型でありもっぱら乳幼児の葬送用であった。弥生時代前期の北部九州において、成人埋葬用に大型の甕棺が製造され始め、甕棺墓が定着し始める。この頃は、支石墓の直下に甕棺を埋葬する形態も見られた。弥生時代中期に甕棺墓は最盛期を迎える。主として前原市付近、福岡市付近、佐賀県神埼郡付近などに分布していた。弥生時代後期から衰退し、末期にはほとんど見られなくなる。このような変遷は、地域社会の大きな変貌があったと考えられる。

★あすか(飛鳥、明日香、アスカ、ASUKA、ASKA、阿須賀、安宿) http://p.tl/drbt
・日本の地名
 ・奈良県明日香村
 ・大阪府羽曳野市飛鳥
  ・飛鳥 - 奈良県明日香村周辺
  ・飛鳥(近つ飛鳥) - 大阪府羽曳野市東部・太子町周辺⇒河内飛鳥
  ・飛鳥時代 - 日本の6世紀の終わり頃から8世紀初頭を指す時代区分
  ・飛鳥駅 - 奈良県高市郡明日香村にある近畿日本鉄道吉野線の鉄道駅
 ・青森県青森市飛鳥
 ・青森県三戸郡南部町大向飛鳥
 ・山形県酒田市飛鳥
 ・岩手県二戸市浄法寺町飛鳥
 ・宮城県名取市高舘熊野堂飛鳥
 ・三重県熊野市飛鳥町
 ・和歌山県新宮市阿須賀町
 ・広島県東広島市豊栄町安宿

★明日香(村)(あすか) http://p.tl/UVHP
奈良県中部、高市(たかいち)郡にある村。1956年(昭和31)高市、飛鳥(あすか)、阪合(さかあい)の3村が合併し、新村名を『万葉集』にみられる同地の呼称「明日香」からとった。... 新村名を『万葉集』にみられる同地の呼称「明日香」からとった。飛鳥川上流域を占め、竜門(りゅうもん)山地北斜面から ... 1980年には「明日香保存特別措置法」が公布された。この地を舞台に古代の日本史を ...

★飛鳥寺(あすかでら) http://p.tl/BVkf
奈良県明日香(あすか)村にある新義真言宗豊山(ぶざん)派の寺。本元興寺(もとがんごうじ)、安居院(あんごいん)ともいい、本尊の丈六釈迦如来坐像(じょうろくしゃかにょらいざぞう)(約2.75メートル)に ...

★飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや) http://p.tl/Dkbg
672年(天武1)から藤原宮(ふじわらのみや)へ遷都する694年(持統8)までの天武・持統両朝の宮。... 橘寺(たちばなでら)背後の「ミハ山」であろうから、この宮殿は明日香(あすか)村岡(おか)の国史跡「伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきのみやあと)」付近にあったものであろう。 ...

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