2014年8月28日木曜日

      夫婦別姓 裁判

      夫婦別姓 裁判 楽仙堂さんの日記 2011年01月06日17:11 夫婦別姓で精神的に苦痛を受けたのは、 憲法違反であるという裁判が起されたそうです。 《いわゆる夫婦別姓が認められず、姓を同じにしなければ婚姻届が受理されないのは、婚姻の自由などを保障した憲法に違反するとして、富山県などに住む5人の女性が訴えを起こすことが分かりました。夫婦別姓を認めるよう求めて訴えが起こされるのは初めてです。 訴えを起こすのは、富山県の塚本協子さん(75)のほか、東京や大阪、それに京都に住む30代から70代のあわせて5人の女性です。民法では、婚姻届を出す際に夫か妻、どちらかの姓を選ぶよう定められています。塚本さんたちは夫の姓で婚姻届を出しましたが、自分のもともとの姓を名乗れないことで精神的な苦痛を受けたなどとして、「同じ姓にしなければ婚姻届が受理されないのは、婚姻の自由などを保障した憲法に違反する」と主張し、国や自治体にあわせて500万円余りの賠償や、夫婦別姓での婚姻届の受理を求めて、近く、東京地方裁判所に訴えを起こすことにしています。塚本さんは「名前を変えることは私が私でなくなることです。 別姓の夫婦でも結婚できるように認めてほしい」と話しています。弁護団によりますと、夫婦別姓を認めるよう求めて裁判が起こされるのは初めてです。夫婦別姓については、「家族の一体感が薄れ絆がなくなる」とか「子どもに悪い影響を与える」といった反対意見も多く、世論調査でも賛否はきっ抗しています。政府は、同じ姓を名乗るか別の姓を名乗るか選択できる「選択的夫婦別姓制度」の導入を検討していますが、政府の中でも意見は分かれ、結論は出ていません。議論が平行線をたどるなか、初めて司法の判断が求められることになります。》 国会で夫婦別姓法案を突破させるために、からめ手で攻めてきているとしか 思えないません。 なんなんでしょうね、このタイミングは・・・・。 2011年 01月06日 しまっぽい黒犬 姓が変わったことでの精神的苦痛??? 愛する人と同じ姓になって何で精神的苦痛がおきるの?自分の姓をかえたくなかったのなら相手に自分の姓になってもらう事だってできたはずです、その話あいも出来ないような夫婦関係だったのが精神的苦痛の原因じゃないんですかね(呆) まさしく夫婦別姓法案をだすためのからめ手ですね!本当に腹立しいです(`・д・)

●香水(こうすい)とは

●香水(こうすい)とは   香水(こうすい)は、体や衣服に付け、香りを楽しむための化粧品の一種。 ウィキペディアより 概説 もともと宗教的な用途や薬用として使われていたが、近代以降、楽しみやたしなみとしての香水が生まれた。香料をアルコールなどの溶剤に溶かして作られるものが多いが、他にもワックスに練り込まれた固形状の物などもある。現在では数多くのブランドが生まれている。 装飾品同様、定番のブランドがある一方で、新商品、季節限定商品が市場で注目されることも多い。女優などが自分の名前を冠した商品やブランドを立ち上げることもある。 香水は付けた人間の体臭と混ざり合って香りを演出するので、液体の香りそのものからは身に付けた際の香りを知ることはできない。肌の酸性度(pH - ペーハー)、水分量、皮脂量が各人異なるうえ、皮膚を構成するタンパク質の末端のアミノ酸の違いで飛ばされる香料と残される香料に個人差がある。また、香りは時間がたつにつれて変化する。香水をつけて10分くらいの香りをトップ・ノート、少し時間が経って20分から30分ぐらいの香りをミドル・ノート、大分時間が経って消えてしまうまでの香りをラスト・ノートという。変化のしかたや早さは、濃度や商品によってさまざまである。 揮発性を利用することから、一般的には体温の高い脈打つ場所につけるとされる。特にひじの内側につけると皮膚温が高く、動作のある為、効率よく揮発する。同じ静脈でも手首は衣服や物に触れる事が多く、案外消えが早くなる。また香りの変化や持ち・目的に合わせてつける場所も変える。しかし香水の成分には光毒性(光感作)のあるものも多く、シミの原因にもなるので直射日光の当たる場所につけるのは勧められない。特に鼻と両肩を結ぶトライアングルを形作る部分はタブー。香りは体の位置の低い部分から高い部分へ立ちのぼるのでつける部位と分量は十分な配慮が必要である。自分でも香りが分かるようではつけ過ぎのことが多い。またハンカチやスカートのすそなど、衣服につける場合もある。この場合は香水によるシミができることがあるので、使用後の衣服の取扱いに注意が必要となる。皮膚の敏感な人は直接膚につけずコットンなどにしみ込ませて下着の間、ポケットなどに忍ばせると良い。 香水の調合を職業とする者を調香師(パフューマー、parfumer)と言う。フランスでは、極めて評価の高い調香師をさす「ネ」(仏:nez; 「鼻」の意)という称号がある。石鹸、シャンプー、洗剤等の日用品や、清涼飲料水等の食品に添加する香料を調合する人はパフューマーではなくフレーヴァリスト(flavorist)と言う。 日本でも香水は化粧品の一種として広まってはいるが、欧米ほど使用が一般的になってはいない。これは、食生活や入浴頻度などの文化的経緯から臭い、味覚に敏感であり、無臭が好まれているためである。また、そもそも欧米人と比較して、日本人の多くを占めるモンゴロイド(特に弥生人にあたる新モンゴロイド)には腋臭が少ない人が多いためとも考えられる。その結果、香水そのものの認知やにおいに対するマナーの違いなどにも影響を与え、香水の普及に歯止めをかけていると言える。日本の化粧品会社の製品もあるが、人気商品の多くは代理店などによって海外から輸入されたものである。 歴史 紀元前1850年頃に香水を製造していたとされる最古の工場跡地はギリシアで発掘された。[1] アルコールに溶かす香水が作られるようになったのは、イスラム社会でアルコールの製造法がヨーロッパに伝えられてからである。それまでは油脂に香りを吸着させた香油やポマードが使用されていた。14世紀にハンガリー王室で使用された、ローズマリーを原料としたもの(ハンガリアンウォーター)がそれである。その後、ルネサンス期のイタリアで発展し、ヨーロッパ各地に広まっていった。 16世紀から19世紀までのヨーロッパ(特にフランス)では、風呂に入ると梅毒などの病気になりやすいと信じられたため、入浴という行為が一般的でなく(国王ですら一生で3回しか入浴しなかったという記録がある)、そのための体臭消しとして発達していった。また、なめし革の臭いを取るためにも使われた。 分類 香料による分類 ひとつの香水には平均して50~200種類もの香料が含まれている。更に、それらの香料はまた何百という香りを構成する成分からなっている。莫大な種類の成分が複雑に組み合わされることで香りが出来上がるため、その成り立ちの面から見ると、似た香りはないといえる。 基本的に、天然の香料はその希少性から高価であるため、化学的な調香もよく行われる。 天然香料 植物性香料:花、葉、果実、樹皮、根などを原料にする。 動物性香料:動物の生殖腺分泌物等から。ムスク(麝香、ジャコウジカ)、シベット(霊猫香、ジャコウネコ)、アンバーグリス(龍涎香、マッコウクジラの腸内結石)、カストリウム(海狸香、ビーバー)、ジャコウネズミの5種が知られており、シベットのみエチオピア産の天然香料が使われることがある。それ以外は、現在ではほぼ合成へ移行している。 合成香料 合成香料:自然界の香りの成分を分析し、同じ構造の化合物を原料から化学的に合成する。あるいは天然には無いものを合成する(例: 白檀の天然香料はサンタロールという物質であるが、非常に稀少であり合成も難しい。そのため、イソカンフィルシクロヘキサノール、フランスのジヴォダン(Givaudan)社が開発したサンダロア、スイスのフィルメニッヒ(Firmenich)社が開発したポリサントールなどの物質が用いられている)。 単離香料:天然の香料から成分を部分的に分離させる(例:ハッカからメントールを造るのがこの方法)。 香調による分類 香水はその香りのタイプ(香調)によっていくつかに分類される。複数の香調を組み合わせて作られた香水も多い。 シトラス:主にレモンやライムの香りでオー・デ・コロンに多い。 フローラル:バラ、ジャスミン、スズランなどの花の香り。 アルデヒド:合成香料類の総称。フローラル系の濃厚な香りを指す。 シプレ:ベルガモット、オークモスを基調とした香り。コティ(Coty)社の香水「シープル」に由来する。 フゼア:ラベンダー、ゼラニウムを基調とした香り。ウビガン(Houbigant)社の香水「フゼア・ロワイヤル」に由来。多く男性用。 オリエンタル:バニラ、没薬(ミルラ)や乳香(オリバナム、フランキンセンス)等の天然樹脂系を基調とした香り。 アニマリック:ムスク、霊猫香等を基調にした香り。 ウッディ:白檀、パチュリなど香木を基調とした香り。男性向けに多い。 オゾン:マリンノート・アクアノートとも言われる。1990年代に登場したキャローンと呼ばれる完全な合成香料により実現した、自然界には実在しない全く新しいノート。海やスイカ、干している洗濯物などをイメージさせる透明感のある瑞々しい香り。主に男性向けだが、最近はユニセックスの香水にも多く使われる。 濃度による分類 パルファン (parfum(s)) またはエクストレ (extrait(s)) 狭義の「香水」。parfumは英語のパフューム (perfume) と同語源だが、英語ではperfume extractまたはextraitという。 濃度15 - 20%、アルコール75 - 80%、蒸留水0 - 5%、持続時間およそ5 - 7時間 オードパルファン (eaux de parfum, EdP) ブランドによりパルファンドトワレとも言う 濃度10 - 15%、アルコール80%、蒸留水5 - 10%、持続時間およそ5時間 オードトワレ (eaux de toilette, EdT) 濃度5 - 10%、アルコール80%、蒸留水14 - 15%、持続時間およそ3 - 4時間 オーデコロン (eaux de Cologne, EdC) 濃度2 - 5%、アルコール90%以上、蒸留水5% - 10%、持続時間およそ1 - 2時間 練り香水 濃度による分類とは言いがたいが、パルファンやコロンと同様に香料の種類を示す。液体ではなく、蜜蝋などに香を混ぜた固形物であるのが大きな特徴。 商品により「オードトワレ・レジェール」「オードレジェール」と呼ばれる分類のものもあるが、濃度上では上記のオーデコロンに相当する。 (レジェールはフランス語で「軽い」「優しい」「穏やかな」等の意) 使用者の性別による分類 大きく男性用と女性用に別れるが、共用(ユニセックス)の商品も多い。異性向けの香水を身につけることも、現代では決してタブーとはされない。ただ、この感覚は国によって異なる傾向がある。例えば、現代の日本では比較的タブー意識が薄いが、アメリカ合衆国では特に男性が女性用香水をつけるとゲイと受け取られるケースがある。その一方で、イギリスでは老舗であるヤードリーやクリード、フローリス、ペンハリゴンズなどが男性が付けるためのフローラルノートを発表している。 日本ではユニセックスのものが比較的良く売れる傾向があるが、フランスでは男性用か女性用にきっちり分けられ、共用を謳ったものはほとんど発表されていない。 また、フランスやイタリアではトップノート~ミドルノート~ラストノートと変化が明確なものが好まれるが、アメリカ合衆国では逆にほとんど変化のしないものが好まれる傾向にある。 フレグランスホイール 1983年にマイケルエドワーズによって考案された香りの分類方法である。[2] 香水入れなど 香水は通常、瓶に入っているが、携帯するためや香水を出しやすくするために別の容器を使用することがある。主にアトマイザーが多い。 ボトルタイプ 小瓶の香水入れ。 ロールタイプ 香水を直接塗る。量を調節しやすいが香水の匂いが変わりやすい。 スプレータイプ 口の部分がスプレーになっている。8分目くらいが目安。 香水の登場する映画など 嫉妬の香り パフューム ある人殺しの物語 小説であり映画にもなって一世を風靡した『風とともに去りぬ』では主人公スカーレット・オハラが自分の酒臭さを消すために香水でうがいをするという、彼女の破天荒だが目的に対する強い意思力を表現するために印象的に香水を使った場面がある。 映画『ワーキング・ガール』で、主人公のキャリアウーマンが元恋人をベッドに誘うためにシャリマー/SHALIMAR(ゲラン)をつけるシーンがでてくる。 映画『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』の中では、クラブ歌手の女性が匂いに耐えかねインドゾウに香水をかけるシーンがある。 マリリン・モンローが「寝るときは何を着ているのですか?」という質問に対し「シャネルの5番(香水の商品名)をつけている」(英語で衣服を身に着けることも香水を付けることも「wear」という動詞を使う。一種の言葉遊び)と答えたという有名なエピソードがある。 「オイディプスの刃」 ウィキペディアより トイレの話は以前書いたけれども日本は凄く発達していてフランス人が江戸へ来てビックリしていた。 昔はフランスにトイレが無くてドコでも構わずしていた。 宮殿の中にトイレは無い。 アパートなどにもトイレは無くてバケツにして二階以上は道路に捨てていた。 本当は道路まで持って降りて開けるのだけど誰も守らず窓から捨てる。 それをパリ市がかき集めてセーヌ川に流していた。 衛生観念は殆ど無かった。 スペイン風邪などはそれで大流行した。 セーヌ川は今でこそ綺麗だけど当時どぶ川だった。 余りにもクサイので匂いごまかしに香水が発達した。 今でこそ西洋人は格好いい事言ってるけれども汚くて野蛮人が多かった。 白人の殺した人数十億人できかないという。 日本は昔から綺麗な国だった。 これは余り文献に載っていないと思う。 こうずい 香水 (仏教) - 仏教において供養に用いられる水。 香水 (仏教) 香水(こうずい)は、寺院や仏壇において、仏に捧げられるものの一つであり、多くは金銅製の瓶に入れて、もっとも仏の近くにまつられる。 しばしば閼伽と混同されるが、単なる水ではなく、樒という照葉樹の一枝を刺すことによって水が香水となることを、鑑真によって伝えられた。 シキミ(樒、櫁、梻 Illicium anisatum)はシキミ科の常緑高木である。かつてはモクレン科に分類されていた。有毒。仏事に用いるため寺院に植栽される。 地方によりシキビ、ハナノキ(カエデ科にも別にハナノキがある)、ハナシバなどともいう。 学名にはリンネが命名したIllicium anisatum L.と、シーボルトが命名したI. religiosum Sieb. et Zucc.("religiosum"は「宗教的な」という意味)が存在するが、リンネのものが有効となっている。 閼伽(あか)は、仏教において仏前などに供養される水のことで六種供養のひとつ。サンスクリット語のargha(アルガ)の音写で、功徳水(くどくすい)と訳される。閼伽井から汲まれた水に香を入れることがあり、閼伽香水とも呼ばれることもある。 インドでは古く、来客に対し足をそそぐための水と食事の後口をすすぐための水が用意されたといい、それが仏教に取り入れられ、仏前や僧侶に供養されるようになったものである。 閼伽を汲むための井戸を「閼伽井」、その上屋を「閼伽井屋」、「閼伽井堂」と称される。また、閼伽を入れる瓶(びん)を水瓶(すいびょう=軍持)と称し、閼伽を入れる器を「閼伽器」、閼伽を供える棚を「閼伽棚」と称される。 サンスクリットの原語は東へ伝わって閼伽となる一方、西にも伝播してラテン語の"aqua"(水)となったという説が広く知られているが、それは語源俗解に過ぎないとする説もある。 ウィキペディアより

●お江戸の古着屋

●お江戸の古着屋   「ロハス」という言葉、健康な暮らしと持続可能な社会を心がける暮らし方の総称だそうだ。かつての日本にもそういう時代があった。  そんな発想から文化の日の十一月三日、東京で「江戸文化歴史検定」が実施される。地域の歴史や文化、自然などについての知識を問う、はやりのご当地検定の一種である。  ただし、特定の地域ではなく、元禄期を中心に、二百六十五年の長きにわたって続いた太平の世として知られ、庶民の文化が大きく花を咲かせた江戸という時代に絞り、当時の暮らしぶりに焦点を当てるのが特色だ。  その「江戸検定」の模擬問題から、  「江戸の町はリサイクル都市だったといわれています。では、享保年間(一七一六-三六年)の江戸の町で、幕府公認の商人が一番多かったのは、何でしょう?」とあって、質屋、古着屋、古道具屋、古鉄屋から答えを選ぶ。  正解は古着屋。 着物は竹馬に載ってやって来る  物を無駄にしない江戸では、着物も古着が当たり前です。現在も繊維業関連の問屋が並ぶ日本橋富沢町は、古着屋の軒が連なり大きな市も立つ町でした。日常着や各地の名産織物、大名クラスの豪華な着物もここに集まり、また全国へと買われていったのです。なお富沢という名は、鳶沢陣内(とびさわじんない)に由来します。彼は名うての大泥棒でしたが、ついに御用となった時にお上はこれを許します。改心した彼は手下を集め、元吉原のそばで古着買いの商売を始めたのです。そうやって商売をしながら、彼は隠密の務めを果たしていたのだとも言われています。真相はともかく「鳶沢町」は着物の集まる町として発展し、そしてやがて「富沢町」と呼ばれるようになりました。  江戸を歩きながら、古着を売って回る商人たちもいました。竹で作った馬のような形の物に古着や古布をかけて歩く「竹馬古着売り」が長屋にやって来ると、おかみさんたちがいそいそと出て来て竹馬を取り巻きます。かつては腕に古着をかけて歩いていた商人が、腕が疲れるので竹の馬を使うようになりました。江戸から生まれたこのスタイルは、やがて京都や大坂にも伝わっていきました。 江戸庶民は モノを使い切るリサイクルの達人だった  江戸時代の人はすごいな、と感心してしまうことの一つにリサイクルがある。毎日の生活に欠かせない着物の再利用を例に、驚くべきリサイクルを紹介しよう。  まず江戸の人は、着物をどこで買っていたのだろうか。新しくあつらえる場合は、「呉服店」や「太物(ふともの)店」で反物を購入する。呉服は絹もの、太物は木綿ものの意味である。既製のものはなく、この反物を自分で仕立てるか、仕立てに出して着ることになる。ちょっとやっかいである。この絵は、太物店(木綿店)の店先の様子、店構えもなかなか立派だ。  もうお分かりのように、ここまでのお話は、一部のお金持ちの場合である。新調された着物もやがて古くなると、古着の仲買人がやって来て、今度は「古着屋」の店頭に並ぶことになる。この段階からが庶民の登場である。庶民は通常、着物を古着屋で買った。当時、古着は恥ずかしいものでもなく、苦にすることもなかったようだ。  古着屋は、神田川沿いの柳原土手あたりに軒を連ねてあった。柳原土手は有名な古着屋街で、江戸周辺の人々も買いにやって来たという。その他にも、古着屋街は江戸にはたくさんあった。  着物の本格的な再利用の旅は、ここから始まる。大人用の着物を古着屋で買ったとすると⇒古くなれば使える部分で子ども用に作り直す⇒次の子どもが生まれたらオシメに⇒オシメがとれたら雑巾に⇒たき付けに⇒灰になったら洗濯に、肥料に……という具合である。もっとも、作り直す際に出る端切れは「端切れ屋」が買ってくれたし、灰も買っていく業者がいた。燃やして灰になってからもまだ使うというのは、究極の再利用である。  このようなリサイクルが可能だったのは、一個人や家庭の心がけのレベルでなく、江戸の社会の仕組みがそうなっていたからである。  新しい物がどんどん売れないということは、経済が停滞すると思いがちだが、そうではない。雇用も生まれてくる。壊れた物を修理する職人、不要になった物を買う業者、それを運ぶ人、加工する人、販売する人。そしてまた、それを買う庶民がいた。これが繰り返される。いろいろな仕事や職人を大都市江戸は必要としたのである。江戸に職人が多くいたのもうなずける。  現代人が、リサイクルとか再利用について考えるとき、江戸時代は数多くのヒントを与えてくれる時代だろう。生活様式がまったく違うから、一概に江戸時代の手法をそのまままもってくることはできないが、学ぶべきところはいっぱいありそうである。 古い布きれも立派な商品である  洗濯物を干しているわけではない。これは、れっきとした店舗である。いろいろな布を取り揃えてディスプレイし、客を待っているところである。  この布を「古裂れ(こぎれ)」と呼ぶ。古裂れとは、着物を再利用して仕立て直しをしたときに出る「端切れの布」である。傷んだ着物の使える部分を切り取ったものもあり、主に継ぎあて用に使われた。江戸の再生・再利用の経済は、「古裂れ屋」「端切れ屋」と呼ばれる商売を誕生させた。彼らは「古裂れ掛け」を担いで町を売り歩いた。布がとても貴重であったことが分かる。  写真に向かって右側に吊してある古裂れに注目してみよう。欄外にも示したように、これは有名な江戸の文様だ。小さなことにこだわらない心意気「構わぬ」を「鎌わぬ」と洒落てデザインしている。継ぎ接ぎ(つぎはぎ)の古着を想像すると、貧乏くさい気もするが、こんなところにも江戸っ子らしさが出ていて面白い。 http://blog.goo.ne.jp/hardworkisfun/e/8f15becc5e92a7c3b7e7ebc15b1891aa 江戸の古着屋 古着屋総兵衛影始末(ふるぎやそうべえ かげしまつ)は、徳間文庫から書き下ろしで刊行されている佐伯泰英の時代小説シリーズ。 第11巻の最後で「第一部 了」とされており、現在は新刊は発行されていない。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E7%9D%80%E5%B1%8B%E7%B7%8F%E5%85%B5%E8%A1%9B%E5%BD%B1%E5%A7%8B%E6%9C%AB  概要 この小説は、徳川家康から影旗本として密かに徳川家を護持する事を命じられた鳶沢一族と時の権力者・柳沢吉保との暗闘が物語の主軸となっている。 富沢町の古着屋を、「武」と「商」に生きる鳶沢一族として描くこの物語の着想は、三田村鳶魚の『江戸語彙』にある「鳶沢某なる夜盗が家康に許されて鳶沢町を造ることを許され、古着商いの権利を得た」という、短い記述から得られた物だということである(1巻『死闘!』・11巻『帰還!』あとがき)。リサイクル都市であった江戸の古着の流通に携わった者たちは、かつては『水滸伝』に登場するような英雄豪傑であり、そんな武士(もののふ)が商人(あきんど)に変わった言い伝えを物語に発展できないかというのが、この作品を書く発端であったとしている(1巻『死闘!』あとがき)。 この『古着屋総兵衛影始末』が第11巻『帰還!』で第一部終了となったのは、シリーズを通しての宿敵である柳沢吉保の失脚が最大の原因であると書かれている。『帰還!』のあとがきは、構想を練って再び読者にお目にかかれる日が訪れることを切望している旨が語られて終わっている。 あらすじ 慶長8年(1603年)、徳川家康が造営に着手した江戸の町は、戦国の気風を残し、町に入り込んだ浪人や無頼の徒により無法の地となっていた。毒をもって毒を制すべく、家康と側近の本多正純は、江戸を荒らす盗賊の中で西国浪人鳶沢成元(とびさわなるもと)を捕えて、命を助ける代わりに無法者達を一掃させた。そして江戸の町に古着屋を開き、それを隠れ蓑に徳川家の密偵として情報収集をするよう命じた。 元和2年(1616年)、死の床にあった家康は、鳶沢成元を呼び出し、自分が葬られる久能山に所領を与え、その隠れ里の分家と共に、徳川家危急の折に働く隠れ旗本となる事を命じた。 家康の死から85年後の元禄14年(1701年)、江戸城中松之廊下で刃傷事件が発生した年からこの物語の本編は始まる。鳶沢成元が富沢町に開いた古着屋・大黒屋は、6代目の鳶沢勝頼が主人となっていた。大黒屋が影旗本として暗躍している事を知り、また古着屋としての大黒屋に集まる金と情報に目をつけた柳沢吉保が、その力を己の物とすべく、鳶沢一族に攻撃を仕掛けてきた。家康との密約を守るため、影旗本としての矜持を賭けた大黒屋総兵衛勝頼の戦いが繰り広げられる。 たまには時代小説も読むのも一考でないかな。

●御朱印船(ごしゅいんせん)

●御朱印船(ごしゅいんせん) 徳川将軍家が発行した朱印状(海外渡航許可証)を携帯し,貿易に従事した商船。朱印状は室町時代の琉球貿易船にも下付(かふ) されたが,この制度を完備したのは徳川家康。 朱印状を携帯する日本船は当時日本と外交関係があったポルトガル、オランダ船や東南アジア諸国の支配者の保護を受けることができた。 南北朝時代や戦国時代には九州・瀬戸内海方面の武士や海賊が中国、朝鮮沿岸を荒らしまわり、倭寇と恐れられた。16世紀後半になるとポルトガル船が日本に来航するようになって海外への関心が高まり、東南アジア方面にまで進出する日本人も現れた。天下統一を達成した豊臣秀吉は日本人の海外交易を統制し、倭寇を禁圧する必要から、1592年に初めて朱印状を発行してマニラ、アユタヤ、パタニになどに派遣したとされるが、この時のことはあまり資料がない。 朱印船制度の創設 [編集] 朱印船(寛永年間)関ヶ原の戦いに勝利して覇権を確立した徳川家康は海外交易に熱心な人物で、1600年豊後の海岸に漂着したオランダ船の航海士ウィリアム・アダムスらを外交顧問として採用したほどである。1601年以降、安南、スペイン領マニラ、カンボジア、シャム、パタニなどの東南アジア諸国に使者を派遣して外交関係を樹立し、 1604年に朱印船制度を実施した。これ以後、1635年まで350隻以上の日本船が朱印状を得て海外に渡航した。朱印船は必ず長崎から出航し、帰港するのも長崎であった。なお、明帝国は日本船の来航を禁止していたので、中国は(ポルトガル居留地マカオを除けば)朱印船渡航先とはならず、朝鮮との交易も対馬藩に一任されていたので、朱印状は発行されなかった。 朱印船渡航先 [編集] 復元朱印船模型 1/10スケール安南 当時北ベトナムを領有していた黎氏を擁立するハノイの鄭氏政権である。東京(トンキン)ともいう。 交趾 当時実質的に中部ベトナムを領有していたフエの阮氏政権である。広南国ともいう。その交易港はホイアン(会安)及びダナンであった。 占城 ベトナムによって南ベトナムの一隅に押し込められていたチャンパ王国である。 暹羅 タイのアユタヤ王朝である。アユタヤには大きな日本人町が形成され、山田長政が活躍する。アユタヤからも交易船が長崎に来た。 柬埔寨 メコン河流域のプノンペンを首府とするカンボジア王国である。 太泥 マレー半島中部東海岸のマレー系パタニ王国である。当時は女王が支配し、南シナ海交易の要港であった。 呂宋 スペインの植民地ルソン島である。首府マニラが新大陸とのガレオン貿易の要港で、中国船の来航も多かった。 高砂 当時ゼーランディア城を拠点にオランダ人が支配していた台湾である。台湾も中国商船との出会いの場であった。 いずれも赤道以北に限られていた。渡航先集計によると交趾(73回)で最も多く、暹羅(55回)、呂宋(54回)、安南(47回)と続く。 朱印船貿易家 [編集] 商人:最も数が多く、記録に残る限り65名、さらに婦人2名、琉球出身者1名を数える。代表的な人物は京都の豪商である角倉了以、茶屋四郎次郎、大坂の末吉孫左衛門、長崎の末次平蔵らである。 大名:九州(亀井のみ山陰)の大名ら10名を数える。島津忠恒、松浦鎮信、有馬晴信、細川忠興、鍋島勝茂、加藤清正、亀井茲矩、五島玄雅、竹中重利、松倉重政らである。 武士:長崎の村山等安や堺の今井宗薫、大坂と平戸の武士4名にも朱印状が与えられている。 明人:日本在留の明国商人11名にも朱印状が発行された。明は中国人の日本渡航を禁止しており、これら中国人は密貿易で渡来し、在住する者であった。著名な者としては福建の海賊・李旦がいる。 欧州人:ウィリアム・アダムス、ヤン・ヨーステンら日本在住のオランダ人、イングランド人、ポルトガル人12名にも発行された。 朱印船乗組員 [編集] 朱印船に乗り組むのは船長以下、按針航海士、客商、一般乗組員らであるが、とりわけ航海士には中国人、ポルトガル人、スペイン人、オランダ人、イギリス人が任命されることが多く、一般乗組員にも外国人が入った。もちろん日本人もいた。 交易品目 [編集] 東南アジア諸港へ赴く朱印船の多くは意外なことに中国産の生糸や絹の輸入が目的であった。日本でも絹は古代から産出したが、中国産に比べると品質が悪く、太平の世の到来で高級衣料である中国絹に対する需要が増大したためである。他方、かって倭寇に苦しんだ明は日本船の中国入港を禁止しており、朝鮮の役で敵対国となってからはなおさらであった。明は中国商船の日本渡航も禁止していたが、これは徹底せず、密かに来航する中国船もあったが、十分な量ではなかった。このため明国官憲の監視が及ばず、中国商船は合法的に来航できる東南アジア諸港で日本船との出会い貿易が行われたのである。中国製品以外にも武具に使用される鮫皮や鹿皮、砂糖など東南アジア産品の輸入も行われた。 見返りとして、日本からは銀、銅、銅銭、硫黄、刀などの工芸品が輸出された。当時中国では銀が不足していたため、朱印船の主要な交易相手である中国商人は銀を欲した。しかも当時、日本では石見銀山などで銀が盛産されており、決済手段として最も適していた。ベトナムなどには日本の銅銭も輸出された。 朱印船に使われた船 [編集] 朱印船として用いられた船は、初期には中国式のジャンクが多数であった。後には末次平蔵の末次船や荒木宗太郎の荒木船に代表されるジャンクにガレオンの技術やデザインを融合させた独自の帆船が登場し、各地で製造され運用されることとなる。 それらの船のサイズは大抵500~750tであり、乗組員はおおよそ200人であった(人数が判明している15隻の平均人数は236人である)。また、東南アジア貿易が盛んであった時には、木材の品質もよく造船技術も優れていたシャムのアユタヤで大量の船が注文・購入された。 朱印船貿易の終末 [編集] 江戸幕府の鎖国政策の進展により、幕府公認の朱印船の海外渡航すら難しくなり、1633年老中奉書船以外の海外渡航や帰国を禁止する第1次鎖国令が発令され、1635年にはすべての日本人の海外渡航と帰国を禁止する第3次鎖国令が発令されて朱印船貿易は終末を迎えた。この措置によって東南アジアで朱印船と競合することが多かったオランダ東インド会社が莫大な利益を得、結局は欧州諸国としては唯一、出島貿易を独占することになる。 か‐ふ 【下付】 [名](スル)金品・書類などを役所から下げ渡すこと。「証明書を―する」「―金」 ズイブン昔から有ったようで昔はルールを簡潔に用意していたモノ。 研究社 新和英中辞典 ごしゅいんせん 御朱印船 【日本史】 a trading ship [vessel] authorized by the shogunate. JMdict 御朱印船 読み方:ごしゅいんせん ご朱印船 とも書く (名詞) shogun-authorized trading vessel (authorised) ガレオン船(Galleon)とは、16世紀半ば~18世紀ごろの帆船の一種である。単にガレオン・ガリオン・ガリアンなどとも表記される。戦列艦の原型にもなった。 カラックから発展した船形で、カラックに比べて幅と全長の比が1:4と長く、吃水が浅いためより速度が出るが同時に転覆もしやすくなった。カラックより小さめの船首楼と大きい1~2層の船尾楼を持ち、4~5本の帆柱を備え、1列か2列の砲列があった。 速度も出て積載量も多く、また砲撃戦にも適したガレオン船は西欧各国でこぞって軍艦・大型商船として運用され、スペインはこれを大型化して新大陸の植民地の富を本国に護送するために使った。フランシス・ドレイクが世界一周に使用したゴールデン・ハインド号などは有名なガレオン船である。 1613年に仙台石巻で建造され、ローマ教皇のもとに遣わされたルイス・ソテロおよび支倉常長以下の使節団を太平洋を横断してメキシコ, アカプルコへ送りとどけ、同使節団の帰途にもメキシコから日本へ連れ帰ったサン・フアン・バウティスタ号は日本で最初に建造された西洋式の大型帆船でありガレオン船であるとされているが、マニラからアカプルコへ向けての航行中に台風に遭い、房総の御宿海岸で遭難し地元民に救出されたフィリピン総督ドン・ロドリゴが、その後帰還する際使用したサン・ブエナ・ベントゥーラ号もウィリアム・アダムスによって作られている。 英語にするとドウイウ言葉を並べてあるのかは判らないけれども凄くややこしそうだ。 一年の一学期もマトモニ卒業出来ていないモノにはサッパリ。 デモこれだけの余分なモノ付けないと伝わらないのでは外人さんとなすのは大変だ。 色んなモノの繋がりの先にこの船が出来てきている。 歴史は紐解いて見ないと何がどうなっているのか判らない楽しみがある。 今 権力握ってタイル人達がこの先 地球が日本が存続していたらどのような感じで見られ扱われるのか。 縄文の流れの中の一コマには過ぎないけれど。 人生 楽しんで生きないと罰が当たる。 又 年寄りのグチがこぼれる

●ありがとう  ●ございます   ドウイウ意味かな

●ありがとう  ●ございます   ドウイウ意味かな ●ありがとう ありがとうとは、日本語で感謝を表す時に用いられる挨拶である。 ありがとうの語源は、形容詞「有り難し(ありがたし)」の連用形「有り難く」がウ音便化したものである。「有り難し」とは、本来「有ること」が「難い(かたい)」、すなわち「滅多にない」や「珍しくて貴重だ」という意味であった。『枕草子』の「ありがたきもの」では、「この世にあるのが難しい」という意味、つまり「過ごしにくい」といった意味でも用いられている。 ●中世になり、仏の慈悲など貴重で得難いものを自分は得ているというところから、宗教的な感謝の気持ちをいうようになり、近世以降、感謝の意味として一般にも広がった。感謝の意を直接に述べず、仏教用語である婉曲的な表現が日本語の感謝の意味を表す語になっているのは、他の言語と比較しても非常に面白い。 ●しかし感謝の意を表す言葉は方言などを含め多岐に及んでおり、「ありがとう」が日本全国で感謝の意味を持つ筆頭単語として使われだしたのは最近のことである。 ●ポルトガル語の「オブリガード(obrigado)」が語源であるという俗説があるが、ポルトガル人が訪れる以前から使われていた言葉がポルトガル語に由来するはずはなく、「オブリガード」と「ありがとう」の音が近いというだけのジョークである。 ●ございます   基本語は「ござる」という尊敬語です。それに「ます」を加えた「ござります」が生まれ、とても敬意の高い尊敬語として相手の動作に使われていました。  殿がござりました (来るの尊敬語)  座敷へござりませ (行くの尊敬語)  「ございます」は「ござります」が変化して生まれた語です。江戸時代の終わり頃から使われ始めているようです。よくよく調べてみると、「ござる」→「ござります」→「ございます」というように、だんだん変化したという単純な流れではないようです。「ござる」は尊敬、「ござります」はとても強い丁寧な尊敬で、「ございます」はくだけた表現というように、使い分けられているのが用例からうかがえます。整理すると、それぞれの表現は似ていますが、別の言葉としてきちんと使い分けられていたことがわかります。 ●ござる 「御座ある」が変化したもの。「ある」「いる」「行く」「来る」の尊敬語。ほかにも、空腹になる、夢中になる、恋をする、腐る、変化する、だめになる・・など多数の意味に用いられていたり、「身どもは京の者でござるか」などのように丁寧語としても用いられた。 ●ござります 「ござる」+「ます」で、とても高い敬意を表す。「それは誠でござりますか」などの表現は、「ござる」を使う人よりも身分や地位の高い人にしか使わなかった。 ●ござり申す 「ござる」+「申す」で、特に敬意を高めるのではなく、丁寧さを前面に出した表現。自分側に使うことも多かった。 ●ございます 「ござります」から生まれたが、敬意はずっと低く、ちょっとした丁寧語としてだけ使われていた。さらに省略して単に「ござい。」と使うことも多かった。  さらに時代が進んで「です」が使われるようになると、「ございます」は古風に感じられるようになり、口語ではあまりつかわれない表現になりました。しかし、「です」が広く普及するにしたがって「です」はだんだんあたりまえになって敬意が感じられなくなってきた。そこで、「”です”をさらに丁寧にした表現」ということで「~でございます」が新しい丁寧表現の代表として再び広まりました。「特別丁寧体」や「御丁寧体」として特別扱いする学者も多くいます。このように、ちょっと込み入った経緯がある言葉ですので、尊敬か、謙譲か、丁寧か、正しいのか間違っているのかわかりにくいのです。単純にまとめてしまうと次のようになります。    「ござる」「ござります」「ござり申す」「ございます」はそれぞれ発生の時期が違うが、別々の役割のある言葉として使われていた。昭和になって男性的、古めかしい表現だとしてだんだん使われなくなったが、「です」の敬意がなくなるにつれ、さらに丁寧な表現として「~でございます」が普及しはじめた。  一方で、やはり古風に感じられる表現であるということと、相手の動作に使うにははっきりとした尊敬の意を表した方がいいという流れの中で、丁寧と尊敬が混在している「ございます」より、明確な尊敬語である「~でいらっしゃる」という表現が少しずつ普及し、置きかえられつつある。 困ったときには「ございます」の部分を、基本形に置き直してみるとわかりやすいと思います。   1.なんでもございません。 (なんでもありません)   2.私は中澤でございます。 (中澤です)   3.あちらのテーブルにございます。 (テーブルにあります)   4.村上様はあちらのテーブルでございます。 (テーブルです)   5.2階でございます。 (2階です)   6.書いてございます。 (書いてあります)   7.その商品はございます。 (商品はあります) どんな言葉に続いているかという別の視点から表現をみると   A.~でもございません。 (ありません)   B.~にございます。 (あります)   C.~はございます。 (あります)   D.~でございます。 (です) となり、A.B.C.は尊敬語としての用法で、Dの「~でございます」だけは、前に続く語には関係なく丁寧語としての表現なのだとわかります。 語源というのは、はっきりしないことが多くてどこか怪しげ・・・だからこそ、おもしろい 語源説が「正しいか間違っているか」にはあまりこだわらずに 「言葉の成り立ちに関心をもって楽しむ」ことを目的にして 語源を探ってみることは楽しいよ http://www3.kcn.ne.jp/~jarry/

●遊び(あそび)とは

●遊び(あそび)とは 遊び(あそび)とは、楽しむ、娯楽、休養、リラックス、ストレス解消などの目的で生物がする行動の総称。普通は生命活動を維持するのに直接必要な食事・睡眠や、自ら望んで行われない労働などは含まれない。なお、遊興(ゆうきょう)とも称される。 ほとんどの高度な知性を持った動物には、主に成熟前に遊びが見られる。これは生物が生きていく上で必要な体力、知識、経験などを自然に得るために備わった性質だと考えられる。動物は遊びの中で狩りやコミュニケーションの方法を学んでゆく。ヒトは成熟後も遊びを行なうのが一般的である一方、ヒト以外の動物は成熟するとあまり遊ばなくなるが、ペット化(家畜化)された犬や猫などの動物は成熟後も遊びたがる傾向があるようであり、野生動物でもカラスには、成熟した個体に遊びと思われる行動が見られる。 本項では主に人間(社会にあるヒト)の遊びに対して説明するが、遊びは様々な局面において人間性と関連付けて扱われる傾向も見られる。 人間の遊び 他の高度な知性を持った動物に比べ、人間(ヒト)は特に遊びが多様化、複雑化しており、成熟後も遊びを多く行ない、生きていく上ではまったく不要と思われるような行動も多く見受けられる。これを他の生物との区別と捉える考えがある。遊びは大きな文化として確立しており、また商品の売り手にとっても市場を左右する要因としても重要である。個人の日常化した遊びを特に趣味と呼ぶ。遊びは個人の性質に大きく左右されるので、全ての人間に共通して楽しまれる遊びはない。 人間は他人から強制されて勉強や訓練されるのは苦痛だが、遊びの中で習得していくことは楽しい。そのため、遊びながら学習する方法がとられることがある。 オランダの歴史家ホイジンガ(ハイツィンハ)は著書『ホモ・ルーデンス』で、子どもの遊びだけでなく、企業活動、議論、戦争、人の活動のあらゆる局面に遊びのようなルールと開始と終わりのあるゲーム的性格が見られると指摘しており、「人は遊ぶ存在である」という所説が評判を呼んだ。フリードリッヒ・シラーも、「人は遊びの中で完全に人である」という有名な言葉を著書『人間の美的教育について』において残している。 遊びの種類 遊びは非常に多岐にわたっており、適当に分類することは難しい。遊びには自然発生的に形成され、世代や地域ごとに伝えられていくものと、パッケージ化・商品化して提供されるものがある。パッケージ化されたものは人間の創造力の成長を阻害するとして、批判の対象にされることもある一方で、広大で多様な市場を形成しており、いわゆる玩具など遊びに用いる器具は、素朴なものから複雑で最新の技術を導入したものまで、様々な物品が流通している。また、この玩具と遊びを通して教育や能力開発を行おうという考え方もあり、知育玩具のように遊びを通して成長を促そうという分野も存在する。 フランスの思想家、ロジェ・カイヨワはホイジンガの著書「ホモ・ルーデンス」に影響を受け、「遊びと人間」を執筆した。その中でカイヨワは遊びを次の4つ要素に分類している。 アゴン(競争):運動や格闘技、子供のかけっこ アレア(偶然):くじ(宝くじなど)、じゃんけん、ギャンブル(競馬など) ミミクリ(模倣):演劇、物真似、ごっこ遊び(ままごとなど) イリンクス(めまい):メリーゴーランド、ブランコ 昔の遊び http://www2.ocn.ne.jp/~happyman/ 遊び http://www1.cts.ne.jp/~amaenbou/asobi.htm 遊びのデータバンク http://www.kodomo-next.jp/plays/category 仲間あそび大図鑑 http://www.children.ne.jp/%E4%BB%B2%E9%96%93%E3%81%82%E3%81%9D%E3%81%B3%E5%A4%A7%E5%9B%B3%E9%91%91/ 遊びを通して人は成長する。 機械のゲームでは何が欠落するのかな。

●私は昔 映画少年であった

●私は昔 映画少年であった 実家が食堂していて交差点の角家で玄関は大通りに面していて 細い道に面した壁に映画の宣伝ポスターが大きく貼られていた。 一週間に一度 町に三つ有った映画館の看板を張り替えに来ていた。 その時に映画のタダ券を何枚か置いていく。 客にやったりしたけど祖母が大好きで私を連れて行くために何枚か残しておいた様だ。 結構高い料金なので貧乏だったので普通はいけないけど私は行くことが出来た。 赤胴鈴の助 笛吹童子 月光仮面 鞍馬天狗 洋画も見ていたように思う。 今のように娯楽で選択肢はほとんど無い時代で後は新聞くらいかな。 夏はよく夜暑いので夕涼みがてら隣町まで歩いて散歩。 家の前に床机(しょうぎ)長いすのことで縁台とも言った。 この上に将棋盤が置かれていてよく将棋の相手をして貰ったモノ。 へボ将棋と言って上手くもないのに大好きだった。 いつも負けてばかりで最後には泣いて帰ることもシバシバだった。、 『赤胴鈴之助』(あかどうすずのすけ)は、福井英一と武内つなよしによる漫画で、ラジオドラマ化や映画化、アニメ化もされた。 『笛吹童子』(ふえふきどうじ)は、北村寿夫原作の新諸国物語の1作として書かれた小説。 1953年にNHKラジオでラジオドラマが放送され、以降、何度か映画化やテレビドラマ化された。 『月光仮面』(げっこうかめん)は、KRテレビ(現TBSテレビ)と宣弘社が制作し、『タケダアワー』第一作として1958年(昭和33年)2月24日から1959年(昭和34年)7月5日まで放映された、同名のスーパーヒーローを主人公とするテレビ冒険活劇番組。日本初のフィルム製作による国産連続テレビ映画である。川内康範原作。 『鞍馬天狗 』(くらまてんぐ)(小説) - 大佛次郎原作の時代小説の題名。またその主人公の通称。上記2者のイメージによってつけられた。映画化、テレビドラマ化もされている。 私にとっては今で言うヒーローであった。 月光仮面では風呂敷を家から持ち出して頭巾のように被りバイクに乗っているマネをしてその辺を駆け回って追いかけっこをしていた。 http://www.youtube.com/results?search_query=%E6%9C%88%E5%85%89%E4%BB%AE%E9%9D%A2&aq=f 鞍馬天狗もホッカムリして腰に母のオビの腰紐巻くかバンドをして棒を突き刺して馬にまたがり駆け回る感じでやはり追いかけっこをしたモノ。 http://www.youtube.com/results?search_query=%E9%9E%8D%E9%A6%AC%E5%A4%A9%E7%8B%97&aq=f 赤胴鈴之助は簾藤の胴衣を主人公は来ているのだけど何かで作りそのような感じで身につけてチャンバラをしたモノ。 http://www.youtube.com/results?search_query=%E8%B5%A4%E8%83%B4%E9%88%B4%E4%B9%8B%E5%8A%A9+&aq=f 笛吹童子はどうしていたのかハッキリしない。 横笛の名人のような子供が主人公だったかな。 http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/fuefukidouji.html ここに主題歌がある。 http://video.search.yahoo.co.jp/search?st=&s=dateold&p=%E7%AC%9B%E5%90%B9%E7%AB%A5%E5%AD%90&dr=&pd=&vt=&vaop=&ei=UTF-8  動画はここ。 久しぶりに聞いて懐かしくなった。 ヒャラリヒャラリコ ヒャリコヒャラレロ 誰が吹くのか ふしぎな笛だ ヒャラリヒャラリコ ヒャリコヒャラレロ 音も静かに 魔法の笛だ ヒャラリヒャラリコ ヒャリコヒャラレロ タンタンタンタン タンタンタンタン 野こえ 山こえ 時代劇モノが多かった時代。 怪傑ハリマオ エイトマン 狼少年ケン などに繋がり 鉄人28号 鉄腕アトムなどに繋がっていく。 この先にウルトラマンやマジンガーなどの現代のモノに繋がっているのかな。 宇宙戦艦ヤマトのようなモノもこの道の先にあるのかな。 専門家ではないのでその中の事は誰かに解説して貰わないとだめ。 今の子供たちは余りゆめが持てて居ないように思える。 漫画でもアニメでも映画でも私たちの時はそこから色んな妄想が生まれてきたけれども今は作者のイメージそのまましか受け取れて居ないように思える。 想像力が発達し難い世の中なのかな。

2014年8月27日水曜日

●私の妄想癖

●私の妄想癖 ◆私は妄想癖が強くて有る大学の学園祭に見学に出かけた時の話しです。 学生が水の研究発表会をしていました。 図々しくもそこで水一杯ご馳走して貰い水について彼等に質問した。 「水はこの世に何種類有るか」 http://urx.nu/bnE0 に「重水と軽水」が出てきた。 普通は 1. 酸性・中性・アルカリ性 2. 硬水と軟水 これくらいしか知らされていない。 昔読んだロシアの水博士の本には確かこの地球上には100種類有ると。 本無くしたので題名も何もほとんど覚えていない。 実験室でその当時で二十種類は作られていると書かれていた。 「重水と軽水」の話しをしたわけだけど。 水にはソモソモ重水と軽水とに分ける分野があり 漢方で煎じるというのは軽い軽水を蒸発させて重い重水を残す為に煮沸する。 http://urx.nu/bnE2 ウィキペディアなどでは 重水は原子炉の減速材として使われる。 と書かれている。 漢方のことは書かれていない。 この残った重水が漢方薬には良くて出てきた汁の効用をより促進させる。 土瓶一杯の水を半分まで沸騰させると軽水は全て蒸発してしまう。 こんな話しから入り言葉遊びの話しや当時知っているだけの宇宙の話しやその他諸々。 一時間講義してしまった。 学生たちは身じろぎもしないで私の口から出てくる言葉に耳を傾けていた。 私のアタマの中は取り留めもないほど色んな事が涌いてきて不思議とそれが繋がっている。 普段は考えすぎて言葉が繋がらず長続きしない。 妄想が始まると湧き水が涌くようになってしまう。 だから昔から大風呂敷と言われる。 【大風呂敷(おおぶろしき)を広・げる】 現実に合わないような大げさなことを言ったり、計画したりする。 誇張していうこと。?を広げる=ほらをふくこと。 【風呂敷 ふろしきの歴史 由来 起源】 室町時代、将軍足利義満が大名たちをもてなした大湯殿で、脱いだ着物を布に包み、入浴が終わるとその上で着替えをしました。それが「風呂敷」の語源とされています。 【富山県の薬売りと風呂敷 ふろしきの歴史 由来 起源】 元禄時代には、包み、運ぶための風呂敷となり、富山の薬売りをはじめとする商人たちの必需品となりました。 屋号を染め、商品を包んで背負い、江戸の町を歩くことで宣伝効果が大いに上がったようです。 嘘つきという意味も有るようだ。 私の知識は決して奥深くて詳しくはない。 風呂敷のように包んであった雑多なモノを結びを紐解いて並べて見せるのが私。 余り突っ込まないで下さいね。   ◆安心サロン 2011年01月18日 水は、奥深いですよね。 言葉の波動を記憶するようですしね。 良い言葉を使うように心がけたいものですね。 人間の身体も、大人は約60%は水分ですから。   ◆nelcco 2011年01月18日 水のようにこんこんと湧き出るものは "よい知識である" と、ぼくは勝手に考えます。なぜって論理的に矛盾もなく感情もヘッタクレもない機械口述みたいな博士論文なんかを読むより、よっぽど生きた人間のクチから流れ出る話の方が人生に役立つということを、短くはない人生経験から知っているからです。 だから志葉楽さんのように生命の言葉を吐き出せる人が、よっぽど博士号の有識者と呼ばれる人たちの薄っぺらいだけの言葉よりも、尊くみえます。なんだかんだ言ってもやっぱりロジックより、レトリックなんだと思います。ハートに響く言葉っていうものは。

●妄想(もうそう)

●妄想(もうそう) 普通に使われる言葉の意味ではエッチな事を指すことが多いけれども 私は思考巡らすことだと思っている。 色んな想像力を働かせて色んな事を考える。 正式というのかどうか判らないけれども 精神医学用語 になるらしい。 下記に詳しく書かれたモノをWikipediaより写した。 ⇒まよい【迷い】  ⇒ざつねん【雑念】 ⇒そうぞう【想像】  と言う意味も有る。 妄想も良い済理陽が揃っていないと簡単には出来ない。 私は国語辞典を普段から読み材料を沢山用意しておく。 タダシ新しいモノは一切ダメ。 横文字や最近の言葉が多く収録されている。 仕事言われている言葉に良い言葉が多い。 私の持っているのは昭和34年発行の旺文社の国語辞典。 時代劇見るのに戦場で武将が座っているいすの名前を知っているだけでも違う。 床几と呼び今では簡易携帯折りたたみイスとでも呼ぶのかな。 床机と呼ぶイスもある。 長いすのことで江戸時代は縁台と呼んだ。 何度か書いたけれども夏は夕涼みに此上で座って将棋を指したモノ。 今同じ読みの言葉を三つ書きました。 判りましたか。 もう一つのしょうぎは娼妓と書く。 娼妓(しょうぎ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .売春婦の異称。遊女屋を娼家、遊女を娼女・娼妓と別称することは江戸時代にも散見し、洒落(しゃれ)本に『娼妓絹(きぬぶるい)』(山東京伝著・1791刊)の題名もある。 しかし明治維新後、従来一定の名称をもたなかった公娼を、娼妓の名に統一したので、以後はおもにその意味で用いた。 1872年(明治5)の娼妓解放令は形式的な宣伝にすぎなかったから、以後も娼妓は存続した。娼妓を管轄していた各府県の規則をみても、年齢制限(15~16歳)と検黴(けんばい)(黴毒などの性病検査)の義務とが加わったほかは、接客は貸座敷内、住居は遊廓(ゆうかく)指定区域内に限り、外出も大幅に制限を受けるなど、従来の遊女の条件と実質的に大差なかった。 1900年(明治33)救世軍による廃娼運動が展開されたが、これまでの唯一の権利であった自由廃業も、同年の娼妓取締規則(内務省令44号)で削除された。 前借金無効の判決は出たが廃業の実行は困難であり、稼ぎ高の貸借帳簿は作成されたが、内容不明の借金が追加されて拘束を逃れることはできなかった。 しかも娼妓数は増加し続け、1920年代には全国に5万人以上が在籍した。 一方で娼妓の質的な低下が遊客の下落を招き、社交女性の地位は芸者に移った。1946年(昭和21)2月に娼妓取締規則が廃止されたので、娼妓の名称もなくなった。 [ 執筆者:原島陽一 ] 花魁もこの中に入り源氏物語を読むほどの教養を身につけていた。 歌舞伎は高級娼婦の出雲の阿国が歌と踊りを披露したのが始まりとされている。 又 妄想が始まりそうだ。 ●妄想(もうそう)とは、非合理的かつ訂正不能な思いこみのこと。妄想を持った本人にはその考えが妄想であるとは認識しない(病識がない)場合が多い。精神医学用語であり、根拠が薄弱であるにもかかわらず、確信が異常に強固であるということや、経験、検証、説得によって訂正不能であるということ、内容が非現実的であるということが特徴とされている。日常的な会話でも用いられることもあるがそのときはいかがわしい考えや空想を表し、必ずしも病的な意味合いを含むわけではなく軽い意味で使われている。 妄想と一言にくくっても、その内容や程度は個人差が大きい。軽度で生活に支障をほとんど来さないものから重大な支障を来すようなものまで様々である。本人が妄想であるとは自覚していない(「病識」がない)ことが多いが、漠然と非合理性に気づいている場合(いわゆる「病感」がある状態)、あるいは他者の前では隠すことができ生活に適応している場合(いわゆる「二重見当識」)など様々である。 ●妄想の分類 ●原因による分類 様々な精神疾患(統合失調症、躁うつ病、うつ病、痴呆、せん妄、あるタイプのてんかん、急性薬物中毒、覚醒剤乱用など)に伴って生じることがある。しかし、健常者においても断眠や感覚遮断など特殊な状況に置かれると一時的に妄想が生じることもある。 また、原因となる基礎疾患によっても生じる妄想の種類が異なる傾向があり、統合失調症に多いのは被害妄想、関係妄想、誇大妄想などで、うつ病に典型的なのは罪業妄想、心気妄想、貧困妄想であるとされているが、必ずしも全例に当てはまる訳ではない。 ●「一次妄想」と「二次妄想」 古典的には、まったく根拠を持たない妄想を一次妄想(「あの人はまだ自分がxxであることに気づいてない。」「おれはナポレオンの生まれ変わりだ」「近所の人たちが私を電波で攻撃している」など)、何かしらの経験と関わりがある妄想を二次妄想(「私の病気は不治の病なのだ」「皆の不幸は私のせいなのだ」など)と区別している。しかし、一次妄想と考えられる妄想にも本人なりの理由が存在している場合も多く、真の無意味で根拠のない妄想はまれである。了解可能か否かで一次妄想と二次妄想を区別するという定義もあるが、「私の病気は不治の病なのだ」という妄想も抑うつ気分から悲観的妄想が出現していれば理解可能であるが健康なひとがそのような妄想をもっていれば了解不能であるため、これらの区別は難しい。偏見との区別も難しく、考えの根拠を聴取し、ひとつひとつ反証していくことで妄想と明らかになるが、文化が異なる反証であるとその方法は有効ではなくなる。 さらに一次妄想は以下の5つに細分化されている。 ・妄想気分:周囲がなんとなく意味ありげで不気味と感じる。形容ができないがそこから具体的な判断がおこり妄想となる。 ・妄想知覚:正常な知覚に特別な意味づけがなされる。それが強固な確信となり訂正が不可能である。 ・妄想表像:とんでもないイメージを抱く。 ・妄想覚性:途方もないことを察知するが実体には何も理解できていない。 ・妄想着想:ある考えや古い記憶が突然思いがけない意味をもって思い出され、強固な確信に至ること。 妄想知覚などは統合失調症でよくみられる現象である。具体例は漫画ブラックジャックによろしくなどで詳しく描かれている。二次妄想はうつ病でよく見られる現象である。心気妄想、微小妄想などが有名である。「なんとなく胃が痛い、病院にいって検査しても異常がない、心療内科の受診を勧められ、それでうつ病と診断される」こういったエピソードが心気妄想には多い。 ●内容による分類 ●誇大妄想 誇大妄想は、現実的な状況から逸脱し、自己を過剰評価したり、実際には存在しない地位・財産・能力があるように思い込んでいる状態である。躁病によく見られる。 ●被害妄想 他人から悪意をもって害されていると信じる妄想。何らかの犯罪的な干渉を受けていると信じこみ、事業や就職などにおいて失敗しても、他者からの攻撃で失敗したと考えたり、「脳内に何らかの機器を埋め込まれ、意識や行動を操作されている」と考えたりする。被害妄想も参照のこと。 ●注察妄想 「常に盗聴されている」とか「隠しカメラで監視されている」と思い込む妄想。 ●関係妄想 周囲に起こっている現実を自らに結びつけて考える妄想。 ●盗害妄想 自分の物を盗まれたと思い込む。認知症によく見られる。 ●罪業妄想 自分は非常に悪い存在だ、罰せられるべきだ、皆に迷惑をかけているなどと思いこむ妄想。うつ病によく見る。 ●心気妄想 自分の身体の一部が病気にかかっていると思いこむ妄想。実際に病気に罹っていても、その症状が自分の思っているより非常に軽い場合もこの種類に分類される。うつ病によく見られる。 ●貧困妄想 現実にはそうでないにも関わらず、自分は非常に貧しい、借金を抱えてしまったなどと信じる妄想。うつ病によく見られる。 ●宗教妄想 誇大妄想の延長上、またはひとつの症状として考えられる。統合失調症のひとつの症状としても考えられているが、自分自身に何か超次元的で特別なパワーがあると信じたり、霊界のような所から特別な預言や啓示を受けた、またはあらゆる病気を癒す力を授けられたなど、内容が極めて非日常的で壮大なものであり、訂正不能な強固な確信があることが特徴である。例えば自分はイエス・キリストの再来であるとか、釈迦の生まれ変わりであるとか、人類滅亡から世界を救うための救世主または預言者であるとか、現実世界からは考え得ることのできない壮大なスケールによって描かれる妄想が大半である。つまり自分自身を“神”であると信じてしまう症例である。人格崩壊まで至るケースは稀であるが憑依妄想を共に発症するケースがある。これが極端になると新興宗教の教祖にまでなってしまうケースも見受けられる。 その他 不死妄想、Capgras妄想、被毒妄想、恋愛妄想、血統妄想など(詳しくは統合失調症参照)。嫉妬妄想は隠される場合が多い。 ●妄想の原因 ●生物学的に 統合失調症では中脳辺縁系のドパミン神経の過活動が妄想、幻覚の発生に関与していることが示唆されている。うつ病やせん妄に伴って生じる妄想に対してもドパミン遮断薬である抗精神病薬が有効であることなどから、それらの疾患でもドパミン神経系の過活動が関与していることが推測される。 ●精神力動学的に 戦争や災害の被災者や凶悪事件等の被害者が、一時的に妄想状態に陥ることがある。これは、現実から遊離する事によって精神的なダメージを回避しているとみなすこともできる。統合失調症などの疾患においての妄想ですら、過剰なストレスが精神を破壊しないようにするため逃げ場であるという見方すらできる(ジョン・シュタイナー「こころの退避」参照)。但し安全装置という観点では妄想の代わりに衝動性が生じることもある(いわゆる、キレる状態)。 しかし安全装置であるとはいえ病的な方法であることには間違いなく、治療が必要である。 そして、本人にとっては安全装置であったがゆえに、治療の途中で激しい抵抗に遭うことは珍しくない。それなりに安住の地であった妄想の世界から現実の世界を直視することは苦しみを伴うのである。ここでいかに本人のペースを尊重しつつ、希望や安心感を与えつつ現実と折り合いをつけてもらうかが、精神科医や援助者の力量が問われるところである。 ●妄想の弊害 その妄想に対して否定的な現実を敵視したり、妄想を認めない他人に攻撃的になることがある。ときには暴力に結びつくこともある。周囲からみれば異常な行動をとり、周囲に疎まれ孤立したり攻撃されたりする危険がある(例としては「警察に電波で盗聴されている」と思い込み、警察に「そのような捜査が許されるのか」と乗り込んだり、それで相手にされなかったり警察が否定すると警視庁のトップや大臣、果ては総理大臣に記録が残るかたちで質問状を送る、当然相手にされるはずがないが、それで満足な回答が得られないと「答えられないのには理由があるはずだ」などと極めて強引かつ自分にいいように解釈するというものがある。インターネットのウェブサイトやブログ上でその主張を公開する者も多い)。本来、社会的動物である所の人間が社会から逸脱する事は、当人にとっても周囲にとっても非常にダメージが大きい。妄想が回復した後の社会復帰にも支障が残ることもある。 ただし、だからといって疑うことをやめてしまうと、実際に他者にいいように利用される可能性もあるため、妄想とそうでない場合との線引きは事実上難しいといえよう。 「自分は空を飛べる」などの妄想に支配され転落したり、「頭の中に埋め込まれた装置を取り出す」ために頭部を自傷するなど自らを傷つける危険性もある。 ●仏教における妄想 仏教では妄想を「もうぞう」と読むことが多い。妄想は心を曇らして煩悩を増幅せしめる最大の原因として厳しく戒められている。精神医学でいわれる病的なものとは異なり、仏教における妄想は範囲が広く、健常者が日常的に行っていることである。過去を悔やんだり、未来をあれこれ気にしたり、主観的な価値判断や断定をしたり、考えてもわからないことを頭の中であれこれ思考することなど多岐に及ぶ。 元寇の脅威にさらされていた鎌倉時代、大軍勢の外敵とどのように戦えばいいのか苦慮していた執権北条時宗に対し、禅僧無学祖元は「莫妄想」(妄想することなかれ)と諭したといわれる。 ●関連語句 健常者の(しばしばくだらない、あるいは淫らな)空想のこと。妄想癖(もうそうへき)とも言う(例:性的妄想)。 想像の域を出ない主観的な決め付けのこと。しばしばインターネット上で多用される。

●マッサージについて

●マッサージについて ◆マッサージについて書いて欲しいとリクエストが有り久しぶりに調べて見ることにした。 下に転載などしておいた。 私が最初に師事した師匠が始めに 「人はお腹が痛いと直ぐそこに手を当てる。これを手当という。応用として世の中ではしたことに対して見合う金銭などをお手当としている。傷を消毒したり湿布薬を貼ることを手当としている。アタマをぶっつけたり足をモノにぶっつけてりした人に「手当てしたか」と言うのもこれに通じている。(手入れ)と言うのは痛いところなどに手を当てて手で治療することに当たる。機械などの手入れをすることにも応用されている言葉である。(修理)これも手当と同義語に当たる。車などを直すことを修理というのは言葉の応用である。人の体にした行為などのしぐさがそのまま言葉として今は使われている。病院へ行くと貰える薬袋に内服 外服 と記載されているが元々 麻服などを着て薬とした事から始まっている。ドンナゴロス(ドンゴロスはインド産の粗い麻布や、それで作った麻袋のことを言います。語源はdungaree(ダンガリー)。ダンガリーは麻布ではなく、デニムに似た綿布で、カジュアルなシャツやスカートなどにも使いますが、語源はヒンディ語のようです。銀行で取扱う大量の硬貨を入れる袋もドンゴロスと言っています。)人が着るシャツよりも大きくて底に首の入る穴を開けて手を通すアナを横に開けた。膝くらいまで被る長さのモノで薬として使ったようだ。これ買いまでも残っていて服という字で表している。ちなみにシャワーも入浴も西洋では薬として重宝していたのが一般に広がり清潔にする諸作に成った。西洋人は江戸時代以降まで貴族も一般市民も汚い人が多くて臭いので腋臭も含めて興水が発達した。日本人は有史以来清潔でキレイにする人は多かったようだ。この辺りの事も調べると大変な量になり書ききれなくなるのでこれくらいにしておく。 こんな話しを最初に聞かされたモノ。 キット人の体を触るときは心して神聖な気持ちで触るようにと暗に含んで居たのだと思う。 人の体は触れば触るほど神秘に感じ奥が深い。 そのくせ触っている私はその体の中でどう変化してどう感じているかは三十年余りこの仕事していてさっぱり判らない。 推測するだけ。 堅いモノが柔らかくなり動き憎かった人が軽くカラダを動かす。 この様子見ていて楽に成ったのかなと思うだけ。 触っているだけでも柔らかくなり凝りが解れていく。 以前犬などの肩を触ったことが何度もある。 始め私の手を噛みそうにしていたのにその内気持ちよさそうに私を見つめて何か言いたそうでだるくて何も言えない。そんな感じに見えるしぐさをする。 猫もソウだった。 何匹も触ったけど人と一緒で元から気持ちよさそうにするのと痛がるのと有る。 動物は他に触っていないけれども総て一緒ではないかと思う。 不思議で奥の深い生物である。 手技の事も書きたかったけれどもこれ以上かけないので次回にします。 東洋医学治療法の発生・発展と陰陽・五行思想の解答解説 http://ameblo.jp/nara-m/entry-10057045193.html マッサージ事典 http://yasaibox.ti-da.net/e1528216.html 按摩(あんま)-用語解説集 http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%B0%8E%E5%BC%95%E6%8C%89%E8%B9%BB&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=ush-jp_dic&x=wrt 鍼(はり)の起源 http://www6.ocn.ne.jp/~jinendoh/acu03.html 若し興味が有れば調べて見て ----------------------- ●按摩(あんま)とは、なでる、押す、揉む、叩くなどの手技を用い、生体の持つ恒常性維持機能を反応させて健康を増進させる手技療法である。 按摩の按とは「押さえる」という意味であり、摩とは「なでる」という意味である。 また、江戸時代から、按摩の施術を職業とする人のことを「按摩」または「あんまさん」と呼ぶが、視覚障害者の間では、これを盲人に対する蔑称と受け取る向きもあり、あまり使わない方がよい言葉になっている(マスコミ等ではマッサージ師と言い換える事もある)。 一方、外国語である「マッサージ」に対比する日本語の意味である按摩という言葉を否定するのは、日本古来の施術法の否定であり、いわゆる言葉狩りでしかないとして、日本古来の施術方を伝承・継承する意事から、あえて按摩師と称して営業する施術師もいる。 法令で手技・治療法は規定されていない。 それは、立法当時において手技による施術を行う者が「あん摩マッサージ指圧師」しか存在しなかったためである。 日本最初の按摩を行った按摩生は、包帯法も行っていた。 ●按摩にまつわる誤解の例 按摩の按は瀉法(しゃほう【瀉法】漢方で、亢進した機能を抑制したり、過剰物質を排除する治療法。実証に対して行う療法。⇔補法)を意味し摩は補法(ほほう【補法】漢方で、弱っている臓腑または経絡に刺激を与えて正常にもどす療法。)を意味すると按摩手引には記載されており、経絡(けいらく)に沿って「虚」「実」を判断し、按と摩を使い分けて、身体の気血を循環させる事により自然治癒力を高め、健康を維持・促進させる事を基本的な考え方をしている。 しかし、按摩手引を詳細に読むと、経脈についての誤った記述があること、あるいは、この書自体が一般向けに書かれたもので専門家向けではないことを考えると、按と摩を瀉法と補法に分けるのは、東洋医学的に根拠が希薄と考えられる。 教科書には、上から下に施術していくとあるが、これは着物を常用していた時代に、はだけるのを防ぐためにそうしていただけであって、臨床的な意味は全くないものと思われる。 ●按摩の歴史 先史時代に人々の生活において、自然環境の中で生きていく上で様々な理由によって負傷して?痛(疼痛)や腫痛に苦しむ事も少なくなかったと考えられる。 そんなときに、人々は自分あるいは仲間の患部を手で撫でたり擦ったりすることによって、外傷による?痛を散らして腫れをひかせて痛みを和らげる効果があることを発見した。 当時においてはこれも有効な外科治療の一環であり、これが按摩術のルーツであると考えられる。 世界最古の医学書である黄帝内経には、いくつかの部位に按摩の文字が書かれているが、具体的な手法については記載がない。 ・「導引按?は中央より出ず」とあり、この導引按?(導引は太極拳の元となったもの、按?は按摩と気功を指しているようで?)が按摩とする人がいるが誤りである。 他にも「導引とは筋骨を揺がし支節を動かすを謂う。按は皮肉を抑え按ずるを謂う。 ?とは手足を捷挙するを謂う」ともあるように、これは現在でいう気功のことであり、按摩そのものを指す記述ではないと思われる。 また、骨折・脱臼の治療などの今日の外科・整形外科の分野に属する治療や包帯法などに関する分野も扱っていたと考えられている。 中国においては隋の時代には按摩は独立した専門科として扱われるようになった。 当時の医師達は按摩を「外邪の滞留を体内から除き、負傷によって体内に侵入する事を防ぐ」方法として内科・外科・小児科を問わずに行われた。 朝廷内でも按摩博士、按摩師、按摩生が設置された。北宋以後においては、按摩の理論的な発展が見られ、『宋史』芸文志によれば按摩の専門書が書かれたとする記事がある(但し、現存せず)。 明以後には医学における按摩行為を特に「推拿(すいな)」とも称されるようになった。 ・日本には養老令において、唐王朝をまねて典薬寮に、按摩博士、按摩師、按摩生をおいたとされる。 この養老令は大宝令と全く同様のものとされるため、少なくともその時代には按摩が存在したと思われる。しかし、その当時の按摩と現在のものが、どのような類似性があるのかは不明である。 ただ、同時代の文献によると、当時の按摩には現在でいう包帯法も含まれていたと考えられる。 江戸時代になると、宮脇仲策『導引口訣鈔』や寛政11年(1799年)藤林良伯『按摩手引』、文政10年(1827年)太田晋斎『按腹図解』などにより、按摩は体系付けられた。特に『按腹図解』の中の『家伝導引三術』では「家法導引の術に三術あり」として「解釈、利関、調摩」というそれぞれ「揉捏法、運動法、軽擦法」の基礎になっている術が記載されている。 按摩の流派には、関東において江戸時代には吉田流按摩術と杉山流按摩術が有名であるが、少なくとも関西ではこのような流派はない。 GHQは「按摩・鍼灸は非科学的であり、不潔だ」として按摩・鍼灸を禁止しようとした。これに対し、業界や視覚障害者などは約60日に渡る猛抗議を行った。その和解案としてあん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律が作られた。 現代の各種法令では、流派を名乗る事は許されていないので、コマーシャル的に意味が無い状態である。 ● 按腹図解 按摩(あんま)術の一様式である腹部按摩法(按腹)の術式を図解説明したもの。1冊。 太田晋齋(しんさい)著。1827年(文政10)刊。江戸初期よりこの時期まで、自己流の按摩術が乱立し、古来の疾病治療という目的を失う方向にあったものを修整しようという意図のもとに著された。 このなかでは按摩について「専(もっぱ)ラ一元気ノ溜滞(りゅうたい)ヲ活溌ニシ、臓腑(ぞうふ)ヲ安住シ、腸胃ヲ調和シ、血脉(けつみゃく)ヲ融通シ、骨節ヲ和利シ、筋絡ヲ舒暢(じょちょう)シ、肌膚ヲ潤澤(じゅんたく)シ、飲食ヲ進メ、二便ヲ利シ、気力ヲ盛ニスル」と述べ、按摩術を施すことは、人体の生理的作用を円滑に運ばせ諸病の治療に適すること、とくに癇(かん)(神経病、精神病)および疝(せん)(腹痛)などには治効があると記されている。 ● 推拿(すいな) 中国大陸明代以後、医療行為としての按摩は推拿(すいな)と呼称されるようになった。 これは日本では中国整体と呼称されるものであり、現在の中国政府も公式な中医学の医療用語として「推拿」を採用している。現在、日本国内の按摩と中国大陸の推拿は、技法は近似でも用法が全く違うので要注意である。 日本において中国整体という民間療法が行う技法の多くは、推拿の一部の専門手法を用いた推拿式整体療法といえる。しばしば中国整体を日本でいう按摩と誤解される場合があるが、それは按摩が推拿の技法に一番近いことも関連する。現在では、数は少ないが推拿専門の教育機関も存在している。 「推」には手を一方向へ押し進めるという意味があり、「拿」にはその押し進めた手で掴みあげるという意味がある。中医学では、その理論に基づいて経絡や筋肉・関節などに様々な手技(後述の按摩の基本手技と同一のものも多い)を用いて疾病の予防・治療を行っており、鍼灸と並んで「推拿科」として治療をしている病院も多い。 また、中国には法的にも推拿師・保健推拿師・推拿医師という資格がある。 ●按摩とマッサージの違いについて あん摩マッサージ指圧理論の教科書には、按摩とマッサージの違いに付いて、按摩は遠心的(心臓に近い方から遠い方に向けて)治療し、マッサージは求心的に行うと書かれている。 そのほかには、按摩が衣服の上から(首筋や手足の先などの露出部分は、わざわざ日本手ぬぐいを架けて行うこともある)行うのに対し、マッサージは滑りをよくするため、タルク(汗知らず)やマッサージオイルをつけることはあるが、原則として膚に直接行う。 また、按摩は経絡理論に従うが、マッサージは西洋医学の解剖学をよりどころとする、按摩は「もみりょうじ」とも呼ばれるように、もむ手技が多いが、マッサージは軽擦法などこする手技が多いなどと言われる。 しかし例外はいくらもあり、本来起源の違う両者を比較するのがおかしいのだが、後述するように、「あんま」の呼称が視覚障害者に嫌われ、実際は按摩をしていても「マッサージ」の看板を出している人が多いため、こうしたことが言われるようになったものである。 ●マッサージ(英語:massage)は、直接皮膚に求心的に施術することにより主に静脈系血液循環の改善やリンパ循環の改善を目的にした手技療法である。 マッサージは、フランスで生まれた手技療法(フランス語:massage マサージュ)を指すが、同様の効果を得られるものとしてタイ式や韓国式のマッサージも便宜的に「マッサージ」と呼ばれる。 現在、マッサージは通常医療の場でも(リハビリテーション等々)、代替医療の場でも、様々な健康増進目的で個々人が自分自身に行う形(セルフマッサージ)でも行われている。 ● 効用 マッサージには静脈・リンパ循環を促進する効果がある。 スポーツ・運動時前後には、筋肉緊張をほぐしたりするためにマッサージが用いられる。 他にマッサージによる(適度な)刺激などにより、緊張の緩和をもたらし、筋肉痛を和らげる、排便を促す、気分が和らぎ眠りを誘う、等がある。 ●歴史 ● 世界 Massage in a bath house (1890-1891) John Singer Sargent (1856-1925)マッサージはギリシャ語のマッシー(揉む)、ラテン語の手、アラビア語のマス(押す)、ヘブライ語の触るが語源とされる。 紀元前4世紀頃、ギリシャの医聖ヒポクラテスが他の医師たちに対し、「マッサージの研究をすべきである」と必要性を説いた。しかし、その後医学としてのマッサージが伝わる事はなく、民間療法として止まった。 16世紀後期、フランスの医師である、アムグロアスバレーがマッサージの効能や必要性、医療術を研究し、フランス中にマッサージの効力を強く、主張するに至った。この主張によって、マッサージ療法は、医療法としてだんだん見直されるようになり、広まっていった。 18世紀~19世紀頃になると、スウェーデンのバー・ヘンリック・リングが治療体操を用いてマッサージについても研究をし、スウェーデンマッサージの基礎を作り上げる。これをもとにマッサージはオランダ、ドイツ、フランス、ポルトガルなど、欧州に広まっていった。 その後、マッサージ医療が医療術の一つとして現在に至っている。 ● 日本 日本においては元々按摩が用いられてきた。 明治時代、軍医である橋本乗晃がフランスのマッサージを視察し、研究した。 その後、日本にマッサージを医療法の一つとして導入された。 現在、運動前後に筋肉を解す為にマッサージをすることも多い。 ●現在の「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」において、あん摩マッサージ指圧師免許もしくは医師免許(共に国家資格)がなければ日本においてマッサージを業として行うことはできない、とされている。 ●◆あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律(あんままつさーじしあつし、はりし、きゆうしとうにかんするほうりつ 成立…昭和22年12月20日(法律217号) 施行…昭和23年1月1日 主にあん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師としての業務、義務に関して規定している。以下に主な規定を概説する。 ●◆昭和22年12月20日法律第217号)とは、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師の資質を向上し、もって医療及び公衆衛生の普及向上を図ることを目的とする法律である。 GHQが「あん摩や鍼灸は非科学的であり、不潔である」とあん摩や鍼灸を禁止しようとしたため、業界や視覚障害者の約60日間に渡る猛抗議の末に和解案として作られた法律である。 1964年(昭和39年)には、あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師、柔道整復師等に関する法律が制定されるが、1970年(昭和45年)に柔道整復師法が単独法となったので、現在の名称となった。 ◆●◆ 第1条 あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師の免許 医師以外の者であん摩、マッサージ、指圧、はり、きゅうを行う場合は免許を必要とする 第3条 相対的欠格事由 心身の障害、麻薬、大麻、あへん中毒、罰金以上の刑に処せられたもの、第一条に関する犯罪、不正を行ったもの 第3条の2 登録 あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師の名簿の登録 第3条の3 免許証の交付 あん摩マッサージ指圧師国家試験、はり師国家試験、きゅう師国家試験に合格した者の申請であん摩マッサージ指圧師名簿、はり師名簿、きゅう師名簿に登録され、厚生労働大臣が免許を与えた時は免許証を交付する 第7条 施術所の広告の制限 第7条の2 守秘義務 第12条の3 医業類似行為の停止または禁止 医業類似行為 [編集] 医業類似行為(いぎょうるいじこうい)とは、「医師」「歯科医師」「あん摩マッサージ指圧師」「はり師」「きゅう師」「柔道整復師」以外が行う医業又は類似する診察・治療行為のことをいう。 他方、カイロプラクティック、整体等では、資格を有するとしても民間資格であって、これら無資格者による医業に類似した行為を医業類似行為と呼称。法的には、刑事罰の対象となる無資格診療にあたる。 以上 ウィキペディア その他からの抜粋 転載   ◆シバラク 2011年02月01日 日本という国は何一つ取っても歴史でも名称も引っ掛かりが有り直ぐに差別にされてしまう。 変な国にいつの間にか成ってしまった。 田舎にいるとたで起きている事にトンと疎くなって知らない内に法令で決められたりしている。 これも総て反日の仕業である。 サンカデモ書いたけれども昔はそんなことなくて皆楽しく生活していた。 いろんな事を調べていると神代文字と言われる古史古伝も古墳などでも規制が入ったりいがみ合いしたりしている。 神社などで出しているお札などは神代文字で書かれていると言うことを知り 国学で否定されている文字が今生きている私たちの生活に密着している。 何の気無しに送っている日常生活からマダマダ日本は無くならない。 若い人がチャランポランナ生活を辞めて邪魔くさいけれども有意義な結城優の流れの中で培って来た日本人の生活の知恵を取り入れる生活をして欲しいモノ。 スィッチ一つで何でも出来る世の中は生活とは言えないのではないかな。 物事一つしたことでなにかを感じるそんな夢みたいな生活。   ◆nelcco 2011年02月02日 昨晩、下の子が「よだれを飲み込み過ぎて上腹がくるしい」というので僕は自分の腹の上に寝かせて背中をさすってやりました。痛みが消えたのか、安心したのか、気持ちよさそうに寝息を立てて寝入りました。 たぶん痛みが消えたのではなく、安心したのだと思います。もしこれが日本の現状の痛みを示唆するなら、おなじ治療が必要である気がいたします。すなわち痛みを消そうとするのではなく、心を癒やすべきであると。 そもそも僕は全く政治的な人間ではありません。そればかりか厳しい社会でよく生きていけると疑われるほど、精神世界に生きて来た人間です。だから周囲からは「生っちょろい」と精神論のヤワさをよく他人に揶揄されるんですが、僕はそうは思いません。他人の精神を気遣うことには人間本来の強さがあると思うからです。 活動家ではありませんから国家の痛みをぬぐう薬はありません。薬は大事であることはわきまえています。ですが人を介抱する心が最終的な結果を左右することを知っています。 子の痛みを癒やすのに薬が必要なのは当然ですが、痛みが消えるのはその子の治癒力があるからです。国も、具体的な処方の重要性は疑いなくとも、その心を汲み取る集団がいなくては、国民の痛みは永遠に消えません。 活動家でなくてもできることは、他人の気持ちを察することの出来る人であれば誰でもできる活動に思います。身近な日常の同居人に手を差し伸べることは、したがってヤワなことでも何でもなく、国の未来を左右する立派な活動であると信じます。   ◆シバラク 2011年02月02日 nelccoサン良い話しありがとう。 すごくうれしくなりました。 わざとにひらがなにしました。 日本はヤハリひらがなじゃないかな。 何でも包み込んで行く国。 友愛と言っている政治団体が有るけれども本当の意味を知らないのではないかな。 日本語は彼等の言う薄っぺらなモノではない。 奥が深くてはまり込んだら少し不安になるくらいの深さ。 底がないと言っても良いのまではないかな。 ここへ集まる人 そして私と関わった人は素晴らしい魂の持主。 みんな精一杯に生きているね。 反日と言われる人はかわいそうだね。 心の安まる時が無いのではないかな。 本人は感じていないだけ。 縄文て本当に素晴らしい思想で有り有りがたいモノ。 日本に生まれて良かったね。 子供さん大事にして上げて下さい。 こんな素晴らしいパパだもの。 皆さんありがとう

●日本民族って馬鹿なのそれともとてつもない利口なのかな

●日本民族って馬鹿なのそれともとてつもない利口なのかな 日本とは不思議な国で裏の世界と表の世界 古史古伝と記紀 歴史と生活 色んなモノが混じり合い縦糸と横糸を無し織りなされて来た文化である。 神代文字が判らないのに大好きで調べて見るとドンドンと深みにはまっていく。 日本人とは知らない内にそう言うモノと何処かで関わってきている。 反日の人でも朝鮮人でもシナ人でもその他の外人でも。 この国に住んでいる間はそれから抜けることは出来ない。 イヤなら この国から逃げ出さないといけない。 それでも一度は関わると二度と抜けることは出来ないと思う。 とんでもないという人は多いけれども色んな言語にに古史古伝などが関わっているから。 色んなサイトをしたに列挙してみた。 とても上げきれるモノではない。 自分で後は探して見て下さい。 馬鹿なと思ながらはまること確実です。 秋の夜長にどうぞ。 どうせ暇なら是非見ては。 .【謎?】日本最後の秘境といえば岩塔ヶ原だろ【サンカ?】 . https://www.youtube.com/watch?v=plidCt4lJ04 -------------------------------------------------------------------------------- 【資料】 サンカ(山窩)とは 転載 http://www.asyura.com/sora/bd3/msg/468.html ★阿修羅♪ Ψ空耳の丘Ψ3 ] -------------------------------------------------------------------------------- 投稿者 ○○○▽ 日時 1999 年 9 月 11 日 23:44:57: サンカ(山窩)とは  明治以降明らかにされた時点では、川筋伝いに村から村へと渡り歩き、主に蓑つくり、笊(ザル)つくりなど竹を主原料とする製品を作り、農家で穀物と交換する、といったことで生計を支える、関東以南から九州までをテリトリーとする漂白集団だった。定住しないため、テントをもって移住し、一夫婦と子供で一家族六~七人、五家族くらいの単位で共同歩調をとった。 サンカの語源はいろいろあるが、サンケチ(三つの職掌区分)からきたとする説もある。サンカ自身は自分たちをセブリ、(テントの意味、一セブリ=同居する家族)セブリモノなどと呼ぶといわれる。  ミツクリの一(カミ)(蓑つくりの総領)  フキタカの一(笛つくりの総領)  エラギの一(遊芸の総領)  サンカは徹底的な秘密集団組織として生きてきた。外部の者にはけっして自分たちのことを話さず、特殊な隠語を用いて話し、他の仲間への連絡には、特別の符合で書かれたアブリ出しを地面に埋めるなどして行う。その結束は固く、独自の行政・裁判法をもち、一般の倭人とは異なる習慣、信仰、伝承を維持し、しっかりとした相互扶助システムをもって全体の生活を安定させている。そして古くから戸籍を持たず、昭和期に至ってもなお届出を行わない者たちが多かった。  いわば、国家の中にあって国家権力の枠の外にある、完璧に自立した漂白共同自活集団とでもいうべき存在なのだ。かつてそのように生きる人たちがたくさんいた。その多くは遊芸者であり、神の女として春の恵みを売る巫女たちであり、木工製造・鍛冶・狩猟・沿岸漁業・川漁などにたずさわる人たちであり、呪術的宗教者であり、渡り商人たちであった。  巨大組織サンカの強固な組織連帯性の中核にあるのが純潔の保持である。サンカは決してサンカ以外の者たちと混血する事はなかった。  サンカには有名な伝承の蝮部伝承がある。蝮(タジヒ)とはマムシの事であり、このマムシを捕って生活の害を除き、精力剤を作る職業が蝮部という古代の職業であり、かつてのサンカの主要な職掌の一つだった。古伝承によるとサンカの祖は火明で、隼人(ハヤト)の一派がサンカの系統につながっている、となる。  五木寛之の小説「戒厳令の夜」「風の王国」は、明治維新以後現在に至るおよそ一二○年間に、公的権力に組み入れられることによって、まるで風のように姿を消してしまった漂白の人々が、どこへ行ったわけでもなく、実は私たちの身近な日常性の中にとけこんで実在しているという想像から展開されている、といってよいだろう。  延々と独自のコンミューンを保ち生き続けてきたサンカが、現在どのような形でこの高度資本主義社会にトケこんでいるのか。  一説によると現在一般の”非占領社会”にまぎれこんでいる彼らの数は、人口の一五パーセント以上、およそ二○○○万人以上に達するとみられている(1986年)  昭和三年、官憲のサンカ対策が目立ってきたため、東京のクズシリ(頭)隅田川一を長として東京一円を中心にシノガラ(忍びのヤカラ)と名付けられるサンカ秘密結社が結成されたという。シノガラは外面的には社会での職業生活を送りながらも、サンカ一族の堅固な結束を維持する重要な役割を負って生み出されたものだ。  このシノガラが中心となり、表の顔として財団法人全国蓑製作者組合が昭和二四年に組織され、まるで欧米のフリーメーソンのような形態をサンカ一族はとるようになっていった。時代のすう勢からこれまでサンカ一族が出しあってつくられた相互扶助のための基金を、全額アングラ・マネーとして積んでおくわけにはいかなくなったからでもあったからか。そのため一部を組合基金として浮上させたのである。  この共同基金の金額は、昭和三六年の時点で実に二億四九万一○一一円となっている。当時の大学初任給は二万円にも満たなかったから現在でいえば一五億円くらいに相当するが実際の額の一○分の一という見方もある。この基金はシノガラの手によって年一割二分の利回りで運用されているという。現在では基金の年々の増加と運用上の増加を考えれば、莫大な金額になっていることが予想される。また昭和五七年の時点で各自が最低一○○○円以上を収入に応じてシノガラに収めており、総額は五兆円を越すものとされている。サンカ一族はこの資金をフルに活用し、シノガラが日本の根幹として根を張りめぐらし日本の中枢を握ることを目的としている。(すでに達成されたものと考えられる)少なくとも昭和三六年の時点でシノガラの三分の一は官公史、次いで学会人、財界人が多数を成した。ある銀行の幹部がシノガラに独占され、組合から「逆差別」だといわれたエピソードなど体制化・権力化への道をたどっていると指摘されている。 (資料とさせて頂いた1986年出版の本は現在、絶版となり入手不可能。) -ビラの内容はここまで- *テキスト化するにあたって、一部表記を変更した個所があります。 ▽ ▽ ▽ コメント: 私がもらった事のある、あらゆるカルト宗教や政治団体のビラ等とも様相が異なっていたので掲載しました。 このビラの配布者およびその意図はまったく不明です。 その方面のネタには私は詳しくはないのですが、 わが国の国家主権を好き勝手に蹂躙する悪魔ロッジ系メーソンの汚い魔の手に対し、 彼らが真っ向から主張しつつある歴史的転換点に、今到達しているのだろうか。 山窩は毒蛇の天敵のようですね。 -------------------------------------------------------------------------------- 投稿者 たいやき 日時 1999 年 10 月 13 日 00:24:41: 回答先: おいしそうな本がたくさん並んでいますね。 投稿者 たけしくん 日時 1999 年 9 月 12 日 12:35:04: > この出版社はおいしそうな本がたくさん並んでいますね。 五木寛之の「風の王国」新潮社 もサンカを上手に物語り にしてます。肩がこらなくてわかりやすいですよ -------------------------------------------------------------------------------- 一般的には平仮名、片仮名ともに漢字から作成したということですが、 片仮名はとても漢字に(充てられた)に似ていますが、平仮名はどうも 似ていないような... 下のサイトでいくつかの文字はフォントとして使えるモノがダウンロード出来る。 神代文字5個 http://www.vector.co.jp/vpack/browse/person/an046460.html 神代文字の事(阿比留文字、「日文」(ひふみ)中心) http://kstn.fc2web.com/kamiyomozi.html 古代文字 http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2007/08/000285.html 日本史における不思議な出来事、奇談。 うつろ舟 http://www34.atwiki.jp/kidan/pages/16.html 天津教古文書の批判 http://www.aozora.gr.jp/cards/000866/files/3039_23980.html 「神代文字」の歌碑♪ http://plaza.rakuten.co.jp/sueyasumasa/diary/200904230002/ 神代文字は「かみよもじ」と読みます http://ameblo.jp/kamiyo567345/theme-10004765903.html 山と書いて三とも耶麻台とも云う http://kouhoka.exblog.jp/m2008-10-01/ 謎の神代文字 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0294.html 5.神代文字について http://www.ican.zaq.ne.jp/euael900/episode05.html 神代文字 by ARATI-WORLD(アルティーワールド) http://www.arati-world.com/kamiyo-moji.htm 古事記の神々の言霊ー2 http://blog.goo.ne.jp/auwa108/m/200603 神代文字2 http://enacap.seesaa.net/article/29982857.html 神代文字で書かれた、全国のお宮・神社の御札です。 http://homepage3.nifty.com/utukusinomori/newpage12-2.html 「弘観道」650万年 カタカムナ 宇宙法則 内在神 皆の衆(笑) http://plaza.rakuten.co.jp/kagoshimalife/diary/200901250000/ 薬師寺の歴史 http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/jinzya/index1.html 日本 縄文時代の真の姿とは? ムー・レムリア・ペトログラフ (^^ゞ (3) http://plaza.rakuten.co.jp/kagoshimalife/diary/201305060000/ これって神代文字?〈ホツマ文字の石板発見〉 http://blogs.yahoo.co.jp/doctor3044/23453920.html 十種の神宝・ヒフミ祝詞・3種の神器・トホカミエミタメ祝詞などの秘義を語る神代文字の神典 http://nihonrekishiken.com/moji.htm 韓国語(ハングル)の起源は日本だ http://blogs.yahoo.co.jp/i1hito/27889210.html 石戸の神代文字石/阿賀町 http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/45715080.html “沈んだ島”の虚像と実像 http://homepage3.nifty.com/boumurou/island/10/uryujima1.html 日本古代文字〜漢字以前の世界 http://ameblo.jp/soragoto/entry-10206664882.html ホツマツタエ http://www.hotsuma.gr.jp/index.html 壱岐の笹塚古墳 http://www.ikishi.sakura.ne.jp/ikisasazukakofun.html 古代文字・神代文字の真実 http://homepage3.nifty.com/utukusinomori/newpage3-1.html 「昨日はいろは呼吸書法で神代文字を書いたり和歌を降ろしたりしました。」  勉強したこと http://angel.ap.teacup.com/yukoji/410.html 与那国文字 http://nishigo.ti-da.net/e2362881.html 豊科「神代文字碑」説明文 http://image.search.yahoo.co.jp/search?p=%E7%A5%9E%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%AD%97&rkf=2&ei=UTF-8&pstart=1&b=61 これって神代文字?〈ホツマ文字の石板発見〉 http://blogs.yahoo.co.jp/doctor3044/23453920.html 超巨大ドルメンの謎 http://blogs.yahoo.co.jp/doctor3044/23428074.html 日本古代文字〜漢字以前の世界 http://ameblo.jp/soragoto/entry-10206664882.html 日本人の心の故郷(ふるさと)神社「神道」に触れてみませんか (*^_^*)v http://isuzujinja.blog103.fc2.com/blog-entry-53.html 超古代文明について http://www.t-xxx.com/msg122n2/msgbrd.cgi 神代文字存在説とその歴史 http://hakujya.blog.ocn.ne.jp/hakujya2/cat11398640/index.html アイヌ文字 、アイノ文字、北海道異体文字 http://blog.goo.ne.jp/flatheat/e/fe96a6ccd7dee9e8b57541fd785885f1 記紀によって偽書に追いやられた日本の超古代文書たち http://lucky2zacky.jugem.jp/?eid=626 4.竹内文書について http://www.ican.zaq.ne.jp/rekishi/episode04.html 南朝と竹内文書 http://f35.aaa.livedoor.jp/~shinri/nantake.html 竹内文献とは? http://ikuno.lolipop.jp/piramido/hon/no01/part1/01-03takeuchi.htm 九鬼文献と高御位山と大本と「ウシトラの金神」 http://msouken.blogspot.com/2007/12/blog-post_18.html 東三河と徐福伝説 http://homepage2.nifty.com/kodaishinto/page006.html ■ウエツフミには由緒正しい『底本』が存在した! http://search.yahoo.co.jp/search?fr=sb-kingbrw1&ei=UTF-8&p=%E4%B8%8A%E8%A8%98%28%E3%82%A6%E3%82%A8%E3%83%84%E3%83%95%E3%83%9F%29 サンカ (民俗学)「山窩」「山家」「三家」「散家」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%AA%A9 サンカ(山窩)を考える http://www.kumanolife.com/History/kenshi1.html 魂よ蘇れ サンカ(山窩)への想い http://www.kumanolife.com/History/kenshi.html

『脳天氣なプチナショ』より【朝日新聞を追い詰めるには】

『脳天氣なプチナショ』より【朝日新聞を追い詰めるには】 朝日新聞を追い詰める一番効果的な戦術は、朝日新聞の新聞広告主にクレームを寄せることである。 在特会などの諸活動で、一番、効果が有ったのは、ロート製薬や花王への不買運動、クレーム活動だった。 当該企業の担当者は、相当、こたえたらしい。 かの安田浩一も著作「ネットと愛国」で書いている。 朝日新聞の広告主には、朝日新聞の論調に賛同して広告を寄せている企業も有る。 岩波書店などがそうだ。 こういうところに抗議しても、あまり効果は無い。 効果が望めそうなのは、読者が直接、購入してくれる”商品”を広告している企業だ。 健康食品やツアー旅行会社、保険会社が狙い目である。 クレーム活動というと電凸(電話突撃)が有名だが、これは初心者向けではない。... FAXが効果的だが、FAX番号を開示していない企業も多い。 ならば、すぐれてアナログ的だがハガキが有効かもしれない。 改めて、新聞紙上の広告を確認して驚いたことは、いわゆる健康食品の占める割合が大きいことである。 しかも、一面ぶち抜きの広告である。 自分は広告業界に疎いので、現在、新聞広告の一面ぶち抜きがどれくらいの費用がかかるのか知らない。 しかし、相当な高額だろう。 我々は、健康食品を購入する際に、よくよく考えるべきである。 この健康食品の価格のどれくらいの割合を広告料が占めているのかを。 健康食品の原材料費、加工費、研究開発費、人件費、輸送費、包装費、物流費、そして広告宣伝費。 一個¥1000の健康食品のうち、経費を比較的圧縮可能なのは、広告宣伝費だろう。 不景気になって、真っ先に削減されるのは、広告宣伝費なのだから。 しかしながら、それでも、高額な広告宣伝費を投入することに踏み切っているのは、製品の売り上げと広告宣伝費が明確に比例するからであろう。 広告宣伝費をかけた分だけ、製品の売り上げに直結するのであろう。 また、健康食品の広告が多いという一点から見ても、新聞の”お得意様”が高齢者であることが云える。 20代、30代の関心事は、ダイエットである。 だから、成人病に関心が出てくる40代以上の高齢者が、現在、新聞の”お得意様”と云える。 さて、今後、我々が為すべきことは、いかに朝日新聞を追い詰めるかという一点に尽きる。 この千載一遇の好機を絶対に無駄にしてはいけない。 それには、「一点集中、集中突破」である。 焦点を朝日新聞、一つに絞らなくてはいけない。 確かに、新聞でも、毎日、東京(中日)、日経は左傾化著しい。 TVに目を向ければ、NHKもTBSもテレ朝も、腹立たしい限りである。 だが、ここ1、2か月は、対朝日新聞に攻撃を集中すべきであると愚考する。 しかも、朝日新聞を攻撃する手口は、「反日だから」とか「売国だから」という論点を控える。 とにかく、「嘘の情報を報道した。裏付けの調査をしなかった。32年間も嘘と解りながらも訂正をしなかった。」 ということに論点を絞る。 そして、「これは報道機関として、断じて許し難い。」と指弾するのだ。 「反日だから」「売国だから」と云うと、左翼側からは、「極右が報道の自由を攻撃している。」とレッテルを貼って来る。 だが、焦点を朝日新聞に絞り、報道機関としてあまりに拙劣であったという一点で攻撃すれば、左翼側は反撃が困難になる。 朝日新聞を追い詰めるには、先述したように、朝日新聞の新聞広告主を狙い撃ちにすべきである。 「嘘、捏造の記事を掲載して訂正しない朝日新聞に広告を載せると、貴社の貴商品の信頼性が疑わしくなりますよ。自分は、朝日新聞に広告を載せる限り貴社の商品を絶対に買いません。友人知人にも不買するように説得します。」と訴えるのである。 電凸は、心理的に抵抗感が有る人は、FAXかハガキで意志を表明しよう! 次に、朝日新聞の報道がいかに嘘なのかをビラにして、ポスティングするしかないだろう。 ビラは、既に、そういった制作サイトが有るようなので、そちらを当たって欲しい。 デモや街宣は、自分はあまり、効果が無いと思う。 デモや街宣は、やり方によっては、「怖い人」「変わった人」というイメージを与えてしまい、逆効果に成る場合も有り得るからである。 あとは、ネットでの攻撃である。 ちなみに、「脱原発や護憲について、今、一生懸命に記事を載せているのは、朝日新聞じゃなくて東京新聞なんだよ!」という事実を拡散すべきである。 左翼は、厳然として存在する。 決して減ることはない。 ただ、今は、対朝日新聞に特化すべきなので、現在朝日新聞を購読している層を、朝日新聞から引き剥がすことが肝心である。 例え、毎日新聞や東京新聞の購読者が増えても、朝日新聞の購読者が減れば、それで良い。 とにかく、朝日新聞をとことんまで追い詰めることが肝要なのだ。 朝日新聞の新聞広告主への抗議は、「朝日新聞紙上に広告を掲載することによって、ブランドイメージが損なわれる、商品への忌避感につながる」ということを、当該企業に訴えれば良いのである。 「絶対に買わない!」という文言でもなくとも、「何故、朝日新聞に広告を載せないといけないのですか?」と云った文言でも良いように、自分は思う。 広告主の数は多数にのぼるため、全社を行う必要は無い。 この中の1社でも、抗議活動によって、朝日新聞への広告出稿を取りやめることが出来得れば、成功だと思う。 抗議をする際には、FAXが一番有効らしい。某政治家のスタッフが云っていた。 メールなら、例え一万通殺到しても、クリック一つであっという間に削除出来る。 だが、FAXならば、確実に印刷されてかたちになる。 もし、印刷を停止してメモリーにしても、メモリーがパンクしてしまう。 物理的にFAXが壊れるという事態まで発展する。 これは痛打らしい。 しかも、FAXで100通来たら、結構、こたえる。 特に抗議FAXに不慣れなところなら、尚更である。 また、0120ナンバーのFAXならば、通信費まで負担することになるので、抗議された方はとても辛いと思う。 注)一部企業で、FAXを外すところが出てきました。 ソニー損保と阪急交通社は、8月25日の広告にはFAX番号が記載されていましたが、26日には有りません。 ご注意を。 (平成26年8月25日月曜日)の朝日新聞朝刊の新聞広告主の中で比較的大きいものは以下の通り。 株式会社KADOKAWA(角川書店) 再春館製薬所(0120-444-444)(FAX0120-444-104) はせがわ(霊園)(0120-11-7676) 株式会社富山常備薬グループ(お肌の医薬品)(0120-272-093)(FAX0120-844-093) 日本予防医薬(イミダペプチド・健康ドリンク)(0120-160-793)(FAX0120-189-565) 茶の葉通信(お茶葉)(0120-118-864)(FAX0120-548-020) マルシマ(生姜杜仲茶)(0120-931-877)(FAX0120-60-2363) 自動車保険チューリッヒ(0120-860-362)(FAX0120-676-759) 三井住友信託銀行(0120-181-536) カルピス(乳酸菌錠剤ビオマイン)(0120-591-775)(FAX0120-591-037) ソニー損保(0120-37-9195)(FAX0120-706-109) オリックス生命保険(0120-679-250)(FAX0120-377-211) 阪急交通社(旅行・トラピックス)(FAX03-6745-1899) アサヒ軽金属工業株式会社(フライパン製造会社)(0120-70-2220)(FAX0120-80-2203) 株式会社クリスタルジェミー(美肌ファンデーション)(0120-44-6600)(FAX03-3403-4474) 大正製薬(大麦若葉青汁)(0120-51-8428)(FAX0120-28-3748) 山田養蜂場(蜂の子ソフトカプセル)(0120-38-38-38)(FAX0120-38-8318) (平成26年8月25日)の朝日新聞夕刊の主な広告主 (別刷り)阪急交通社(旅行会社・トラピックス)(FAX03-6745-1399) サンスター株式会社(健康食品「野菜の力」)(0120-000-203)(FAX0120-280-893) 株式会社ピュール(白髪染めシャンプー)(0120-8000-70)(FAX0800-500-6000) ホテル日航東京(川越達也・河合隆良シェフのディナーショー)(03-5500-5635) 郵船トラベル(船旅クルーズセンター)(03-5213-9987)(045-640-6560)(cctweb@ytk.co.jp)(ccy@ytk.co.jp) (平成26年8月26日)朝刊の主な広告主 株式会社医食同源ドットコム(潤貴妃、プラセンタとツバメの巣配合の健康食品)(0120-149-003)(FAX0120-149-151) フィデリティ証券株式会社(投資信託)(0120-140-460) ティーライフ株式会社(白髪染め)(0120-81-1968)(FAX0120-59-0964) 大塚製薬(ポカリスエット)(0120-550708) ソニー損保(0120-919-919) サントリー(オメガメイド、健康食品)(0120-372-390)(FAX0120-456-303) マイケア(イタドリ、健康食品ひざ関節)(0120-188-188)(FAX0800-100-1188) SMBCフレンド証券(外国債券)(0120-917-035)(0120-61-2010) 通販のユーコー(布団専用ダニ掃除機)(0570-666-552)(FAX03-3945-5017) 株式会社ユーグレナ(緑汁、健康食品)(0120-14-4907)(FAX0120-77-4907) ゲンダイダイレクト(炊飯なべ)(0120-884-622)(FAX03-3461-5016) HIS(旅行会社)(050-5833-2826) 株式会社バスクリン(薬用育毛剤「髪姫」)(0120-555-321)(FAX0120-99-4128) アフラック保険(医療保険)(0120-889-440) 株式会社全国通販(0120-977-176)(FAX0120-172-807) 陶陶酒本舗(薬用酒)(0120-039-064)(FAX03-5229-2046) 株式会社ヴェントゥーノ(健康食品「快朝酵素」)(0120-60-4000)(FAX0120-888-650) 平成26年8月26日夕刊の主な広告主 (別刷り)日本水産株式会社・海の元気倶楽部(DHAドリンク「みんなのみかた」、ニッスイ「イマークS」)(0120-231-100)(FAX03-6741-6060) サントリー(健康食品、セサミン)(0120-372-390)(FAX0120-456-303) 森下仁丹株式会社(腸まで届く「ビフィーナS」)(0120-181-209)(FAX0120-132-249) 協和発酵バイオ(健康食品オルチニン)(0120-04-8585)(FAX0120-80-227) 阪急交通社(03-6745-1877) 株式会社ダリヤ(白髪染め)(0120-57-2152) 平成26年8月27日水曜日朝刊の主な広告主 ビクトリノックス東武池袋店(スイス製登山用品ブランド)(03-6907-3990) 伸和ピアノ株式会社(ピアノ買います)(0120-050-151) 三菱マテリアル(純金積み立て)(0120-49-3214) 田中貴金属工業(純金積み立て)(0120-67-5432) えがお(健康食品、黒酢にんにく)(0120-027-027)(FAX0120-77-7733) 株式会社ダリア(白髪染め)(0120-57-2152) 興和(排尿困難、夜間尿、頻尿改善薬、「レディーガードコーワ」「ジェントスル―コーワ細粒」)(03-3279-7755) 再春館製薬所(ドモホルンリンクル)(0120-444-444)(FAX0120-444-104) 生和コーポレーション株式会社(賃貸住宅経営)(0120-800-312) 森下仁丹株式会社(ビフィズス菌「ビフィーナS」)(0120-181-209)(FAX0120-132-249) 株式会社てるみくらぶ(海外旅行会社)(050-3777-4859) ユーキャン(愛蔵版DVD全集「神秘の大宇宙」)(0120-55-0000) ウェルベスト(健康食品「新谷酵素」)(0120-989-888)(FAX0120-122-556) ヤーマン株式会社(美肌薬用ファンデーション)(0120-084-008)(FAX0120-740-882) エーザイ株式会社((健康食品、「ユベラ贅沢ポリフェノール」)(0120-024-831)(FAX0120-831-195) 株式会社クイーポ(鞄ブランド、ゲンテン)(03-3268-9199) 株式会社セレコーポレーション(アパート経営)(0120-057-057)(FAX03-3562-3031) ECCジュニア(英会話ホームティーチャー申込み)(0120-415-144) ※後は、朝日新聞の配達所の折り込みチラシ攻撃としては、スーパーの投書箱に、「朝日新聞への折り込みチラシはやめてください」と書いてみるのはどうだろうか? ※実は、朝日新聞は絶対に潰れない会社である。 何故なら、今迄に新聞や雑誌でしこたま稼いだ大金で、たんまり資産を蓄えているからである。 具体的には、不動産である。 日本全国に広大な土地や建物を幾つも所有している。 だから、いざとなれば、そういう不動産を処分していけば、何年でも食いつないでいくことが出来る。 しかしながら、その不動産部門を痛打されると、致命的になる。 現に、先日の「フラッシュ」合併号に於いて、「朝日新聞が、この時期に、釈明特集記事を掲載したのは、大阪の新ビル開発に支障をきたさないためである。」と書かれていた。 こちらのブログで、既に、朝日新聞の不動産部門への攻略を書かれた御仁が居られるので、ご紹介する。 http://migigimi.blog.fc2.com/blog-entry-538.html なお、自分の私見としては、不動産部門への攻撃は、対テナントでないと効果が無いと考える。 対テナントの作戦となれば、ビルの周辺で抗議集会を開くといった大掛かりなものになるかもしれない。 また、朝日新聞のビルのテナントにどんな企業が入居しているか、調査し、その上でないと駄目だろう。 但し、極めて効果的な作戦だと、自分は思う。 (ポスティング用です)朝日新聞の捏造報道チラシ http://mikoup.ebb.jp/src/file934.pdf

●道徳

●道徳 ◆どう とく【道徳】 ① ある社会で,人々がそれによって善悪・正邪を判断し,正しく行為するための規範の総体。法律と違い外的強制力としてではなく,個々人の内面的原理として働くものをいい,また宗教と異なって超越者との関係ではなく人間相互の関係を規定するもの。 ② 小・中学校において,道徳教育を行う教育課程。1958年(昭和33)に設置。 ③ 〔もっぱら道と徳とを説くことから〕 老子の学。 「道徳」に似た言葉» 類語の一覧を見るモラリティー 徳行 道徳性 倫理 人倫   ◆どうとく 【道徳】  世界宗教用語大事典 人の行うべき倫常の道。倫理と同じ。老子は根源的原理(道)と万物育成の造化作用(徳)とを説いたので、『老子』を『道徳経』ともいう。仏教でも道徳の語を借用して正法を道とし、それを保持するのを徳とする(悟りの本質)。中世末期のヨーロッパに栄えた教訓的宗教劇を道徳劇ともいう。作者は聖職者が多い。アメリカのルター派牧師ブックマン(一八七八~一九六一)は道徳再武装運動(Moral Re Armament=略称MRA)を起こし、道徳的回心を説いた。   ◆道徳  地名辞典 読み方:ドウトク 所在 高知県高岡郡四万十町   ◆道徳  駅名辞典 読み方:ドウトク 所在 愛知県(名古屋鉄道常滑線)   ◆姓 読み方 道徳 どうとく   ◆道徳(どうとく、英: morality)http://urx.nu/bnrx 道徳的規範や道徳性などのこと。倫理はいくつかの意味をもち、道徳を表すことが多い。モラルとも称される。   ◆『●どうとく【道徳】』⇒ http://urx.nu/bnrU   ◆騙す 取る 殺す     http://urx.nu/bnrT

中国は異常な国である。異常な中国には世界共通の道徳は通用しない。

中国は異常な国である。異常な中国には世界共通の道徳は通用しない。 中国人は常に自己の利益、自国の利益を追求する。シナ人根性 を理解して対応すべきだ。 [AC通信:No.509 Andy Chang (2014/08/26) [AC論説] No.509 中国の異常接近 中国の戦闘機が米国の対潜哨戒機に異常接近した上で、米国に対し 海上偵察の停止を要求した。6月には尖閣諸島付近で自衛隊機に異 常接近した。二つとも中国側の威嚇であり、米国の衰退を中国の覇 権進出のチャンス、威嚇を繰り返し米国や日本が何所まで譲歩する かを見極めようとする。 米国だけでなく世界諸国は中国に対応する方法を間違えている。中 国人の野心を見極めなかったからである。この状態から脱出するに は中国人の本質を見極めて中国政策を改善すべきである。 中国は異常な国である。異常な中国には世界共通の道徳は通用しな い。中国人は常に自己の利益、自国の利益を追求する。シナ人根性 を理解して対応すべきだ。 ●シナ人気質 米国はシナ人気質を理解していない、日本もシナ人気質を理解して いない。中国との交渉はどのように些細なことでも常に平気で嘘を 言う、双方に通じる道徳は皆無である。だから相手が「人間」と思 わず「人間と違うケダモノ」として対処すべきだ。 トウ小平が中国の経済開放を始めたとき、「韜光養晦(野心を隠す)」 と「友好」をモットーとした。だが中国が強大になると忽ち豹変し て「中国の夢」を唱え、武力誇示、領土拡張、資源獲得を始めた。 不利な時は平和友好を唱えて哀れみを乞うが、有利な時は傲慢をむ き出しにして恫喝する。卑屈と傲慢、乞食と富豪、この二つとも中 国人の気質である。中国人と交渉するときは相手が隠した本心(野 心)を見極めなければ常に譲歩を繰り返す羽目になる。 中国には「鄭州人の喧嘩」と言う笑い話がある。鄭州人(河南省の 首都)の喧嘩とは罵りあい、威嚇、悪口雑言、肩を寄せ拳を振り上 げて互いに詰め寄る。しかし絶対に手を出さない。手を出したほう が負けだが一触即発まで威嚇を繰り返す。中国人の外交とはいつで も鄭州人の喧嘩と悟るべき、威嚇には威嚇で対応すべきだ。 戦闘機の異常接近はまさにその通りで、シナ人が拳を振り上げた威 嚇なのだ。手出しをすれば戦争になるが、相手は威嚇だけである。 相手が戦闘機を出せばこちらも戦闘機で威嚇すべき。相手が二機な らこちらは三機、優勢な対応をすれば引っ込む。だが威嚇が収まっ ても次の威嚇があるから常に警戒心を持つべきだ。 ●交渉条件を「値切る」 APEC の首脳会談で日本側が日中首脳会談を持ちかけて、習近平は日 本側に安倍首相が靖国参拝をしないこと、尖閣問題を討論するなど の条件を持ちかけたというが、二つとも日本の国内問題である。 日中交渉に日本側に不利な条件をつけるなどもってのほかだ。日中 首脳会談は習近平の地位の確立に有利でも安倍首相に有利ではない し、日本側が譲歩する必要は少しもない。 中国は対外交渉でいつも自国に有利な条件を持ち出すが、このよう な相手に譲歩するよりも逆にこちらから天安門事件、チベット問題、 環境汚染など、相手の弱点を指摘する条件を出すべきだ。中国の弱 点はいくらでもあるし、日本が下手に出る必要はない。日中交渉は 常に日本が優位に立つと知るべきである。 対中国交渉とは「値切る」ことである。向こうの言い値で交渉して はならないし、中国側の言い値は本当の値段の数倍から数十倍であ ると知るべきだ。 ●世界経済と中国 中国にとって経済とは政治、中国覇権の手段である。中国は諸国と 公平な競争をしない。中国では政治がすべて、経済は政治の一部に 過ぎない。 諸国の企業家は巨大な中国のマーケットに目がくらんでいるが、中 国に進出する企業はみんな中国側の不合理な条件を受け入れなけれ ばならない。各国はいろいろな制約を受けるほかに、中国がそれを 必要としなくなれば忽ちポイと追い出される。 諸国は中国のマーケットが欲しいけれど、中国は諸国の能力の模倣 がしたいのである。中国で不公平な制約を受けるよりも中国以外の マーケットを探すべきだ。中国は世界を必要としているが、世界は 必ずしも中国を必要としていない。中国が異常な国でなければ対等 な世界経済に組み込むことが出来る。異常な国であれば世界は中国 を排除すればよい。 ●共産中国は世界に有害である トウ小平の「韜光養晦」から習近平の「中国の夢」まで、中国の首 脳が変わり、共産党政権は友好からアジア、世界制覇の野心をむき 出しにして、米国の戦闘機に異常接近、公海上の偵察飛行にさえ武 力恫喝をするようになった。明らかに中国の覇権進出が世界の不穏 の根源である。このような事態に至っても米国は中国を恐れて宥和 政策を取り続けるつもりか。 中国共産政権に対抗して習近平の傲慢を叩くべきである。習近平は 国内でも汚職追放やチベット、東トルキスタンの反抗に手を焼いて いる。中国共産党を潰すのは簡単で、まず習近平を潰すことである。 中国共産党を潰せば世界は平和になる。 習近平は自己の権力増大を狙い、汚職摘発で徐才厚、周永康などを 逮捕したが、熾烈を極める政治闘争で習近平が勝つとは限らない。 諸国は習近平に有利になるすべてに非協力をモットーとし、彼の失 敗を見極めるべきだ。習近平に有利なAPECの首脳会議や経済交渉な どに協力すべきではない。「鄭州人の喧嘩」を理解して、戦闘機異常 接近では武力対抗より経済制裁を加えるべきである。外交面では中 国側の要求に反対し、いかなる中国側の提案も妨害すべきである。 中国は世界不穏の根源である。中国と戦争をして中国に勝つのでは なく、経済封鎖などで中国共産党を潰すべきだ。習近平が権力争い に失敗したら中国共産党は大混乱となり、前世紀のような群雄割拠、 政党乱立、地方の独立が起きる。中国がいくつかの小国に分割され 弱体化すれば世界が平和になる。

イギリスで、底なしの陥没穴が出現

イギリスで、底なしの陥没穴が出現 濱田 治美 昨年から今年にかけて、イギリス各地に小さな陥没穴が出現しています。大雨が降り続き地盤が緩んだためではないかと言われていますが。。。 最近では、巨大な底なし穴が出現したそうです。イギリスのどのエリアかは伝えられていませんが。。。直径約90mまで拡大しているそうです。縁が崩れ落ちているため今後も穴は拡大し続けるのではないでしょうか。 雨で地盤が緩むと土砂崩れが起きますが、このような陥没穴が開くのはどういうことなのでしょうか?採掘場跡で陥没穴ができるのは分かるのですが。。。そうではないようなので。。。地下水路が崩れているのでしょうか? それとも、やはり地球は空洞なのでしょうかね~。。。。 <イギリス各地に陥没穴が> http://www.dailymail.co.uk/news/article-2560892/Terrifying-holes-opening-Britain-How-sinkholes-appearing-five-times-normal-rate-bad-weather-mean-havent-seen-them.html <イギリスで巨大な底なし穴が出現> http://beforeitsnews.com/earthquakes/2014/08/bottomless-pit-opens-up-in-uk-100-wide-monster-sinkhole-as-planet-earth-continue-to-crumble-2511118.html 8月25日付け: イギリスで、巨大な陥没穴が出現しました。最初、穴の直径は約90cmでしたが、次第に穴の縁が崩れ落ち、今は直径約90mまで拡大しました。しかもこの穴は底なしです。穴の上からは底が全く見えません。最近、チリ、ペルー、カリフォルニアで地震が発生しましたが、メキシコでは巨大な地割れが確認されています。これは、地球全体に大きな変化が起きているということなのでしょうか。 http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/51936887.html

昨日のフィールドワークにて、大学の教授との話。

昨日のフィールドワークにて、大学の教授との話。 手登根 安則 表現の自由について討論となりました。 教授いわく、「表現の自由という点において、フェンスにテープを貼ることは許されていいのではないだろうか、これは最高裁でも判決が出ていることであり・・・」 私は、「表現の自由というものは、法律及び社会的規範の範囲内で認められるべきであり、それを無条件で認めるのなら、反戦平和は免罪符となる、それがこの現状だ」と切り返しました。 それでも彼は、「テープを貼るというのは意思表示であり、汚しているのとは違う、また張った側が剥がすというのなら認められても・・」 私はこう答えました。 「貼った側は確かに剥がしますと新聞で意思表明をしております、しかしそれは普天間基地が撤去されたときに、という条件つきです、基地が移設されるまでの何年、十何年もの間、このテープを貼ったままにしておくのですか?表現の自由とはそんなものなのですか?」 残念ですが、彼の心の中には「貼る側」へ寄り添いたいという気持ちが見え隠れしておりました。 反対派は常に攻撃すべき対象を求め続けています。 それがなければ、自らの存在を保てないのでしょうか? 野嵩ゲートでは、フンエスクリーンプロジェクトを 大山ゲートでは、ハートクリーンプロジェクトを 辺野古では「海保」が彼等の「敵」として、マスコミ総出で攻撃を繰り返しています。 抗議活動のためなら、規制線の内側にカヌーを乗り入れていいのか? それこそ問題にすべき点ですが、沖縄メディアは反対派にべったりと寄り添った報道を繰り返しております。 死亡広告なら数十万もとるスペースを「辺野古ドキュメント」として毎日掲載。 むろん、活動家のためですので無料掲載でしょう。 「首や顔を押さえつけられ、繰り返し海中に沈められた」 法を守らない者の戯言を、裏もとらず平気で掲載し続ける沖縄の新聞。 何度も踊る「市民」という文字。 メディアそのものが反対派の一部と化したいま、沖縄県民は真実をどう見極めるかが問われているのだと思います。

●貝原益軒

●貝原益軒 ◆かいばらえきけん かひばら- 【貝原益軒】 (1630~1714) 江戸前・中期の儒学者・本草家・教育思想家。筑前生まれ。名は篤信。初め損軒と号した。福岡藩儒。朱陸兼学から朱子学に帰し,本草などにも目を向け,博物学的実証主義に立って窮理の道を重視。著「大疑録」「大和本草」,医書の「養生訓」,子女の教育を説いた「和俗童子訓」など多数。   ◆かいばらえきけん 【貝原益軒】  世界宗教用語大事典 江戸前期の儒学者・博物学者・教育家。福岡藩右筆の子(先祖は神官)。名は篤信。前号は損軒。藩主に仕え、京都で木下順庵らと交際して帰郷。陽明学から朱子学に転じ、晩年は古学派に。長崎・京都・江戸を旅し紀行文が多い。他に『大和本草』『養生訓』『和俗童子訓』は有名。人間性の尊重と愛の大切を説いた。兄楽軒も本草学者。(一六三〇~一七一四)   ◆貝原益軒   美術人名辞典 読み方:かいばら えきけん 江戸前・中期の儒者。福岡藩医官貝原寛斎の四男。名は篤信、字は子誠、通称を助三郎、のち久兵衛、別号に損軒・柔斎。父や兄存斎に医学・漢学を学ぶ。のち藩医となり京都に遊学。学問は初め陽明学を好み、のち朱子学を、晩年にはその朱子学も批判するに至った。その探究するところ極めて幅広く、子女の教育法を説いた『和俗童子訓』等著書も多い。正徳4年(1714)歿、85才。   ◆貝原 益軒(かいばら えきけん、1630年12月17日(寛永7年11月14日) - 1714年10月5日(正徳4年8月27日))は、江戸時代の本草学者、儒学者。   ◆生涯・人物 筑前国(現在の福岡県)福岡藩士、貝原寛斎の五男として生まれる。名は篤信、字は子誠、号は柔斎、損軒(晩年に益軒)、通称は久兵衛。 1648年(慶安元年)、18歳で福岡藩に仕えたが、1650年(慶安3年)、2代藩主・黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送ることとなる。1656年(明暦2年)27歳、3代藩主・光之に許され、藩医として帰藩[1]。翌年、藩費による京都留学で本草学や朱子学等を学ぶ。このころ木下順庵、山崎闇斎、松永尺五、向井元升、黒川道祐らと交友を深める。また、同藩の宮崎安貞が来訪した。7年間の留学の後、1664年35歳の時、帰藩し、150石の知行を得、藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応をまかされ、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担った。藩命により『黒田家譜』を編纂。また、藩内をくまなく歩き回り『筑前国続風土記』を編纂する。 『大和本草』(国立科学博物館の展示)幼少のころから読書家で、非常に博識であった。ただし書物だけにとらわれず自分の足で歩き目で見、手で触り、あるいは口にすることで確かめるという実証主義的な面を持つ。また世に益することを旨とし、著書の多くは平易な文体でより多くの人に判るように書かれている。 70歳で役を退き著述業に専念。著書は生涯に60部270余巻に及ぶ。主な著書に『大和本草』、『菜譜』、『花譜』といった本草書。教育書の『養生訓』、『和俗童子訓』、『五常訓』。思想書の『大擬録』。紀行文には『和州巡覧記』がある。 1911年(明治44年)6月1日、贈正四位   ◆養生訓 - Wikipedia  http://urx.nu/bmMP 江戸時代に福岡在住の儒学者の貝原益軒によって書かれた健康な生活の暮し方についての解説で、彼の著作の中でも最もよく読まれたものである。 益軒83歳の正徳2年(1712年)、実体験に基づいて書かれた書物である。長寿を全うするための身体の養生だけでなく、こころの養生も説いているところに特徴がある。 『孟子』の君子の三楽にちなみ、養生の視点からの「三楽」として次のものが挙げられている。 1.道を行い、善を積むことを楽しむ 2.病にかかることの無い健康な生活を快く楽しむ 3.長寿を楽しむ。 また、その長寿を全うするための条件として、自分の内外の条件が指摘されている。まず自らの内にある四つの欲を抑えるため、次のものを我慢する。 1.あれこれ食べてみたいという食欲 2.色欲 3.むやみに眠りたがる欲 4.徒らに喋りたがる欲 さらに季節ごとの気温や湿度などの変化に合わせた体調の管理をすることにより、初めて健康な身体での長寿が得られるものとする。これらすべてが彼の実体験で、彼の妻もそのままに実践し、晩年も夫婦で福岡から京都など物見遊山の旅に出かけるなど、仲睦まじく長生きしたという。 こうした益軒の説くことは、今日の一次予防に繋がるものである。   ◆養生訓(貝原益軒)  http://urx.nu/bmN6 この本が上梓されたのは1713年です。今から(今年2001年)288年前のことです。当時、益軒は84歳でした。この本の中には「人生の楽しみ方」が書かれています。その「楽しみ方」には、以下の3つの面をもっています。  ①≪道≫を行い≪善≫を楽しむこと②病なく快く楽しむこと③長寿の楽しみです。益軒はこの≪三楽≫をいかなる金銀財宝の富や名誉の貴さよりも優れたものとしています。  また≪長寿≫もただの有機体の一物として長く生きるということではなく、「欲をすて謙虚に、畏敬の念を忘れずに生きる」人間の真の姿を描いています。さらにこの書は単なる≪養生≫の技術や知識を述べたものではなく、ここで説かれているのは、≪永遠の命≫を生きる人間の知恵であります。決して理性的な観念や原理をふりかざしたような乾燥したものではありません。それゆえ288年も経った現在でも、日本人の体質や風土に適合した深い味わいを出しているとおもわれます。 ここでは≪養生訓≫の代表的な部分を載せてみましたので、興味ある方はクリックしてみてください。   ◆貝原益軒の名言 - 地球の名言  http://urx.nu/bmNk  貝原益軒の名言一覧 朝早く起きるは、 家の栄えるしるしなり。 遅く起きるは、 家の衰える基なり。   ◆貝原益軒アーカイブ   http://urx.nu/bmNx 江戸時代の偉大な儒者であり、自然科学の分野にも幅広く通じていた貝原益軒(寛永7(1630)年~正徳4(1714)年)の墓は夫人(貝原東軒)の墓とともに本学からほど近い福岡市中央区今川の金龍寺にあります。 益軒が85年の生涯に残した数多くの著作の中でも、本草学・医学関係の大和本草、花譜、養生訓などや、教育論としてもとらえることのできる大和俗訓、和俗童子訓などは、栄養科学部や教育学部を設置する本学にとって大変興味深いものであり、益軒を学ぶとともに関係資料を調査、収集することは意義あることと言えます。

いくさ(軍、戦、兵)

いくさ(軍、戦、兵) 1. つわもの、 兵士、 兵隊、 軍勢、 軍隊。つまり、戦争をすることが可能な集団。 2. 1に書かれている対象の関係としての、つまり、戦い、戦争、合戦。 戦・軍(いくさ)の意味・語源・由来 【意味】 いくさとは、兵と兵が戦うこと。戦い。戦争。合戦。武士。戦士。軍隊。兵隊。 いくさを漢字で「戦」「軍」と書くのは当て字。 いくさの「いく」は、矢を「射る」「射交わす」意味の「いくふ(いくう)」か、「まと(的)」を意味する「いくは」の語根。 いくさの「さ」は、「矢」を意味する「さ(箭・矢)」、もしくは接尾語の「さ」。 つまり、いくさの語源は「矢を射る」「矢を射交わす」ことである。 古く、「いくさ」の語は「矢射るわざ(こと)」の意味で用いられることが多く、「戦争」や「戦闘」の意味が主になったのは中世以降である。 【関連語】 アーミー (army)陸軍  軍(陸軍編成の単位)。 軋轢(あつれき)《車輪がきしる意から》仲が悪くなること。「―を生じる」 抗う(あらがう)1 従わないであらそう。抵抗する。逆らう。「運命に―・う」「権勢に―・う」 諍う(あらがう)1 従わないであらそう。抵抗する。逆らう。「運命に―・う」「権勢に―・う」 争う(あらそう)1 従わないであらそう。抵抗する。逆らう。「運命に―・う」「権勢に―・う」 諍い(いさかい)言い争い。言い合い。また、けんか。「―が起こる」「友人と―する」 いざこざ   もめごと。争いごと。ごたごた。「職場に―が絶えない」「―の種をまく」 蝸牛(かぎゅう)角上(かくじょう)の争い 《「荘子」則陽の、かたつむりの左の角(つの)にある国と右の角にある国とが争ったという寓話から》小さな者同士の争い。つまらないことにこだわった争い。蝸角(かかく)の争い。 ●蝸牛角上の争い(かぎゅうかくじょうのあらそい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .とるに足らぬ狭いところで、つまらぬことのために争い合うことをいう。蝸牛はカタツムリのこと。カタツムリの右の角(つの)の上にある蛮(ばん)氏の国と、左の角の上の触(しょく)氏の国とが、互いに相手の地を求めて争って戦い、数万の死者を出したとある、『荘子』「則陽篇(へん)」の寓話(ぐうわ)による。『白氏文集』にも、「蝸牛の角の上に何事をか争う、石火の光の中に此身(このみ)を寄せたり」などとあり、人間の身を石火のようにはかないものに例えている。 [ 執筆者:田所義行 ] 敵・仇(かたき) 《「かた」は対比するものの片方の意で、本来は相手を広くいう》 1 勝負や争いの相手。競争相手。「商売上の―」「碁―」 2 恨みのある相手。あだ。仇敵(きゅうてき)。「―を取る」「父の―を討つ」 3 戦での相手。てき。 「―も御方(みかた)もこれを聞いて、一度にどっとぞ笑ひける」〈平家・九〉 4 結婚の相手。配偶者。 「御―をば知り奉らじ」〈宇津保・俊蔭〉 →敵(てき)[用法] ゲリラ【(スペイン)guerrilla】 小部隊による奇襲などで敵を混乱させる戦法。また、その部隊や戦闘員。「―戦」 犬猿の仲(けんえんのなか)何かにつけていがみ合うような仲の悪さ。 喧嘩/諠譁(けんか)言い合ったり殴り合ったりしてあらそうこと。いさかい。「―をふっかける」「―するなら外でしろ」「口―」  騒がしいこと。また、そのさま。 喧嘩腰(けんかごし)すぐにもけんかを仕掛けそうに、くってかかる態度。「―で掛け合う」 骨肉相食む(こつにくあいはむ)肉親どうしが争い合う。骨肉相争う。「遺産をめぐっての―・む争い」◆ 他人同士が争う場合には、この句は使わない。 鞘当て(さやあて) さや‐あて【×鞘当て】 1 武士が道で行き違うときに、互いに刀の鞘に触れたのをとがめ、争うこと。さやとがめ。転じて、ささいなことからおこるけんか・争い。 2 一人の女性をめぐり二人の男性が争うこと。「恋の―」 3 歌舞伎の趣向の一つで、二人の武士が鞘を当てたことから争いになるというもの。元禄10年(1697)江戸中村座上演の「参会名護屋(さんかいなごや)」が最初で、現在の形は文政6年(1823)江戸市村座上演の「浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなずま)」の吉原仲の町の場による。 鎬を削る(しのぎをけずる)激しく刀で切り合う。転じて、激しく争う。「二党が―・る激戦区」◆「凌ぎを削る」と書くのは誤り。 シャモ・軍鶏(しゃも)《アイヌ語》アイヌが日本人をさしていった語。和人。 修羅場(しゅらば)阿修羅(あしゅら)と帝釈天(たいしゃくてん)とが戦う場所。 スカッド【Scud】 1960年代に開発された旧ソ連製の中距離地対地ミサイル。核弾頭を装着できる。また、これを土台にして、イラク・北朝鮮などの各国が独自に開発したものを指すこともある。1991年の湾岸戦争では、イラク側の報復兵器として使用された。 鬩ぐ(せめぐ)《古くは「せめく」とも》 1 互いに憎み争う。 「我が先へ汝(そなた)は後にと兄弟争い―・いだ末」〈露伴・五重塔〉 2 責め苦しめる。 「老いぬとてなどかわが身を―・ぎけむ老いずは今日にあはましものか」〈古今・雑上〉 タイマン  1対1のケンカのこと。 『タイマン』の解説 タイマンとは1対1のケンカのことで、1980年代に当時『ツッパリ』と呼ばれる不良少年が好んで使った言葉である。 当時は学校同士やグループ同士のケンカの際、最後は相手の権力者(大将・番長)とタイマンでケリをつけることが美徳とされた。 また、タイマンは本宮ひろ志の漫画など当時の不良やツッパリ漫画でよく使われた。 http://zokugo-dict.com/16ta/taiman.htm  日本語俗語辞書 戦い・闘い(たたかい) 1 戦争。戦闘。「ゲリラとの―」 2 競争。試合。勝負。「ライバルとの―」 3 抗争。闘争。「貧困との―」「労使の―」 角突き合い(つのつきあい)《「つのづきあい」とも》仲が悪くてよくけんかをすること。いがみ合い。「部内で―が絶えない」 鍔迫り合い(つばぜりあい) 1 打ち合わせた刀を鍔もとで受け止めたまま互いに押し合うこと。 2 勢力に差がなく、緊迫した状況で勝負を争うこと。また、その争い。「―の接戦を演じる」「両党入り乱れて―する」 兵(つわもの) 1 武器をとって戦う人。兵士。軍人。また特に、非常に強い武人。「歴戦の―」「古(ふる)―」 「夏草や―どもが夢の跡」〈奥の細道〉 2 勇気のある強い人。また、その方面で腕を振るう人。猛者(もさ)。「若いのになかなかの―だ」「その道の―」 3 戦いに用いる道具。武器。武具。 「―を業として、悪を旨として」〈宇津保・祭の使〉 敵(てき) 1 一緒に物事をする人。相手。相棒。 2 (「敵娼」とも書く)遊里で、客から見て相手の遊女。 テロ  「テロル」「テロリズム」の略。 テロル【(ドイツ)Terror】 《恐怖の意》暴力行為あるいはその脅威によって、敵対者を威嚇(いかく)すること。恐怖政治。テロ。 テロリズム【terrorism】 政治的目的を達成するために、暗殺・暴行・粛清・破壊活動など直接的な暴力やその脅威に訴える主義。テロ。 とっちめる《「と(取)ってし(締)める」の音変化》きびしく責めたり、しかったりする。ひどくやりこめる。「いたずら者を―・める」 武士(ぶし) 昔、武芸をおさめ、軍事にたずさわった身分の者。中世・近世には支配階級となった。さむらい。もののふ。 矛・鉾(ほこ) む【矛】 [音]ム(呉) ボウ(漢) [訓]ほこ 〈ム〉武器の一種。ほこ。「矛盾」 〈ボウ〉ほこ。「矛戟(ぼうげき)」 〈ほこ(ぼこ)〉「矛先/玉矛(たまぼこ)」 [名のり]たけ ほこ【矛/×鉾/×戈/×鋒/×戟】 1 両刃の剣に柄をつけた、刺突のための武器。青銅器時代・鉄器時代の代表的な武器で、日本では弥生時代に銅矛・鉄矛がある。のちには実用性を失い、呪力(じゅりょく)をもつものとして宗教儀礼の用具とされた。広く、攻撃用の武器のたとえとしても用いる。「―を向ける」 2 弓の幹(から)。弓幹(ゆがら)。 3 1を立てた山車(だし)。特に京都祇園会(ぎおんえ)の山鉾(やまぼこ)。ほこだし。《季 夏》「―処々にゆふ風そよぐ囃子(はやし)かな/太祇」 的(まと) 1 弓や銃砲などの発射の練習の目標にする道具。円形・方形など各種あるが、普通は中央に黒点を描いてある。標的。「―をねらう」 2 物事をするときの目標・対象。めあて。「非難の―になる」「受験校の―を絞る」 物事の核心。「―をそれた質問」 3 紋所の名。1を図案化したもの。 味方(みかた) み‐かた【味方/▽御方/身方】 [名](スル)《「かた」の敬称「御方」の意。「味方」「身方」は当て字》 1 対立するものの中で、自分が属しているほう。また、自分を支持・応援してくれる人。「心強い―」⇔敵。 2 対立するものの一方を支持したり、応援したりすること。「いつも女性に―する」 3 天皇の軍勢。官軍。 「―の軍おぢおそれ三たび退き返る」〈今昔・一一・一〉 [ 大辞泉 提供: JapanKnowledge ] 水掛け論(みずかけろん) 両者が互いに自説にこだわって、いつまでも争うこと。また、その議論。互いに自分の田に水を引こうと争うことからとも、水の掛け合いのように勝敗の決め手のない論争の意からともいう。 ミリタリー【military】 1 軍。軍隊。 2 複合語の形で用い、軍の、軍事上の、の意を表す。「―バランス」 揉める(もめる) 1 争いが起きてごたごたする。「会議が―・める」 2 いらいらする。「気が―・める」 3 費用がかかる。 「はじめより―・める事なれば」〈浮・一代男・八〉 遣っ付ける(やっつける)《「やりつける」の音変化》 1 「する」「やる」の意を強めていう語。また、いいかげんにやってしまう。「仕事を一気に―・ける」 2 ひどい目にあわせる。打ち負かす。「手ひどく―・けられる」 竜虎相搏つ(りゅうこあいうつ) 力の伯仲した二人の強豪が勝負する。「―・つ見ごたえのある試合」 [ 大辞泉 提供: JapanKnowledge ]

●おせわ

●おせわ ◆せ わ 【世話】 ( 名 ) スル ① (人や生き物に対して)気を配って面倒をみること。手数をかけて援助すること。 「植木の-」 「孫の-をする」 → 御世話 ② 中に入って取り持つこと。仲介。斡旋(あつせん)。 「就職の-」 「嫁を-する」 ③ 手数がかかって苦労すること。 「 -がかかる」 → 御世話さま ④ 日常的なこと。卑近なこと。 「 -物」 「 -場」 ⑤ 世間でよく口にする話や言葉。世間の言いぐさ。下世話。 「誠に-にも,建長寺の庭を鳥帚で掃いた様なと申すが/狂言・鐘の音 虎寛本」 ⑥ 世俗で使う言葉。俗語。話し言葉。 「 -ニヤワラゲタル平家ノ物語/天草本平家 扉」 [句]世話がない ・ 世話が焼ける ・ 世話に砕ける ・ 世話になる ・ 世話を掛ける ・ 世話を焼く ・ 世話を病む   ◆世話(せわ) 1.相手の身の回りのことをあれこれと面倒をみること。援助すること。 2.その人の希望に添うよう紹介、斡旋すること。 3.面倒で手がかかること。 4.世間一般の人の言ったり、行ったりする事柄または様子。 5.噂。   ◆お世話   丁寧表現の辞書 読み方:おせわ 名詞「世話」に、接頭辞「お」がついたもの。   ◆お せわ 【御世話】 ( 名 ・形動 ) ① 世話を丁寧にいう語。 「病人の-をする」 〔「お世話になっています」 「お世話になりました」などの形で,挨拶(あいさつ)の言葉として持続的な恩恵に対する感謝の意を表すのにも用いる。「日頃何かと-になっております」〕 ② 御面倒。 「 -でもよろしくお願いします」 〔「大きなお世話だ」 「余計なお世話だ」 「いらぬお世話だ」の形で,自分にとって必要ない,お節介な助けに対して,わずらわしく思う気持ちをも表す〕   ◆   ◆余計なお世話 自分にとっては必要のない相手の手助けや差し出口をいう語。 » 余計   ◆げ せわ 【下世話】 ( 名 ・形動 ) 世間でよくいう言葉や話。また,俗な・こと(さま)。 「…と-にも言う」 「 -な話」   ◆下世話   隠語大辞典 読み方:げせわ 平民的という意、「下卑様の話」という意味から出た語。   ◆   ◆世話がな・い ① 手数がかからない。 「あの子は本当に-・い」 ② あきれはててどうしようもない。 「皮肉を言われて喜んでいるとは-・い」 » 世話   ◆世話に砕(くだ)・ける ① 歌舞伎で,時代物の調子で進行していた舞台が,台詞(せりふ)・態度とも急に砕けた世話物の調子になる。 ② 言葉や態度がうちとけて格式張っていない。 » 世話   ◆世話が焼・ける ある人について手数がかかる。面倒だ。 「ずいぶん-・ける子供だ」 「世話の焼ける赤ん坊」 » 世話   ◆世話を病(や)・む 心から世話をする。 「 - ・んで病み死にの母様の恩をはや忘れ/浄瑠璃・生玉心中 上」 » 世話

2014年8月26日火曜日

大切について

大切について 大切(たいせつ)の意味・語源・由来を解説 【意味】 大切とは、重要なこと。大事。 【大切の語源・由来】 「大いに迫る(切る)」「切迫する」の意味を漢字表記し、音読みさせた和製漢語。 「緊急を要するさま」の意味から、平安末期には「肝要なさま」の意味で用いられた。 中世には「かけがえのないもの」の意味から、「心から愛する」意味としても使われるようになり、1603年『日葡辞書』では「大切」が「愛」と訳されている。 【関連語】 愛(あい) 急ぐ(いそぐ) 一大事(いちだいじ) 慈しむ(いつくしむ) 一張羅(いっちょうら) 愛しい(いとしい) 掛け替えのない 要(かなめ) 肝心(かんじん) 切る・斬る・伐る(きる) 心(こころ) 正念場(しょうねんば) 真髄・神髄(しんずい) 正鵠を射る(せいこくをいる) 手塩に掛ける(てしおにかける) 虎の子(とらのこ) 箱入り娘(はこいりむすめ) 本命(ほんめい) 勿体無い(もったいない) Yahoo!知恵袋で 大切、貴重の意味はどう違うのですか。 との質問に 大切:主観的、個人的 貴重:客観的、公的 というイメージがありますな。 例えば、「私の大切な人」はいても、「私の貴重な人」というのはあまり居ませんな。 これが会社だと、「会社にとって大切な人材」も「会社にとって貴重な人材」も居ますな。 国家レベルになると、「国家にとって大切な人物」はちょっと安っぽく聞こえて「国家にとって貴重な人物」が適切ですな。 物の場合も、「僕の大切な宝物」はたいがい他の人にとっては価値が無いと相場が決まっておるが、「貴重品」は誰が見ても貴重と分かる価値のある品でしょう。ですから、「僕の大切な宝物」が盗まれることはあまりないが、「貴重品」は泥棒さんの標的にされますな。 こんな答えが在った。 日本人は大切な存在で貴重な存在でも在る人種である。 大和民族とアイヌ民族と琉球民族 のコメントで サー・ジョンさんが 日本人の遺伝子は色々な種類があり、そのことが渡来してくる人々が平和共存していた証拠であるらしいですね。相手を滅ぼしていれば、特定の遺伝子が優勢になったはずですが、そうではなかったようです。 中国の歴史書には日本を「倭」と表記していました。これは日本語で言う「和」ですから、民族の称号としても「和」だったのでしょうね。 すごく良いコメントだと思う。 大切にしていきたいものです。

●よろしく について

●よろしく について ◆ヨロシク(よろしく)の意味・語源・由来を解説 【意味】 よろしくとは、相手に便宜をはからってもらう時などに用いる言葉。また、そういう気持ちをこめて言う挨拶語。「よろしくやってる」など、「適当に」「うまい具合に」などの意味としても用いる。 【よろしくの語源・由来】 よろしくは、形容詞「宜し(よろし)」の連用形である。 「よろし」は「良し(よし)」よりもやや低い評価を表し、「まあいい方だ」「悪くはない」という意味で使われていた。 そこから、承諾の意味として「宜しい」、承諾してもらう時には「宜しく」と使われるようになった。 また、「ご都合の宜しい時に○○」などで使われる「ほどほどに良い」という意味が転じ、よろしくは「適当に」や「うまい具合に」などの意味にも使われるようになった。 【関連語】 挨拶(あいさつ) あばよ 有難う(ありがとう) 一期一会(いちごいちえ) いらっしゃい 会釈(えしゃく) お陰様(おかげさま) お辞儀(おじぎ) オッス・押忍(おっす) おはよう 鎌をかける(かまをかける) 具合(ぐあい) こんにちは こんばんは すみません 是非とも(ぜひとも) 世話(せわ) ただいま 都合(つごう) ヤンキー 日本語は楽しいね。

●挨拶(あいさつ) - 語源由来辞典

●挨拶(あいさつ) - 語源由来辞典 挨拶(あいさつ)と言う事に興味を持ち調べてみると出てくるは出てくるは。 「こんにちわ」は誤りで。「こんにちは」が正しいとか 挨拶(あいさつ)は禅宗用語だとかが改めてわかった。 沢山の挨拶用語という区分けすが在るのかは専門家に任せて 改めてこんなにある言葉に感動した。 少し挨拶の意味かみ締めてこれから人と交わっていかなければと 感じたしだい。 結構 失礼をしているのだろうね。 挨拶(あいさつ) - 語源由来辞典 【意味】 挨拶とは、人に会ったり別れたりするとき、儀礼的に取り交わす言葉や動作。儀式や会合などで述べること。また、その言葉。 【挨拶の語源・由来】 挨拶は、禅宗で問答を交わして相手の悟りの深浅を試みることを「一挨一拶(いちあいいつさつ)」と言った。 ここから一般に問答や返答のことば、手紙の往復などを挨拶と言うようになった。 「挨」も「拶」も本来は「押す」という意味で、「複数で押し合う」意味を表す語であった。 【関連語】 挨拶(あいさつ) いただきます 一期一会(いちごいちえ) 行って来ます(いってきます) いってらっしゃい いらっしゃい 会釈(えしゃく) 辞儀(おじぎ) お邪魔します(おじゃまします) オッス・押忍(おっす) おはよう お休みなさい(おやすみなさい) 機嫌(きげん) 今日(きょう) グッドバイ 御機嫌よう(ごきげんよう) ご無沙汰(ごぶさた) コミュニケーション 御免(ごめん) こんばんは さようなら さらば 親しい(したしい) ただいま バイバイ 久しぶり(ひさしぶり) 昼(ひる) マナー ようこそ よろしく こんにちは - 語源由来辞典 【意味】 こんにちはとは、日中、人に会ったり、人を訪問した時の挨拶の言葉。「こんにちわ」と書くのは間違い。 【こんにちはの語源・由来】 こんにちはの語源は、「今日は御機嫌いかがですか?」などの「今日は」。 「今日は」以下を略すようになり、「こんにちは」となった。 「こんにちは」を「こんにちわ」と誤表記される理由は多々あるが、「は」と書くよりも「わ」の方が「和」に通じて親しみやすい印象を受けることから、誤表記と知りつつ、あえて「こんにちは」を「こんにちわ」と表記されることもある。 いただきます - 語源由来辞典 【意味】 いただきますとは、食事を始める時の挨拶の言葉。物を貰う時の言葉。 【いただきますの語源・由来】 「いただき」は、動詞「頂く・戴く(いただく)」の連用形。 山や頭の一番高いところを「頂(いただき)」と言うように、本来は「いただく」は頭上に載せる意味を表した語である。 中世以降、上位の者から物を貰う際に頭上に載せるような動作をしたことから、「いただく」に「もらう」という意味の謙譲用法が生じた。 やがて、上位の者からもらった物や神仏に供えた物を飲食する際にも、頭上に載せるような動作をし食事をしたことから、飲食をする意味の謙譲用法が生まれ、食事を始める際の挨拶として「いただきます」と言うようになった。 お辞儀(おじぎ) - 語源由来辞典 【意味】 お辞儀とは、頭を下げて礼をすること。頭を下げて挨拶すること。「お」は接頭語。御辞儀。お辞宜。御辞宜。 【お辞儀の語源・由来】 お辞儀の語源は、物事を行うのにちょうど良い時期を意味する「時宜(じぎ)」で、「辞儀」の表記は江戸時代からである。 平安時代には本来の意味で使われていたが、鎌倉・室町時代には様々な意味で使われるようになった。 「ちょうど良い時間・頃合」の意味から、「時間」の意味が希薄になり、お辞儀は「物事が成立するのにちょうど良い状況・事態」の意味となった。 さらに、「状況に対する考えや気持ち」「状況を見極めて対処すること」を意味するようになり、考えや気持ちなどを表す用法から、積極的に物事に関わる意向の意味が派生し、この意向が他人への配慮や心配になり、中世末期には挨拶の意味になった。 挨拶に伴い頭を下げる動作の意味に限定されるのは、江戸時代後期からである。 会釈(えしゃく) - 語源由来辞典 【意味】 会釈とは、人に対する親しみ・好意・謝意などを表すために、軽く頭を下げたりすること。 【会釈の語源・由来】 会釈は、仏教用語「和会通釈(わえつうしゃく)」の略である。 和会通釈とは、一見矛盾する教義どうしを照合し、根本にある共通する真実の意味を明らかにすることである。 この意味が、中世には「さまざまな状況を考えて考慮する」という意味に転じ、さらに「儀礼にかなった態度をとる」「愛想よく応対する」という意味に転じた。 会釈が、現在使われているような「お辞儀(おじぎ)」の意味になったのは、江戸時代になってからのことである。 有難う(ありがとう) - 語源由来辞典 【意味】 ありがとうとは、感謝の気持ちを表す言葉。感動詞的にも用いる。 【ありがとうの語源・由来】 ありがとうの語源は、形容詞「有り難し(ありがたし)」の連用形「有り難く(ありがたく)」がウ音便化し、ありがとうとなった。 「有り難し(ありがたし)」は、「有る(ある)こと」が「難い(かたい)」という意味で、本来は「滅多にない」や「珍しくて貴重だ」という意味を表した。 『枕草子』の「ありがたきもの」では、「この世にあるのが難しい」という意味、つまり、「過ごしにくい」といった意味でも用いられている。 中世になり、仏の慈悲など貴重で得難いものを自分は得ているというところから、宗教的な感謝の気持ちをいうようになり、近世以降、感謝の意味として一般にも広がった。 ポルトガル語の「オブリガード(obrigado)」から、「ありがとう」と言うようになったという俗説があるが、ポルトガル人が訪れる以前から使われていた言葉がポルトガル語に由来するはずはなく、「オブリガード」と「ありがとう」の音が近いというだけの話で、程度の低い俗説である。 御免(ごめん) - 語源由来辞典 【意味】 ごめんとは、自分の失礼に対して許しを請うたり、謝罪の意思を表すときに言う言葉。他家を訪問した際の挨拶の言葉。拒絶の意を表す言葉。ご免。ゴメン。 【ごめんの語源・由来】 許す意味の「免」に尊敬の接頭語「御」がついた言葉で、鎌倉時代から見られる。 本来は、許す人を敬う言い方として用いられたが、室町前期には許しを求める言い方で、相手の寛容を望んだり自分の無礼を詫びる表現になっていった。 「ごめんあれ」「ごめん候へ」などの形で初めは使われていたが、「ごめんくだされ」や、その省略の「ごめん」が多く用いられるようになった。 ごめんなさいの「なさい」は、動詞「なさる」の命令形で、「御免なすって」の「なすって」と同じ用法である。 挨拶で用いる「ごめんください」は、許しを請う「御免させてください」の意味が挨拶として使われるようになったもの。
「それは御免だ」などの拒絶・断わりは、比較的新しい用法で江戸時代から見られる。 おはよう - 語源由来辞典 【意味】 おはようとは、朝、人に会ったときの挨拶の言葉。 【おはようの語源・由来】 おはようの語源は、「お早く○○ですね」などの「お早く(おはやく)」である。 この「お早く」が転じて、「おはよう」となった。 また、「おはよう」はその日初めて会った人に言うことから、一部の業界では夜でも人に会った時の挨拶として「おはよう」を用いる。 さようなら - 語源由来辞典 【意味】 さようならとは、別れるときの挨拶の言葉。さよなら。 【さようならの語源・由来】 さようならは、「左様ならば(さやうならば)」の「ば」が略され、挨拶になった語。 現在で別れ際に言う「じゃあ、そういうことで」のようなもので、「さやうならば(さようならば)」は、「そういうことならば」を意味する。 いらっしゃい - 語源由来辞典 【意味】 いらっしゃいとは、「来る」「行く」「居る」の尊敬語の命令形。おいでなさい。歓迎の気持ちを込めた挨拶の言葉。商店などの呼び込みの掛け声。 【いらっしゃいの語源・由来】 「入る」の尊敬表現「入らせらる(いらせらる)」という言葉があり、「入る」だけでなく「来る」「行く」「居る」の尊敬表現としても用いられた。 「入らせらる」が一語化して「来る」「行く」「居る」専用の尊敬語となったのが「いらっしゃる」で、その連用形に丁寧の助動詞「ます」の命令形「ませ(まし)」が付き、「いらっしゃりませ(まし)」となった。 のちにイ音便化して「いらっしゃいませ(まし)」となり、「ませ(まし)」が省略されて「いらっしゃい」となった。 命令表現であるが尊敬語でもあるため、歓迎を表す挨拶の言葉としても用いられる。 こんばんは - 語源由来辞典 【意味】 こんばんはとは、日が暮れてから、人に会ったり、人を訪ねたりした時の挨拶の言葉。「こんばんわ」と書くのは間違い。 【こんばんはの語源・由来】 こんばんはの語源は、「今晩は○○ですね」の「今晩は」。 「今晩は」以下を略すようになり、「こんばんは」となった。 「こんばんは」を「こんばんわ」と誤表記される理由は多々あるが、「は」と書くよりも「わ」の方が「和」に通じて親しみやすい印象を受けることから、誤表記と知りつつ、あえて「こんばんは」を「こんばんわ」と表記されることもある。 ただいま - 語源由来辞典 【意味】 ただいまとは、帰宅のときの挨拶の言葉。 【ただいまの語源・由来】 ただいまは、「只今帰りました」を略した語。 「只今(ただいま)」は「今」を強めた語で、「今現在」という意味のほか、「ついさっき」「今しがた」といったごく近い過去や、「ただいま準備いたします」と言うように「今すぐ」といったごく近い未来の意味でも用いられる。 「只今帰りました」は、「つい先ほど帰りました」という、ごく近い過去の意味の「只今(ただいま)」である。 ただいまの語源には、「たった今帰りました」と言っていた「たった今」以降が略され、さらに「たった」が短縮されて「ただいま」になったとする説もある。
しかし、「たった」は「ただ」が転じた語なので、言葉が成立した前後関係から考えて明らかにおかしな説である。 オッス・押忍(おっす) - 語源由来辞典 【意味】 オッスとは、若い男性同士が道などで出会った時の挨拶語。親しい間柄で用いる。武道家や応援団の掛け声風な挨拶語。おす。 【オッスの語源・由来】 オッスは、戦前、京都にあった武道専門学校の生徒の間から生まれた言葉で、「おはようございます」の略。 「おはようございます」が「おはよーっす」となり、「おわーす」「おす」と変化していった。 その「おす」に、武道の精神である「自我を抑え我慢する」という意味の「押して忍ぶ」が当てられ、漢字では「押忍」と表記されるようになった。 挨拶として用いられる「オッス」は「おはようございます」が略されたものだが、応援団などが掛け声風に用いる「オッス」は、当字「押忍」の意味からと考えられている。 なお、いかりや長介が『8時だョ!全員集合』で客席に向かって言う「オイッスー」は、「オッス」が更に変化した言葉である。 グッドバイ - 語源由来辞典 【意味】 グッドバイとは、さようなら。グッバイ。 【グッドバイの語源・由来】 英語「good-bye(good-by)」からの外来語。 「good-bye」を古くは「Godbwye」といい、「God be with ye」の短縮形。 「God be with ye」は、「ye」が古い二人称代名詞「you」で、「神が汝と共にありますように」「神のご加護がありますように」という意味である。 「God」を直接口にするのを遠慮する風潮があったことと、「good morning」や「good night」など他の挨拶の言葉に引かれたことで、17世紀から「God」が「good」に変わり、18世紀に入り現在の形になった。 日本では明治中期から用いられるようになった。 あばよ - 語源由来辞典 【意味】 あばよとは、別れの挨拶の言葉で、「さようなら」よりくだけた言い方。 【あばよの語源・由来】 あばよの語源には、「あばあば」という説もあるが、「あばあば」はあばよの幼児語として使われていただけである。 語源としては、「さらばよ」の略、「また逢はばや(またあはばや)」の転、「ああ、あれは」という感動を示す語「あは」に助詞の「よ」がついたものなど、諸説ある。 最も注目されている語源は、「按配よう(あんばいよう)」の略語という説である。 「按配(あんばい)」は「体調」の意味で近世から使われており、あばよも近世から使われている言葉であるため、意味と語形の両面からみて、この説が妥当とされている。 すみません - 語源由来辞典 【意味】 すみませんとは、相手へ謝罪・感謝・依頼の気持ちを込めて言う言葉。すいません。 【すみませんの語源・由来】 すみませんは、動詞「済む」に打ち消しの助動詞「ぬ」がついた「すまぬ」の丁寧語「すみませぬ」が元の形で、打ち消し「ぬ」を「ない」に替えた形が「すまない」である。 「済む」は「澄む」と同源で、澄むの「濁りや混じりけがなくなる」といった意味から、済むは「仕事が済む」など「終了する」の意味で用いられ、「気持ちがおさまる」「気持ちがはれる」といった意味も表す。 「それでは私の気が済みません(すみません)」といった用法は、「気持ちがおさまる」の打ち消しで、「気持ちがおさまりません」「気持ちがはれません」となる。 相手への謝罪に用いる「すみません」も、相手に失礼なことをしてまい、このままでは自分の心が澄みきらないことを表す。 感謝の意を表す「すみません」は、「何のお返しも出来ずすみません」の意味からか、「心が澄みきらない」の意味から離れ、謝罪を表すようになってからの表現である。 「すみませんが○○してください」「ちょっとすみません」など、依頼や呼びかけの際に用いる「すみません」は、軽い謝罪の意味からと考えられる。 「すいません」は「すみません」が変化した形で、関西の「すんません」「すんまへん」なども同じである。 ご馳走・ごちそうさま - 語源由来辞典 【意味】 ご馳走とは、贅沢な食事。食事をもてなすこと。 ごちそうさまとは、食後の挨拶。御馳走になったことに対する感謝の言葉。 【ご馳走・ごちそうさまの語源・由来】 ご馳走の「馳走」は、本来、「走り回ること」「奔走すること」を意味する。 昔は客の食事を用意するために馬を走らせ、食材を集めたことから「馳走」が用いられ、さらに走り回って用意するところから、もてなしの意味が含まれるようになった。 感謝の意味で「御(ご)」と「様(さま)」が付いた「御馳走様(ごちそうさま)」は、江戸時代後半から、食後の挨拶語として使われるようになった。 いってらっしゃいの語源 「行っていらっしゃいませ」の省略で、「行っていらっしゃる」の命令のかたちですね。 「行ってこい」の尊敬語ということになると思います。 たとえば 「気をつけて行っていらっしゃい(ませ)」 これをふつうのかたちに戻すと 「気をつけて行ってこい 「行ってらっしゃいませ(まし)」あるいは、「行っていらっしゃいませ(まし)」が丁寧語になりますが、「行ってらっしゃい」でも尊敬語になっています。 もとの形は「行っていらっしゃい」で、命令表現でもありながら、同時に尊敬後でもあります。 「いらっしゃい」の語源は、「入らせらる」という言葉で、これは「入る・行く・来る・居る」の尊敬語でした。 それが一語に変化し、「行く・来る・居る」専用の尊敬語となったのが「いらっしゃる」で、これに丁寧語の助動詞「ます」の命令形「ませ」がついて活用した形が、「いらっしゃりませ」でした。 その後イ音便化して「いらっしゃいませ」となり、「ませ」を省略したものが「いらっしゃい」になります。 したがって、「いらっしゃい」に既に尊敬の意味を持つため、「行ってらっしゃい」も同時に尊敬語となります。必要に応じてさらに丁寧にするには、「ませ(まし)」を再度加えます。 蛇足ですが、「行ってらっしゃい」は「お気をつけて行っていらっしゃってください」という意味で、道中の安全を祈願する意味も込められています。 ◆Bee-chan 2011年01月11日 日本語の会話の中には、本来佛教語であったものが沢山あります。 でも、得てして本来の意味を曲解しているものもあれば、ま反対の意味で使っているものもあります。 言葉の文化ということで、有耶無耶にしてはいけないのかもしれません。(有耶無耶も佛語です。)

「ちびくろさんぼ」の復刊について

「ちびくろさんぼ」の復刊について http://www.asahi-net.or.jp/~wz9k-ybn/ganbare.html 「差別表現」という言葉を見つけて検索してみたら 目に余る差別的表現 http://www.asahi-net.or.jp/~wz9k-ybn/trademark/trademarks2.htm に行き当たりリンクを辿り 黒人差別をなくすページ http://www.asahi-net.or.jp/~wz9k-ybn/ に行き当たり WHAT'S NEW http://www.asahi-net.or.jp/~wz9k-ybn/weblink.html#nakusukai 黒人差別を無くそうと日本人が立ち上がり運動している。 「サンボ」は明らかに、スペイン語のzamboから来ており、ラテンアメリカでのいわゆる先住民と黒人との混血で生まれた人々を指す。この言葉自体、新大陸の歴史において白人優位主義から見た「カースト」的社会関係のなかで、差別的に位置づけられているのだが、加えて、zamboという言葉(英語ではsambo)がおそらくは、ギリシア語のskambosを語源にしているらしいということも付け加えておかなければならない。このskambosとは、要するに差別的に「片輪」とか「不具」とかを意味しており、それゆえにzamboは非ヨーロッパ人を欠如態として表現する(としてしか表現できない)ヨーロッパ中心主義の伝統のなかにしっかりと捕らえられているのである。 『ちびくろサンボ』(英: The Story of Little Black Sambo)は、世界的に広く読まれている童話、絵本。もとは軍医であった夫とインドに滞在していたスコットランド人、ヘレン・バンナーマン(ヘレン・バナマン)が、自分の子供たちのために書いた手作りの絵本であった。のちに公刊され、多くの海賊版(後述)によって広く流布した。 手作りの本として誕生した『ちびくろサンボ』は、知人を通してイギリスの出版社に紹介され、1899年に英国のグラント・リチャーズ社より初版が刊行された。子供の手に収まる小さな絵本で、文も絵もヘレン・バンナーマン自身によるものである。 著作権の混乱から、アメリカではいわゆる海賊版が横行した。改変された箇所も多く、特に絵は原作と違うものが使われることが多かった。その多くは主人公をインドの少年から、アメリカに住むアフリカ系黒人の少年に置き換えたものであった。このことが、後に人種差別問題と深く関わってくることになる。 またアメリカ版では、かなりの部分で設定の置き換えが行われた。一例をあげれば、主人公の少年が迷い込むジャングルは竹やぶから森に替えられ、またある挿絵では、少年の母親はアフリカ系婦人のふくよかな特徴を与えられた。しかしトラが登場する箇所に関しては、当時のアメリカの海賊版編集者の多くが実物を見たことがなく、イメージできなかったためか、改変を免れている。こうして一部の海賊版では、アフリカを想起させる背景描写と、インドを想起させるトラの混在が行われるようになった。 日本で広く知られるようになった岩波版『ちびくろ・さんぼ』(1953(昭和28年)刊、120万部以上が売れたとされる)も、こうしたアメリカ版の1つであるマクミラン社版(1927刊)に使われていたフランク・ドビアスの絵を用いている(ただし、岩波版では絵のレイアウトなどが、翻訳者である光吉夏弥によって改変されている)。日本でもアメリカ同様にこの絵本には著作権がないとみなされていたため、海賊版が横行し、国内の主要な出版社ほとんどすべてから70種類を越えるいろいろな『ちびくろサンボ』が出版された。日本で出版されたものの多くは、主人公の名前を「サンボ」とカタカナ書きし、「ちびくろ」を形容詞的に用いていたため、『ちびくろサンボ』という表記が最も一般的なものとなり、これらのいろいろな異本を総称する場合も『ちびくろサンボ』とするのが普通である(そこで、この項目でもこの表記を見出しとして用いている)。このように多くの異本が出回った中で、岩波版は最初に広く普及したものであったことから、オリジナルと違う絵が使われていたにもかかわらず、日本ではいわゆる定本と見なされてきた。 日本では1988年(昭和63年)に後述する一斉絶版問題が起こり、岩波版を含め、事実上すべての出版社のものが自主的に絶版となり、書店から回収された。一部では、「発売禁止」措置が取られたかのように誤解されているが、出版社による自主的な市場からの撤退であり、発売禁止になったわけではない。日本では言論出版の自由が憲法に明記されており、裁判所の事前抑制として出版差し止めを行うことが理論的には可能なこと(それとて、差し止めが認容されることはまずないが)を除いて、民間、政府が「発売禁止」を行うことはできない。 一斉絶版問題以前には、ヘレン・バンナーマンによる原作そのままを日本語訳したものは出版されないままであった。原作そのものの日本語版が出版されたのは、1999年の『ちびくろさんぼのおはなし』(灘本昌久訳・径書房刊)が初めてである。同じ径書房から英語の完全復刻版も出版されている。 ウィキペディアより -------------------------------------------------------------------------------- 黒人差別をなくす会(こくじんさべつをなくすかい)とは、1988年(昭和63年)に発足した、日本の私設団体である。 大阪府堺市を拠点に活動しており、子供向け絵本 『ちびくろサンボ』を絶版に追い込んだことなどで知られる http://urx.nu/blr4 大阪府堺市在住の有田利二の息子、有田太(当時小学校4年生)の発案により、日本における差別撤廃の一環として、有田利二の妻・有田喜美子を会長に1988年(昭和63年)8月11日に発足した。当初の構成員はこの親子3人のみであったが、その後会員数を増やし、1992年(平成4年)2月時点の会員数は135人、1995年(平成7年)12月時点の会員数は225人であった。 現在、目立った活動は行っていない模様。 確かに今の時代はそう言うこともあるけれども取り上げていくとキリが無い様にも思える。 「ちびくろさんぼ」や「ピノキオ」 は解除された筈だけど。 「ピノキオ」 回収騒動 1976年11月、名古屋在住の人物が「オールカラー版 世界の童話」(小学館)を自分の子供に読み聞かせていたところ、作中の「びっこのキツネ」「めくらのネコ」という箇所を指摘し「五体満足で利口な主人公を『期待される子供像』として描いている反面、他の障害を持つキャラクターを社会の落伍者として描いており、差別を拡大助長させる童話であり看過できない」と出版社に抗議した。小学館側はこの抗議を検討し、自社から出版していた5種のピノキオ本のうち4種を「差別的表現があった」と認め回収した。「最新版の『国際版少年少女世界文学全集』については、めくら、びっこ、などの表現は無いので回収しない」旨を告発者に謹告した。しかし告発者は「障害者差別を許さない―まず『ピノキオ』を洗う会」を結成し、小学館に対し 【一】国際版の回収 【二】回収方法に対する具体策の提示 【三】自己批判の文章の提出 【四】自社全出版物の点検と報告 を要求した。しかし小学館側は国際版の回収には応じられないとして、告発者と対立した。次に告発者はマスメディアに向けてアピールを行い、社会問題へと発展する。さらに図書館を相手取り「差別図書を読ませるな」と啓蒙行動を起こし、当時、日本で出版されていた11社38種のピノキオ本の回収を要求した。12月、図書館問題研究会が検討を行い「図書館の自由」を基に ●回収措置は言論に対する封殺行為であり許せない。 ●本作は、弱点を克服し成長する子供の可能性を描いた作品であり、「めくら」「びっこ」という言葉で障害者差別に結びつけるのは拡大解釈で作品の意味を汲んでない。 ●回収を行えば障害者差別が無くなる道理も無く、「言葉だけで何かを変えよう」という幻想に繋がりかねない。 ●個々の企業に対する脅しが差別の撤廃にはならないし、体制も変わらない。 とする「反論声明」を提出した。強引な告発に対して批判があったが、小学館側の回収についても「安易」だとの批判があった。この騒動に対し「ピノキオ退治は世界の笑いもの」と揶揄する声もあった。 これは完全なる言葉狩りである。 どこまでもこういうエコとは続くのかな。

●落語

●落語 http://www.youtube.com/watch?v=OcNM44DMq1Y&feature=related http://www.youtube.com/watch?v=_SQR09d362k&feature=related http://www.youtube.com/watch?v=b58OvNXLIuM&feature=related 落語は元々仏教の発展とともに形付けられて現代にいたっている。 お寺へ檀徒を集めるためにお説教をした。 これが形付けられていき落語に繋がる。 お百姓や町屋の人たちでもそんなに学のある人は少ない。 そこで面白可笑しく仏教を分かり易く説明しないと飽いてしまう。 昔はいろんな事を考える人がいた。 今でも面白可笑しくお説教する人は沢山の人を集めている。 落語(らくご)は、近世期の日本において成立し、現在まで伝承されている伝統的な話芸の一種である。「落し話(おとしばなし)」、略して「はなし」とも言う。都市に人口が集積することによって芸能として成立した。成立当時はさまざまな人が演じたが、現在は通常、それを職業とする人が演じる。衣装や道具、音曲に頼ることは比較的少なく、身振りと語りのみで物語を進めてゆく独特の演芸であり、高度な技芸を要する伝統芸能でもある。 本来「落語」とは落語家が行う演目(ネタ)のなかでも滑稽を中心とし、落ち(サゲ)を持つ「落とし噺」(おとしばなし)のことを指したが、現在では人情噺・芝居噺をも含めた総称として用いられる。 落語は寄席(よせ)と呼ばれる常設館や一般のホールで演じられることが多いが、近年は若手による小さなライブもある。落語家の舞台のことを「高座(こうざ)」と呼ぶ。 江戸落語と上方落語には小道具や慣習に違いがある。 ウィキペディアより http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CD%EE%B8%EC 概要 日本に伝わる話芸の一つ。何人かの登場人物や状況描写などすべてを一人の話者が行う。二人(若しくはそれ以上)の掛け合いで物語が進行することが多い。話者は高座と呼ばれる少し高い位置に座す。そして、聴衆もしくは観客に向かい語り、しぐさや声音を上手に使いながら話を聞かせ、笑いや涙を誘う演芸(パフォーミングアート)である。 (頑張って自分のことばで書きました。by nobody) 歴史 笑い話を初めて職能としたのは室町末期の戦国大名が抱えた御伽衆といわれる。それが江戸時代になり、安楽庵策伝(1642年没)らの御伽衆が活躍するようになり、所司代の板倉重宗の招きで口演した小咄をまとめて『醒睡笑』という書物として出版し、ヒットした。その後、落語は上方発展して行くが、時代はとんで寛政十(1789)年、江戸に三笑亭可楽、三遊亭円生、上方に桂文治が登場し、定席が設けられるようになって落語は一気に広まった。 明治に入ると、東京では三遊亭円朝を中心とする三遊派と柳亭燕枝を中心とする柳派が競い、百花繚乱の様相を呈する。さらに明治の終わりから大正にかけては三代目柳家小さんが出て、東京の落語を支えた。他方の上方でも明治二、三十年代に全盛期を迎えるが、その全盛期を支えた二代目桂文枝らがなくなると、漫才や音曲、奇術を中心とした色物本位の興行が人気を博すようになり、そして大正十五年には花月亭の吉本泰三が独占体制を築いて、上方落語は漫才の添え物の地位に堕ちて行った。 昭和になると、東京では小会派が乱立するが、いろいろあって、昭和8年に古典派の「落語協会」と新作派の「落語芸術協会」に統合され、現在の体制が形作られる。戦中には自ら禁演落語などを選定して、力を弱めるが、戦後に復活、古今亭志ん生、三遊亭円生、三遊亭金馬、林家正蔵、柳家小さんなどの古典派が活躍して昭和三、四十年代にブームを築いた。上方では、まず二代目桂春団治、続いて五代目笑福亭松鶴が昭和の落語界を一手に支え、何とか火を絶やさずに戦後へとつなぎ、昭和三十二年には「上方落語協会」が結成され、上方落語四天王と呼ばれる、笑福亭松鶴、桂米朝、桂春団治、桂文枝の活躍で上方落語は息を吹き返した。

世界最強の天皇陛下

世界最強の天皇陛下 http://www.youtube.com/watch?v=lsOFxj9To-o&feature=player_embedded 陛下は下にも記した様に超激務である。 並の人間には勤まらない程のスケジュールをこなされる。 前にも書いたように正月などは 正月祭祀【四方拝】を行い 参賀や外国の公人や国会議員や皇室の関係者などに 五回会われる。 むろん禊をしての祭祀である。 すべてお一人でされる。 禊とは水垢離のことである。 ミズをかぶりカラダを清める。 昔の武士などは何か事に挑むときは 気を引き締める意味でもしていた。 女でもした人はいる。 日本とはこういう国である。 1933年〈昭和8年〉12月23日生まれで78歳になられる。 この年で毎年こういう事をされる。 年間何回もことある毎に祭祀を行う。 一般人でこんなに体力のある人はいない。 自分の身を義生にしてまでも 国民や世界人類の為に色々されている。 だから何処の源守よりも偉い。 偉いという表現は少しおかしいけれども。 韓国ではむろん朝鮮学校でも 陛下の抹消を教育し企んでいる。 マスゴミは以前より報道する回数は激減している。 何処の国にこのような人物がいるだろうか。 学校では全然教えないこと。 寂しい限りだ。 【天皇陛下】 昭和天皇大喪 ダイジェスト版 http://www.youtube.com/watch?v=s-lrBS9mLIs 天皇陛下、中国国家主席に対して堂々たる御振舞い https://www.youtube.com/watch?v=x5SKXod-_h0 胡錦濤に環境破壊をおたしなめになった陛下 http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h20/wing1445.html 天皇陛下は超激務29 名前: 錐(埼玉県)[] 投稿日:2009/12/11(金) 22:53:44.73 ID:Mv9b1BAj 【天皇陛下は超激務】 閣議決定された書類への署名や押印 2万2377件 外国の国王や大統領との面会 351回 外国の首相などとの面会 1068回 着任した外国大使から書状を受け取る儀式 597回 首相や最高裁長官の親任式 24回 大臣や大使など認証官の任命式 355回 大綬章など勲章の親授式 40回 文化勲章の親授式 20回 様々な功績者との面会 1494回 赴任する大使との面会 476回 帰国した大使から話を聞くお茶会 153回 以上、皇居にて 4578回(署名や押印を除く) 記念式典などの出席 356回 地方への訪問 246回 福祉施設などの訪問 172回 被災地へのお見舞いなど 15回 外国訪問 14回 以上、皇居外にて これ以外に、神道の祭祀を日々こなしている。 118 名前: レーザーポインター(大分県)[sage] 投稿日:2009/12/11(金) 23:00:44.80 ID:mCW3Ra7A >>29 これどれくらいの期間での事? 141 名前: 錐(埼玉県)[] 投稿日:2009/12/11(金) 23:02:31.25 ID:Mv9b1BAj >>118 陛下就任以来なので、19年と数ヶ月。 神道の祭祀関連が最も過酷だとされるが、見えない部分なので省略した。 http://2chcopipe.com/archives/51348389.html 天皇(てんのう)とは、世襲により継承される、日本国の象徴及び日本国民統合の象徴であり(日本国憲法第1条、第2条)、歴史的には、古代から世襲により受け継がれた日本の君主である。今上天皇(現在の天皇)は第125代[1]天皇である明仁(在位:昭和64年(1989年)1月7日 - )。 本項目では、初代神武天皇以降の歴代天皇の地位および個人に関する事柄も扱う。 「天皇」の由来 [編集] 「天皇」という称号の由来には、複数の説がある。 古代中国で北極星を意味し道教にも取り入れられた「天皇大帝」(てんおうだいてい)あるいは「扶桑大帝東皇父」(ふそうたいていとうこうふ)から採ったという説。 唐の高宗は皇帝ではなく道教由来の「天皇」と称したことがあり、これが日本に移入されたという説。 5世紀頃には対外的に「可畏天王」、「貴國天王」あるいは単に「天王」等と称していたものが推古朝または天武朝に「天皇」とされた等の説。 はじめて採用したのは推古天皇という説(戦前の津田左右吉の説)も根強い。しかし、7世紀後半の天武天皇の時代、すなわち前述の唐の高宗皇帝の用例の直後とするのが、平成10年(1998年)の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡発見以後の有力説である。 称号の歴史 [編集] 近年の研究では、「天皇」号が成立したのは天武天皇の時代(7世紀後半)以降との説が有力である。伝統的に「てんおう」と訓じられていた。明治期、連声により「てんのう」に変化したとされる。字音仮名遣では「てんわう」と表記する。 日本国内での天皇の称号の変遷について、以下に説明する。 古代 [編集] 天皇という称号が生じる以前、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内では大王(治天下大王)あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称された[2]。古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した[3]。なお、「すめらみこと」の名称は古代シュメールからのものだという説もある[4]。 律令制での称号 [編集] 天皇という呼称は律令(「儀制令」)に規定があり、養老令天子条において、祭祀においては「天子」、詔書においては「天皇」、華夷においては(対外的には)「皇帝」、上表(臣下が天皇に文書を奉ること)においては「陛下」、譲位した後は「太上天皇(だいじょうてんのう)」、外出時には「乗輿」、行幸時には「車駕」という7つの呼び方が定められているが、これらはあくまで書記(表記)に用いられるもので、どう書いてあっても読みは風俗(当時の習慣)に従って「すめみまのみこと」や「すめらみこと」等と称するとある(特に祭祀における「天子」は「すめみまのみこと」と読んだ)。 死没は崩御といい、在位中の天皇は今上天皇(きんじょうてんのう)と呼ばれ、崩御の後、追号が定められるまでの間は大行天皇(たいこうてんのう)と呼ばれる。配偶者は「皇后」。一人称は「朕」。臣下からは「至尊」とも称された。 なお、奈良時代、天平宝字6年(762年) - 8年(764年)に神武天皇から持統天皇までの41代、及び元明天皇・元正天皇の漢風諡号である天皇号が淡海三船によって一括撰進された事が『続日本紀』に記述されているが、これは諡号(一人一人の名前)であって「天皇」という称号とは直接関係ない。 中世 [編集] 平安時代以降、江戸時代までは、みかど(御門、帝)、きんり(禁裏)、だいり(内裏)、きんちゅう(禁中)などさまざまに呼ばれた。「みかど」とは本来御所の御門のことであり、禁裏・禁中・内裏は御所そのものを指す言葉である。これらは天皇を直接名指すのをはばかった婉曲表現である。陛下(階段の下にいる取り次ぎの方まで申し上げます)も同様である。 また、 主上(おかみ、しゅじょう)という言い方も使われた。天朝(てんちょう)は天皇王朝を指す言葉だが、転じて朝廷、または日本国そのもの、もしくはまれに天皇をいう場合にも使う。すめらみこと、すめろぎ、すべらきなどとも訓まれ、これらは雅語として残っていた。また「皇后」は「中宮」ともいうようになった。 今上天皇は当今の帝(とうぎんのみかど)などとも呼ばれ、譲位した太上天皇は上皇と略称され、仙洞や院などともいった。出家すると太上法皇(略称:法皇)とも呼ばれた。光格天皇が仁孝天皇に譲位して以後は事実上、明治以降は制度上存在していない。これは現旧の皇室典範が退位に関する規定を設けず、天皇の崩御(死去)によって皇嗣が即位すると定めたためである。 明治以降 [編集] 大日本帝国憲法3頁目。明治天皇の諱、睦仁の署名(御名)と共に、「天皇御璽」という御璽が捺印されている(御名御璽)。大日本帝国憲法(明治憲法)において、初めて天皇の呼称は「天皇」に統一された。ただし、外交文書などではその後も「日本国皇帝」が多く用いられ、日本国内向けの公文書類でも同様の表記が何点か確認されている(用例については別項「日本国皇帝」を参照)。 そのため、完全に「天皇」で統一されていたのではないようである(庶民からはまだ天子様と呼ばれる事もあった)。陸軍海軍(諸外国においても当時独立した空軍があったのはドイツなど極一部に限られる)の統帥権を有することから「大元帥陛下」とも言われた。口語ではお上、主上(おかみ、しゅじょう)、聖上(おかみ、せいじょう)、当今(とうぎん)、畏き辺り(かしこきあたり)、上御一人(かみごいちにん)、などの婉曲表現も用いられた。 現在 [編集] なお、一般的に各種報道等において、天皇の敬称は皇室典範に規定されている「陛下」が用いられ、「天皇陛下」と呼ばれる。宮内庁などの公文書では「天皇陛下」のほかに、他の天皇との混乱を防ぐため「今上陛下」と言う呼称も用いる。会話における二人称では、前後関係から天皇であるか皇后であるかが明らかな場合に単に陛下と呼ぶことが多い。三人称として、敬称をつけずに「今の天皇」「現在の天皇」「今上天皇」と呼ばれることもあるが、近年では「聖上」などの表現は廃れ、「お上」はどちらかというと政府を指す場合が多くなったため、婉曲表現で呼ぶことは稀になっているが、それでもそのような表現が使用されることもある。 一部の出版物においては、平成22年(2010年)現在の天皇に対して、「平成天皇」という称号を用いる事例が散見される。しかし、明治天皇・大正天皇・昭和天皇の3代の「○○(元号)天皇」という呼称は、その天皇の崩御後に贈られる諡号であり、現在の天皇に対する呼称としては誤りである。また諡号が元号と同一であるのは先の3代の天皇のみの事情であり、今上天皇(明仁)の崩御後に平成天皇という諡号が贈られると確定している訳ではない。 憲法上の正式称号は単に「天皇」であるが、詔書や勲記、褒状などの文書においては「日本国天皇」の称号が用いられることもある[5]。 諸言語における呼称 [編集] 英語における呼称 [編集] 天皇は、英語においては、通常、"(the) Emperor" と呼ばれる。今日、国際的に承認されている国家の元首(ないしそれに類似する地位)にある者でEmperor号を対外的に使用するのは、天皇のみである。第三者としての天皇に言及する際に用いられる「陛下」に相当する尊称は "His Majesty" または "His Imperial Majesty" であり、また略して "H.M." または "H.I.M." と記す場合もある。天皇は男性であるため、"Her Majesty" は原則として「皇后」を意味するが、略号は天皇と同じく "H.M." である。 天皇皇后両陛下という場合は、"Their [Imperial] Majesties Emperor and Empress" となる。天皇に対する呼びかけは一般的に "Your [Imperial] Majesty" である。なお、天皇・皇后以外の皇族への尊称である殿下は、"His/Her Imperial Highness" であるが、この場合は "Imperial" は省略できない。 歴史学などの分野では日本固有の存在としての天皇を強調する意味でTennoやMikadoと呼ぶこともままある。前近代においては、政軍両面の最高指導者であった征夷大将軍の方が西洋のEmperorの概念に近いのではないかという議論もある。この議論の枠組みでは、天皇は欧州におけるローマ教皇に相当する宗教的権威者と考えられる。なお、江戸時代の日本においても、天皇は神道の最高祭司者兼京都の地方領主に過ぎず、征夷大将軍こそが日本の皇帝であるとする解釈が一部の儒学者によって唱えられていた。 天皇の諡号については、「○○天皇」を "Emperor ○○" のように訳すが、明治天皇以降については "○○ Emperor" と訳すべきとの議論もある。また、昭和天皇以降については、追号ではなく諱を用いた呼び方(“Emperor Hirohito”(裕仁帝)や“Emperor Akihito”(明仁帝))が用いられることが多い。 朝鮮半島における天皇の呼称 [編集] 「日朝関係史」、「皇帝」、および「日本国王」も参照 朝鮮半島の歴代王朝は長らく中国歴代王朝の冊封国として存在しており、華夷思想では「天子」・「皇帝」とは世界を治める唯一の者の称号であった。そのため日本の天皇が「皇」や「帝」、「天子」などを称することを認めず、「倭国王」「日本国王」等の称号で呼んでいた。 近世に入って日清戦争に勝利した大日本帝国の清への要求により、朝鮮は清の冊封体制から離脱し大韓帝国となると華夷秩序の関係が崩れ、朝鮮国王は自らを「大韓帝国皇帝」と称することで、初めて日本の天皇を皇帝と称した。その後の大日本帝国統治下では天皇の称号が用いられた。 朝鮮半島独立後は、英語で天皇を意味する "Emperor" の訳語を踏襲せず、「日本国王」(「日王」)という称号を用いてこれに倣い「皇室」を「王室」、「皇太子」を「王世子」と呼んだ。その後「天皇」と言う称号も一般的に使用されるようになり、「皇室/王室」、「皇太子/王世子」に関しては同等に用いていた。 大統領在任当時、金大中は諸国の慣例に従って「天皇」という称号を用いる様にマスコミ等に働きかけたが、マスコミはそれに従う者と従わない者に二分した。韓国政府としては1998年から「天皇」の称号を使用するようになったが[6]、次の大統領盧武鉉は天皇という称号が世界的かどうか確認していないため「天皇」と「日王」どちらを用いるべきか準備ができていないと従来の方針を転換する姿勢を示した。大統領李明博は「天皇」の称号を用いている[6]。しかし、マスメディアを始めとする民間では「日王」を使用している[6][7]。民間における「日王」の呼称の使用については21世紀初頭頃に「天皇」や「日皇」に改めるべきであるとの議論もなされたが、「日王」に統一することとなり現在に至っている[6]。 現在の大統領、李明博は2009年9月15日にインタビューを受けた際、「日本天皇」という表現を繰り返し用いており、このことが韓国内でニュースとなった[8]。ニュースでは、漢字使用国家である中国と台湾も「天皇」を使っていることを伝えた。 中国における天皇の呼称 [編集] 古代から近代にかけて、中国は中華思想によって、自国の皇帝と同格の存在を認めようとしなかった。そのため、長らく天皇ではなく、日本国王の呼称を用いた。 現代の中国人の間では、天皇、日本国王、日王、日皇などの呼称が混在している。中国政府などの公的機関では、天皇陛下、日本天皇陛下などの呼称が基本となっている[9]。中国語版ウィキペディアでの天皇の記事名は、「日本天皇」となっている。 天皇の配偶者の称号と通称 [編集] 日本では、一般に近現代までは貴人が正室以外の側室をもつことの方が当然と考えられていた。したがって天皇には正室以外にも複数の側室がいたほか、正室すら二名をもつことができた(皇后と中宮)。天皇の配偶者は、当初は出自に応じてそれぞれの称号が決まっていたが、後代になると寵愛の度合いによってこれが曖昧になり、さらに正規の称号を名乗る配偶者の地位自体が自然消滅すると、通称がこれにとって替わるようになることが増えた。 最初に側室をもつことを意図的に否定したのは大正天皇で、これ以降皇室でも一夫一妻制が定着した。 大宝律令制定の前 大后(おおきさき) 后 (きさき) 大宝律令の制定から平安時代のはじめごろまで 皇后(おおきさき/おほきさい/こうごう) 妃 (ひ) 夫人(ふじん) 嬪 (ひん) 平安時代の初めから南北朝時代ごろまで 皇后 中宮(ちゅうぐう) 女御(にょうご) 更衣(こうい) 南北朝時代から江戸時代はじめごろまで 女御 上臈(じょうろう) 典侍(てんじ) 江戸時代はじめから明治維新まで 中宮 女御 典侍 明治天皇の時代 皇后 典侍 大正天皇以降 皇后 なお、史上10代8名いた女帝には、いずれも皇位にある間は正式な配偶者がいなかったこともあり、日本では独自に皇配の称号を定めたり通称が生じたりすることはなかった。 皇室の姓氏 [編集] 天皇や皇族は氏姓および名字を持たないとされる。宮家の当主が有する「○○宮」の称号は、宮家の当主個人の称号(宮号)とされており、苗字には当たらない。古代日本において、氏姓、すなわちウジ名とカバネは天皇が臣下へ賜与するものと位置づけられていた(→氏姓制度)。天皇は、氏姓を与える超越的な地位にあり、天皇に氏姓を与える上位の存在がなかったため、天皇は氏姓を持たなかったのである。このことは、東アジア世界において他に類を見ない非常に独特なものである。このことは、古代より現在に至るまで、王朝が変わったことはないとの建前が採られていたことによる。 しかし、ウジ・カバネが制度化される以前の大王(天皇の前身)は、姓を有していたとする説もある。5世紀の倭の五王が、倭讃、倭済などと称したことが『宋書』倭国伝ないし文帝紀などに見え、当時の倭国王が「倭」姓を称していたことがわかる。このことから、宋との冊封関係を結ぶ上で、ヤマト王権の王が姓を称する必要があったのだと考えられている[10][11]。 また、『隋書』倭国伝に倭国王の姓を「阿毎」(あま、あめ)とする記述があり、7世紀初頭まで大王家が姓を有していたとする説もあるが、中国風の一字姓でないことから「阿毎」は姓でないとする説もある[10]。大王家の「倭」姓は、中国の冊封体制から離脱した5世紀末ないし、氏姓制度の形成が進んだ5世紀末から6世紀前半までの間に放棄されたとする説も提出されている[10]。 吉田孝は、倭国が5世紀末に中国の冊封体制から離脱し、7世紀初頭の推古朝でも倭国王に冊封されなかったことが、大王=天皇が姓を持たず「姓」制度を超越し続けたことにつながったとしている[10]。 このホームページは,天皇皇后両陛下・皇族方の宮殿・御所などでのご公務や国内各地へのお出まし,外国とのご交際など皇室のさまざまなご活動を中心に紹介しています。 http://www.kunaicho.go.jp/ 天皇の価値 http://www.infosnow.ne.jp/~sevas/adult/japan/japan2.html 2011年 01月14日 11:48 1: aki 普通の人ならとっくにリタイヤし温泉旅行したり孫と遊んだりと 悠々自適の生活を送っているお年なのに。。。 病気もなされているお体でいまだ国民の為に。。。 本当に頭が下がります。。。 天皇陛下と黄色いバラ http://www.youtube.com/watch?v=ONJp1eR-ZUI&feature=player_embedded 2011年 01月14日 11:59 2: ひつじ 本当に有り難いことです。 今上陛下のおかげで、私たちは日々を暮らしていかれます。 国民の為にと、毎日殺人的なスケジュールをこなされて、本当に感謝の言葉しか見つかりません。 陛下には、どうかお体をお大切に、と申し上げたいです。 ご高齢でもありますし、もう少し東宮様がお手伝いくだされば…と思います。 小中学校で、天皇陛下についての正しい教育を行う事が、非常に重要だと思います。 今の日教組がはびこっている学校制度では、絶対に無理というのが、情けないです。 朝鮮学校が堂々と金日成親子を崇めているのが、少しうらやましいです。 小~大学まで、日教組バリバリの反日教育を受けた私ですが、震災の時、避難所に来てくださった両陛下のお姿をモニター越しに拝見して、有り難さに涙が止まらなかったことを思い出します。 いくら間違った事を吹き込まれようとも、ウソを一万回重ねようとも、たったひとつのまことにはかなわないのです。 それを痛いほど理解した瞬間でした。 .2011年 01月14日 12:05 3: らんこ△ツイコミュ少尉△ 「天皇が高齢だから」という理由で祭事を減らそうとしている動きも見逃せません。 減らすのであればご公務が先。 敵は外部のものだけではありません。 .2011年 01月14日 12:28 4: kensogol こんにちは 拝見させて頂きました。 ありがとうございます。 天皇の価値は分かり易いですね。 天皇陛下(emperor)≧ローマ法王(Pope)>英国女王(Queen)> アメリカ大統領etc(president)>日本国首相etc(premier) なるほどです。 この価値の裏付けとして・・・ 神武天皇から今上天皇に至る125代の万世一系男系男子による皇位継承を守ってきた皇室の歴史の長さと重みに尽きると考えます。 世界に類を見ないこの歴史・伝統・文化に集約されるもの。 その凄さ(権威)に世界はひれ伏す。 そう思えてなりません。 支那、朝鮮が本気で日本に手を出せないのはある意味この権威(天皇の存在)があるからこそとも言えるのではないか・・・。ふと思ったりします。 しかし、安易にも女系天皇容認とする輩が多いこと。 実に嘆かわしい。 我々日本国民が絶対に譲れない問題、避けては通れない問題であることは明明白白。 万世一系男系男子による皇位継承を守る! これは理屈ではない。 日本人の遺伝子に刻み込まれた防衛本能がそう導くのである。 先人の方々が叡智を結集し守ってきたように・・・。 .2011年 01月14日 12:45 5: 海行かば 志葉楽さんのこの日記 ご苦労様です。 ありがとう御座います。 この馬鹿政党・売国政党・売国政治家・反日日本人どもが 天皇陛下様に対し 失礼な事ばかり している 当たり前の如く。 天皇陛下様 ほど  この国を愛し 日本国民を 愛し 伝統文化を愛し 道徳を愛し 礼儀作法を 愛し ・  世界平和を愛し願い なされておられる 日々、全身全霊にて ご公務 なされておられる。 不平不満 も 申されずし。 ただ、ただ  日本国の為・日本人たちの為・世界の平和の為に ★ 馬鹿政党・売国政党・売国政治家・反日日本人どもの日頃の行い 天と地の差 足元にも およばず。 敵は外部のものだけではありません。 そのとおり 内部にも 多く居ると言う 工作員 天皇制廃止論者どもが 。 激務を与え天皇制を廃止させる 工作活動などがあると言う。 2011年 01月14日 13:39 6: よっし 志葉楽さん素晴らしい動画を紹介していただきありがとうございます 日本に生まれた事日本人である事そして天皇陛下がいらっしゃる事 大変誇りに思える動画です もうこれ以上日本は左翼、シナ、チョンどもの好き勝手にはさせない .2011年 01月14日 13:53 7: panda はじめまして、 内部にも敵がいるというのが恐ろしいですね....。 テレビに惑わされていた今までの年月を無駄にしたと 実感しました。大切な事は中々目に見えませんね。 貴重な情報ありがとうございます!

       マッカーサー回想記

       マッカーサー回想記 昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 http://www.youtube.com/watch?v=inE1DSH0jrk&feature=player_embedded http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist4_5_6.htm ※1964年に出版されたDouglus MacArthur著Reminiscencesの中で 昭和天皇との最初の会見の様子を記したP288を和訳。 訳文は昭和39年1月25日付の朝日新聞より引用。 天皇は落ち着きがなく、 それまでの幾月かの緊張を、はっきり顔に表していた。 天皇の通訳官以外は、全部退席させた後、 私達は、長い迎賓室の端にある暖炉の前に座った。 私が、米国製のタバコを差し出すと、天皇は礼を言って受け取られた。 そのタバコの火をつけて差し上げたとき、 私は、天皇の手が震えているのに気がついた。 私は、できるだけ天皇のご気分を楽にすることにつとめたが、 天皇の感じている屈辱の苦しみが、 いかに深いものであるかが、私には、よくわかっていた。 私は、天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、 自分の立場を訴え始めるのではないか、という不安を感じた。 連合国の一部、ことにソ連と英国からは、 天皇を戦争犯罪者に含めろと言う声がかなり強くあがっていた。 現に、これらの国が提出した最初の戦犯リストには、 天皇が筆頭に記されていたのだ。 私は、そのような不公正な行動が、 いかに悲劇的な結果を招くことになるかが、よく分っていたので、 そう言った動きには強力に抵抗した。 ワシントンが英国の見解に傾きそうになった時には、 私は、もしそんな事をすれば、 少なくとも百万の将兵が必要になると警告した。 天皇が戦争犯罪者として起訴され、 おそらく絞首刑に処せられる事にでもなれば、 日本に軍政をしかねばならなくなり、 ゲリラ戦が始まる事は、まず間違いないと私は見ていた。 結局天皇の名は、リストからはずされたのだが、 こういったいきさつを、天皇は少しも知っていなかったのである。 (昭和天皇のお言葉) 「私は、国民が戦争遂行にあたって、 政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する全責任を負うものとして、 私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした。」 私は、大きい感動にゆすぶられた。 死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、 明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする。 この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした。 私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても、 日本の最上の紳士である事を感じ取ったのである。 (付記) マッカーサー元帥は、側近のフェラーズ代将に、 「私は天皇にキスしてやりたいほどだった。 あんな誠実な人間をかつて見たことがない」と語ったと言う。 (当時外務大臣であった重光葵氏が、1956年9月2日、 ニューヨークでマッカーサー元帥を尋ねたときの談話による。 他にも、「一言も助けてくれと言わない天皇に、マッカーサーも驚いた。 彼の人間常識では計算されない奥深いものを感じたのだ」 〈中山正男氏、日本秘録98項〉 「この第一回会見が済んでから、元帥に会ったところ、 陛下ほど自然そのままの純真な、善良な方を見た事がない。 実に立派なお人柄である」と言って陛下との会見を非常に喜んでいた」 〈吉田茂、回想十年〉などの記録がある。   マッカーサー元帥は、陛下がお出での時も、お帰りのときも、 玄関までは出ない予定であった。 しかし、会見後、陛下がお帰りの際には、 思わず玄関までお見送りしてしまい、 慌てて奥に引っ込んだ事が、目撃されている。 〈吉田茂、回想十年104項以降〉。 http://www.youtube.com/watch?v=3iYTW3iTces&feature=player_embedded 日本人が知らない天皇の価値と役割 http://specific-asian-flash.web.infoseek.co.jp/tennouheik... 昭和天皇の広島巡幸_1947.S22.12.7_背景に原爆ドーム .2011年 01月13日 16:443: gajyubee >1: ほろ酔い神楽 「自虐史観」反論委員会 いい動画ありがとうございました。 陛下の日本の長としての、言動、感動しました。 よくもわるくも?、日本が一丸となって、行動していた時代を、頭から否定する方々は、 最後の動画を見て、何というのでしょうか。 たまに、北朝鮮の現状と、当時の日本をなぞらえて、似ていると見る方々がいらっしゃいますが、 それは、全くの妄言であると、思いいたりました。 .2011年 01月13日 19:104: cage 敵将に 民の命を こわれたる 責の全ては 我が身で負うと 御身より 民の身憂い 盾となる 御心知りて 涙こぼるる .2011年 01月13日 22:045: 黒ゆり 歴代の天皇陛下が基本的にこのようなお考えの元にあられてきたと聞いております。 親ですね。 日本人全ての親。 国民を我が子と思いて慈しむ君の大いなる愛 .2011年 01月13日 23:096: はやぶさ 侍従長の回想より 藤田尚徳著 175ページより抜粋 陛下がマッカーサーに伝えられたといわれているお言葉 「敗戦にいたった戦争のいろいろな責任が追及されているが、責任はすべて私にある。 文武百官は、私の任命するところだから、彼らには責任が無い。 私の一身はどうなろうとかまわない。私はあなたにお委ね(ゆだね)する。 この上はどうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」 ___________________ このことで、マッカーサー、そしてアメリカ国民にも「天皇に線祖責任はなし、」という議論に 傾いていったようであります。 「米国司令部としては、天皇の協力を獲得したことによって、日本本土進駐に二十四か師団の掩蔽を受けたより有効であった」※←当時のアメリカの新聞社談。 天皇陛下を戦争責任者として死刑とすべき、という意見はアメリカ、オーストラリアなどでも 多かったようですが、マッカーサーはそれを選びませんでした。 もしも、そうしたならば、アメリカによる占領統治は成功しなかったかもしれません .2011年 01月13日 23:107: dekame ただ馬齢を重ねてきた自分ですが、今初めて魂より天皇万歳と言えます。元々天皇制は必要と言う考えでしたが、御崩御された時に父(シナから帰国していた)は自分達に何かねぎらいの発表あるのではと期待していましたが、それは無く、随分がっかりしていた姿を自分は、はっきり記憶してますので魂より天皇万歳と言えませんでした。 .2011年 01月13日 23:138: kannta 天皇陛下、万歳・万歳・万歳!! すばらし動画等を紹介していただき、本当に有難うございました。 多くの皆様に、ぜひ知ってほしい真相ですね。 .2011年 01月13日 23:549: クアーズ 天皇陛下が身代わりを申し出たってお話、中学の時先生が 授業中に言ってたんだよな・・・ 私はこの話を聞いたときから陛下を尊敬していました .2011年 01月14日 00:1210: 和 陛下もさぞ辛かっただろうと思いました。 貴重な動画、有難うございます。 現代に生きる日本人は あまりにも大東亜戦争のことを知ら過ぎだと思います。 まるで他人事のような感じ。 そして、今目前に迫る危機に気付いていない。 まだ他人事です。 こんな日本にどうしてなってしまったのだろうと悲しくなります。。。 .2011年 01月14日 02:4911: yamato0036 陛下のこの御話は、私幼少の頃に今は亡き母親から聞いて育ちました。  自分自身が「生かされて戴いている」事に感謝しています。  本当に現世日本人は、戦争突入するまでの経緯を知らない方が多すぎます。    「知らない・知らされない・知ろうとしない」の風潮は、戦後の世の最大のガンだと思います。 .2011年 01月14日 09:2912: トノゴジラ  この先帝陛下のお言葉等は、以前から承知していましたが、こういう動画などで公になるとインパクトがありますね。  特に、ある意味先帝陛下を誤解されていた方々には、貴重なものだと思います。  ありがとうございました。 .2011年 01月14日 10:0613: 雷蔵 相手がこんなに感動したということは、アメリカ側で知っている範囲の国家元首や王族は、みんな自己弁明に必死なレベルだったということでしょうか? それにしても天皇陛下に代表される日本人の民度の高さに改めて感動しました。こういった史実を広めて(9クアーズさんの先生GJ)日本人の誇りを後世に伝えていかないといけませんね。こういう話を知ったら「日本はもうダメ」だの「大したことない」なんて思う日本人はいなくなるでしょう。 2011年 01月15日 10:31 14: 志葉楽 天皇陛下と接見 まさにそうだと思う。 私は福井県への巡行の街路での事だった。 近づくまでは何とも思わずに煙草吸いながら早く行かないかとブラブラしていた。 近づいてくるとなぜか惹き付けられるように回れ右をして手を大きく振りながら目の前は膜が張ったように見えにくくなった。 まさに神だと思い知らされた瞬間だった。 当時は今の様に車は普及していないので私は運転手で工場の従業員の送り迎えしている頃のことだ。 生意気盛りで私などはまだおとなしい方だった。 その頃だから屁とも思わなかった人間が一目で変化してしまう出来事だった。 天皇陛下は正に神だ。 神そのものではないかな。 .2011年 01月15日 11:28 15: ひろまる 天皇陛下は神です。 そして、隠さねばならぬ存在です。 皇統を護るのは、我々国民の「素直な信仰心」だと固く信じます。 陛下が行われている事は、人として如何に生きるかを、身を以て示されているのだと思います。 祭り事を大切にし、額に汗してはたらき、いつも穏やかで慈愛に満ちて。そして、「言霊」を本当に慎重に大切にお扱いなさる。 私たちも、神と同化する努力を毎日怠ってはなりません。 私たちの魂の根幹は「直日霊(なおひたま)」と言って、宇宙創造のかみ大元霊の「分け御霊(わけみたま)」で出来ております。 その、神性の種を人生を通して育み磨く事が神々から与えられた「使命」です。 働くとは「はたを楽にする」が語源と神職の方にうかがいました。 陛下は、はたをらくにする、「国民を楽にする」為に日々、神事に公務に、そして農作業もされます。 その事を考えると、いつも涙が出てしまいます。 私たちは、陛下が身を以て示される「神の道へ通じる、人の道」に精進し、理屈をこねずに素直に「信じる事、信仰心」を実践せねばならないと固く信じて疑いません。 そして、天照大神の化身としてあらせられる陛下を、隠して護らねばなりません。 陛下お一人を神にしてもいけないと思うのです。 世界が恐れた日本人の真の底力とは、揺るぎないまっすぐで素直な「信仰心」であると、断言します。 ですよね(*'-')b  志葉楽さま(*´∀`*) .2011年 01月15日 11:50 16: aki そうですね。 あーだこーだ理屈を並べ立てたところで意味がありませんね。 理屈を超えた存在なのですから。

●坂本龍馬の人となり

●坂本龍馬の人となり ◆写真で見る龍馬伝 http://www.youtube.com/watch?v=qwrfoEJaaGg&NR=1&feature=fvwp   ◆坂本龍馬とお龍 http://www.youtube.com/watch?v=wqCnMW3AX4Y   ◆坂本竜馬(龍馬)の名言集・格言集動画 http://www.youtube.com/watch?v=D4in6ViT34A&feature=related   ◆坂本竜馬の言葉 http://www.youtube.com/watch?v=Qgjr5JPpVEE&feature=related   ◆坂本竜馬の言葉 ~ 地球を愛の星へ ~ スピリチュアルメッセージ 霊言 http://www.youtube.com/watch?v=2xSprx7L7Aw&feature=related   ◆彼は死んだから有名になったと言っても過言ではないと思う。 だからどういう人だったのかは彼の出した手紙からしか回想できない。 京都国立博物館 前考古学室長 宮川禎一氏が龍馬の手紙などを一括資料として親戚筋の人から同館に寄贈されたことから関わりが始まったそうだ。 調べていると一見下らない文なども多くたいした事はないと思われるが 人の心をよく見て深い心情が伺えるモノが多いとのことです。 相手が読んでどう思うか よく考えられて書かれているモノが多いそうです。 通説を見直さなければならないことが多いとのことです。 例え話も多かったようです。 結構 教養も高くて小野小町や新田義貞を引き合いに出して遠回しに意見を言ったりしたとのこと。 彼は究極の「弟」だということです。 西郷や桂などの兄と言うべき人たちのアイダをちょこまかと動き回り「土佐のいごっそ」などと言われる様に多弁で例え話しが上手で人間関係を築くのが上手な人だったので「薩長同盟」を作れたのだと言うことです。 小説やドラマなど多くの龍馬像が過剰に膨らんでいるのではとのことです。 龍馬という人は死ぬ前にもう開明期の人物になっていたとも。 龍馬は作り出されたという本が昨年出たけれども支援して引き上げた人が廻りに沢山いた。 松平春岳の様に京都での生活費を全額出してくれたり勝海舟なとは色んな助言やヒントなどを出してくれる人たちがいた。 これを読んでいる人たちも人間関係を上手くやり媚びへつらうのではなくて誠心誠意真心で人と接していけば「坂本龍馬」になれるかもしれない。 何するにも下地はダイジ。 教養を身につけることは人に好かれる第一歩ではないかな。 大いに明日に向かって羽ばたいて下さい。

【衆知】米軍慰安婦像が米大使館前に建つ日

【衆知】米軍慰安婦像が米大使館前に建つ日               2014年08月18日 トニー・マラーノ(評論家) 《『Voice』2014年9月号より/通訳:藤木俊一》 ――テキサス親父が国連欧州本部に乗り込んで思ったこと 国連はひどいところさ!  やあ、みんな。俺は、仲間とともに世界中を飛び回って、日本に対する誤解を招くプロパガンダをまき散らしている連中の実態を調査し、対策を考えるために現在(7月23日)は、欧州に来ているんだ。6月下旬以降、北海道から沖縄まで全国九会場で講演会を行ない、日本でも有名な作家の一人である百田尚樹さんなどたくさんの人に会った。最後に、PHP研究所から発売された『テキサス親父、韓国・中国を叱る!』のプロモーションのために、打ち合わせをしたり、ビデオを撮ったりした。  その後、7月14日からのスイス・ジュネーブでの国連自由権規約委員会に日本の友人たちが主催する「慰安婦の真実国民運動」の国連調査団のメンバーとして行くことにし、14日から16日の3日間、国連欧州本部に乗り込んだんだ。  そこでは、なぜか日弁連(日本弁護士連合会)や反日の日本人、韓国人、朝鮮人たちが、慰安婦問題や死刑制度、ヘイトスピーチ(憎悪表現)などをテーマに日本批判を繰り返していた。反日日本人たちと共謀している韓国人、朝鮮人たちが、国連に一方的な話や嘘を信じ込ませて日本批判をしていることには驚いたぜ。それも100人単位だぜ! 日本政府も30名ほどの代表団を送り、反論していたが、自由権規約委員会は日本政府に改善を要求していた。  結局「慰安婦(comfort women)」という表現ではなく、「強制性奴隷(enforced sex slaves)」というべきだなど、何もわかっていない委員たちによって、裁判にかけられたようなものだった。まったくひどいところだった。  今回、俺が関心をもっていたのは、国連の自由権規約委員会の委員たちがどこの国から来るのかということだった。委員の人たちは十数人いたが、彼らの国を調べてみると、それぞれのどの国にだって、歴史上、ひどい過去があるはずだ。彼らとディベートを楽しみたいと期待していたが、実際は調査団というかたちなので、ディベートをする機会は与えられなかった。ただ、海外メディアなどが取り上げてくれれば、慰安婦問題を国際社会に正しく理解してもらえる何か足掛かりになるのではないかと思っていた。国連で日本がどのように思われているのかがわかったが、日本政府はもっと積極的に反論していくべきなんだと強く感じたよ。  日本政府は会議のなかで「慰安婦が性奴隷という言葉に置き換えられていることは適切ではない」というと、場内から拍手が上がった。いままでには見られなかった光景だっただろう。しかし、議長はこの拍手に対して厳重注意をしたところを見ても、国連自体が反日組織であることが明確になったと思う。 「性奴隷」という表現は、1996年2月に国連人権委員会に報告された「クマラスワミ報告書」で決議が出ているが、強制力はないために、日本政府は無視していた。安倍政権としても無視ばかりでは済まなくなってきたんだろう。  ところで、今回のジュネーブ行きは、「なでしこアクション」代表の山本優美子氏とともに行動したので、一部日本のメディアでも「テキサス親父と日本人主婦が慰安婦問題で、国連で反撃」と報道されたのは知っている方もいるだろう。これまでは、韓国側からの一方的な話が多かったのだが、日本側の主張を繰り返すことで、徐々にではあるが国際社会の理解が得られてきていると思っている。 次は米軍慰安婦問題だ  訪日中には、日本の有名な週刊誌である『週刊文春』と『週刊新潮』にも取り上げられていた米軍の慰安婦問題についての記事も読ませてもらった。そのなかには、韓国政府が自国の女性を強制的に慰安婦にして、逃げ出せないように慰安所の前には武装した兵士たちを立たせていたとも書いてあった。  じつは、米軍慰安婦問題は、韓国側から資料が出てきたんだ。報道によると、元米軍慰安婦122人が人権侵害で韓国政府に賠償請求をした。朝鮮戦争時(1950~53年)には、軍管轄の慰安所があり、戦争が終わったあとの70年代、80年代にも基地村には米軍慰安婦がいたとのことだ。文書によると、紛れもなく「強制的に」米兵の相手をさせられていた。そのうえ、驚いたことに、いまの朴槿惠大統領のお父さんである朴正熙大統領(当時)が、米軍のために進めた政策だということだ。  1972年に俺の親友ブルースが韓国に駐留していた。彼は「強制があった」というんだ。だが、それは、基地周辺で売春をしている女性たちがブルースに強制的に「客になれ」といってきたということなんだ。買い物に行こうが、街を歩こうが、彼女たちがぞろぞろ付いてきたそうだ。日本軍慰安婦ばかりじゃなく、米軍慰安婦問題は、これからメディアで騒がれるだろう。そうなれば、事実が明らかになると思うぜ。  ソウルの日本大使館の前に慰安婦像を建てた連中がいるが、今度は同じようにソウルのアメリカ大使館の前に慰安婦像を建てるんだろうな? そうでなければ、カリフォルニア州グレンデール市に建てられた慰安婦像は、完全に「日本叩き」が目的だったことがわかるだろう。今回はそれが証明できるいい機会だな。俺は韓国政府によって韓国人女性が強制的に米軍兵士や国連軍兵士の慰安婦にされたことを記録に残すために、グレンデール市に現在ある日本軍の犠牲になったとしている慰安婦像の隣にまったく同じ慰安婦像を建てるように要求するつもりだ。  韓国にブーメランのように、慰安婦問題が降りかかってきたってことだよな。日本軍のための慰安婦たちがいっていることにはウソはなくすべて正しいと、韓国人も韓国政府も主張しているよな。それに対して朴大統領も「日本は歴史を直視しろ」といっている。今回は、彼らは自分自身の歴史を直視することになるだろう。彼らによれば、日本軍の慰安婦たちの証言にはウソがないといっているので、米軍の慰安婦たちもウソはないはずだからな。韓国政府は謝罪や賠償を要求されているから、きっちりやるべきだろう。  俺は表面上慰安婦のいったことを信じてやろうと思っている。韓国の米軍慰安婦の場合は、強制性があったと書いてあるが、日本の場合はアメリカの資料を見ても、強制性はなかったことがわかる。 悪いのは活動家たち  俺はワシントンの国立公文書館から、朝鮮人慰安婦を尋問した調書を手に入れたことがある。それには、慰安婦は強制ではなく、「高給取りの売春婦」だったとの記述があり、俺も実際に確認しているんだ。米国陸軍が1944年にビルマ(現ミャンマー)のミートキーナで、朝鮮人慰安婦の捕虜20名に対して行なった「尋問調書」のことだ。  当時、慰安婦たちは「街へ自由に買い物に行ったり、兵士たちと娯楽を楽しんだり、快適な生活を楽しんでいた」とも書いてあるんだ。もっと驚くのは、慰安婦たちは、時間に限りがあるために十分に兵士へのサービスができなかったと嘆いてるんだぜ。性奴隷がそんなことを考えるか? 性奴隷が大金をもらえるのか? 性奴隷がショッピングを楽しんだり、ダイヤモンドを買ったり、キャンプへ行ったりできるか? 感情を抜いて論理を組み立てろといいたい。こうした話は、今回の本にいっぱい盛り込んだし、資料も掲載している。  問題を起こすことを目的にいっているわけではない。米軍慰安婦碑にも、日本軍慰安婦碑に書いてあることをそのままコピーして年月日と国名と人数を変えるだけでいい。それでフェアであって、一貫性があるということになるだろう。  実際にはそのようなことは、起きないと思うがな。わかってもらいたいのは、俺は、「自分は元慰安婦だった」というお婆さんたちに対して軽蔑しているわけではなく慰安婦像などをアメリカの各地に建てようとする活動家たちを軽蔑しているだけなんだ。  彼らは、3つのカテゴリーに分けられる。1つ目のグループは、常識では測れない感情の入り混じった、カルト的な連中。2つ目のグループは、とにかく日本が嫌いで嫉妬が強い人たち。日本の戦後の成功に嫉妬し、自分たちと比較してコンプレックスをもっている。彼らは、ランキングや数字が大好きで、自分たちの位置をつねに知りたがり、人を見下すのが大好きなのさ。3つ目のグループは、朴政権だろう。日本に向けた憎悪は、朴大統領が拡散させているが、それはお父さんがやった悪事を隠すためではないのか。彼は満州国軍に属していた。1965年の日韓基本条約で補償は済んだが、国民にはお金は分配されなかった。朴大統領はそのことを隠そうとしている。選挙民に対するパフォーマンスで、反日は病気のようなものだ。  大事なことは、過去を忘れるのではなくて、過去を反省することで、お互いの利益になることをやっていくことだろう。でも韓国と中国は、過去を持ち出すことで未来がなくなっている。日本と首脳会談もできなければ、先の話もできない。こんなバカなことをするのは、文化的な国のすることではないよな。  日本は韓国を35年間植民地にしたかもしれないが、アメリカはフィリピンを48年間植民地にした。でも、フィリピン人たちは、韓国人が日本人を憎悪するように、アメリカ人を憎んではいない。アメリカに好意をもっている人も多い。俺の行っている教会でも、神父さんはフィリピン人だったりする。韓国人ほど、過去にこだわり過去に生きていて、前進できない民族もいないということだ。 「言論弾圧国家」韓国  韓国では俺のYou Tubeの動画が見られなくなっているようだが、今回の国連では直接韓国の人たちにメッセージを送りたいものだ。  俺の動画が韓国で有害動画指定を受けて、遮断されたと、日本で話題になっている。韓国は民主主義国家ということになっているが、その基本である言論の自由、思想・信条の自由がないんだな。「言論弾圧国家」といわれても仕方がない。2年ほど前から、従軍慰安婦問題や竹島問題などを各国の資料やメディア報道などをもとに、自分の意見を伝えてきた。それの何が問題なんだ。  閲覧禁止に関しては、韓国政府に「ありがとう」といいたいよ。俺は韓国政府にとって影響力があって、重要人物ってことの証明でもあるからな。俺が韓国政府にとっての脅威になっているということは、それだけいまの朴政権の不安定さを示していることでもあるからな。どういう理由であれ、テキサスに住むこの小さな俺を恐れているということなんだろ。民主主義の観点からすれば、おかしなことだけどな。動画のなかでは汚い言葉も、暴力的なことも使っていない。健全な民主主義とは、どんな批判に対しても受け入れるということではないのか。  たとえば、韓国のロックバンドがアメリカを口汚く罵っている動画をアップしていても、アメリカ政府はそれを消すこともなければ韓国に抗議することもない。だからこそ、ジュネーブでの出来事をちゃんと伝えて、世界中の人たちに判断してもらいたいんだ。  北朝鮮についてもいいたいことはたくさんある。金正恩第一書記を含めて、あの国の権力者たちは、まさに狂人ではないのか。バケモノたちに拉致された日本人たちのことを忘れないために、日本は一致団結して対応してほしい。  1970年代から80年代に北朝鮮の工作員が、日本に潜入し、人びとを誘拐しはじめ、北朝鮮に連れて帰った。やつらは、狂人だからな。やつらは、韓国からも誘拐した。これを理解してくれ。  現在の韓国は北朝鮮ではなく日本を中傷している。北朝鮮に対しては、お互いに何もなかったように振る舞っているんだが、日本に対しては69年も前のあったかもしれない間違いに対し批判している。北朝鮮によって自国民が殺されたりミサイルを撃ち込まれたりしても、日本のことを中傷したいんだな。まったく馬鹿げた政権だ。 『ダラス・モーニング・ニュース』に載っていた記事によると、横田夫妻は、81歳と78歳の夫婦なんだが、彼らの娘は13歳のときに北朝鮮の狂人たちに誘拐され、北朝鮮に連れて行かれたんだ。誘拐の目的は、北朝鮮の工作員たちに日本語を教えるためだったようだ。  13歳の娘が何を教えるのか。彼女はその後韓国人の男性と結婚したといわれるが、彼も誘拐されてきた。彼らの娘は、娘を産んで、その娘がさらに娘を産んだんだ。北朝鮮はこの日本人の夫婦が孫とひ孫にモンゴルで会うことに合意した。彼らの娘は北朝鮮に置いたままでな。どれだけ彼らがバケモノかわかるだろ。この宇宙のどこにいたとしても「共産主義」は、「真の害悪」以外の何ものでもないんだ。文化的な人たちは、北朝鮮とはいっさい関わるべきではないぜ。  これからも韓国と北朝鮮には、正しい論理で反撃していくべきだ。もちろん中国に対してもな。

2014年8月25日月曜日

日本人にとっては何の変哲もない日ですが、在日韓国人にとっては天国と地獄の分岐点です。

日本人にとっては何の変哲もない日ですが、在日韓国人にとっては天国と地獄の分岐点です。 この日は従前ご案内の通り、法改正による外国人在留カードの切り換え期限なのです。ところが2009年改正法成立、2012年から周知期間3年を経ても今だに約6割強の在日が切り替えをしていません。いったいどうしてでしょう?今回はこれの検証です。  切り替えが進まないのは、簡単に言えばメリットがないかデメリットが大きいということにほかなりません。今回の法改正は外国人登録業務の簡便化、資産、金融関係の一本化、住民サービスの一元化などがあげられていますが、そのどれもが在日にとってプラスがないのです。  一例をあげるといわゆる在日特権で、以前から以下のような事例が報告されています。 かなり以前の情報なので現在どのような状況か確認しているわけではないのですが、概要こんなものでしょう。 入管特例 ....韓国朝鮮人のみが特別永住許可を取得できる 都営住宅 ....共益費の免除住宅・入居保証金の減免または徴収猶予 生活保護 ....家族の人数 × 4万円 + 家賃5万円 、ほぼ無条件 地方税  ....固定資産税の減免 特別区  ....民税・都民税の非課税・軽自動車税の減免 年 金  ....国民年金保険料の免除・心身障害者扶養年金掛金の減免 水 道  ....基本料金の免除 下水道  ....基本料金の免除・水洗便所設備助成金の交付 放 送  ....放送受信料の免除 交 通  ....都営交通無料乗車券の交付・JR通勤定期券の割引 清 掃  ....ごみ容器の無料貸与・廃棄物処理手数料の免除 衛 生  ....保健所使用料・手数料の滅免 教 育  ....都立高等学校・高等専門学校の授業料の免除 通 名  ....公的証明書の使用。(会社登記、免許証、健康保険証、銀行口座開設)  今回の法改正で直接の影響があるのは、生活保護問題と通名使用問題です。法の説明は従前ブログで繰り返し詳述しておりますので、ここではある在日韓国人を設定し実生活への影響というかたちで進めていきたいと思います。 ....プロフィール 在日韓国人 氏名朴一、通名(田中某、青木某、金田某)特別永住許可者で、生活保護を受給中という設定です。  朴さんが2015年7月8日までに永住者カードに切り換えた場合、現住所住民基本台帳に(朴一、金田某)と登録されます。永住者カードには朴一だけで通名は記載されません。また外国人登録証と違ってカードの携帯の義務はありません。従前使用の通名(田中某、青木某)は意味がなくなります。注意が必要なのは通名の使用は禁止されたわけではありませんが、通名の変更は事実上禁止措置がとられたということです。また居住地移動に際しては、転出証明書が必要となりました。よって朴さんが転居の際は、もし通名を使うならば常に(朴一、金田某)ということになります。  では、前居住地で(田中某、朴一)(青木某、朴一)で開設した銀行口座はどうなるのでしょうか。現行生活保護を受給中という設定ですから(金田某、朴一)という銀行口座もあるはずですね。従前、通名での口座開設が可能だった頃は田中、青木、金田の口座は別口座として扱われておりました。検索のキーワードが違っていたからです。それが登録により(朴一、田中某)(朴一、青木某)(朴一、金田某)となれば一目瞭然です。朴さんの資産状況が丸見えとなってしまいました。金田某で資産ゼロで生活保護を受給してきた朴さん、他の隠してきた口座の資産で不正受給の発覚は時間の問題です。今は全部現金にして口座残高をゼロにしていますが、恐らく手遅れだろうと覚悟しているそうです。  このため朴さんは以前の建設業に戻ろうと何社かに履歴書を送りました。大卒でいくつも特殊技術の資格を持っている朴さん、就職には不安はなかったのですが、全く各社、音沙汰がありません。よくよく調べてみると卒業証書や各資格証明書はすべて通名である田中某で、そこに朴一は影も形もないのです。現在は(朴一、金田某)であって、以前の通名(田中某、朴一)の証明そのものが困難で、人事担当からは、証書や各資格証明書の発行側から同一人物であるという証明が必要だといわれたそうです。  また最近、自動車免許更新通知が来ましたが、名義は通名ではなく本名だったそうです。  さてまったく同様のプロフィールをもつ李一さんが登場です。彼は朴一さんの話やほかのカード切り換えをした人の話を聞いて、切り替えをしないことにしました。不法滞在者となることは覚悟して、在日同胞と力を合わせて安倍政権と戦うことにしたのです。   以上のような流れがあって在留カードへの切り替えは進んでいないようですが、時代は変わりました。嫌韓一色の中で、従前のようなごり押し、ひらきなおりは通じなくなっています。反日勢力と連携すれば対抗できると考えているようですが、現実に10万人単位の不法滞在、強制送還は困難にしても、それ以前に不法滞在による住民サービスの停止がきます。まず永住許可の取り消し。銀行やクレジット口座の凍結。健康保険証の無効化。生活保護の停止等、対応できるものではありません。在日の実力行使については、すでに自衛隊のテロ対策と在日対策は準備完了です。  また一方では、反日勢力のあぶり出しと特定化が進んで公安のリベンジが始まりました。  在特会デモに参加予定の男性を集団で暴行したなどとして、大阪府警警備部(公安)は川崎市多摩区南生田7、市民団体幹部、添田充啓(あつひろ)容疑者ら男8人を暴力行為等処罰法違反の疑いで逮捕しました。添田容疑者は同種の嫌韓デモに反対する「男組」というグループの「組長」で、他7人もメンバー。男性を集団で暴行するなどした様子を撮影し、インターネットの動画サイトに投稿していました。  府警は16日、添田容疑者らの自宅や大阪、東京、静岡の関係先など7都府県10カ所を家宅捜索したということです。  ここで注目すべき点は、カウンターデモ単独事件という処理ではなく、公安が暴力行為等処罰法違反として一斉検挙をしたということで、その意味は背後関係を徹底的に洗う、つまり今までしばき隊に関わった人間は一般人だろうと在日だろうと全て調査の対象になるということで、公安の在日や反日勢力への宣戦布告と言ってもいいでしょう。  暴力行為等処罰に関する法律についてはWikipediaをどうぞ。  また余命では以前、春に外患罪の適用における法改正や、その他有事法の改正がない場合は、安倍政権の在日や反日勢力の一括処理方針が確定と記述しました。この一括処理法案が五輪テロ対策を錦の御旗に米の強力な要望もあって、テロ対策資産凍結新法として秋の臨時国会に提出される見通しです。すでに政府は、過激な活動家らをテロリストに指定し、資産を凍結する方向で検討に入っています。この法案の成立は、在日や反日勢力に致命的影響があるため特定機密保護法同様、必死の抵抗が予想されますが、五輪テロ対策がメインの理由ですから意外と簡単に成立するかもしれませんね。  一部メディアでは、すでに新法は恣意的な運用が懸念されるというと報道していますが、多分そうなるでしょうね。実際、関係筋では、暴力団関連組織や左翼組織は当然として、いい悪いはともかく、しばき隊とか男組、あるいは関東連合のような反グレ集団まで対象となるといっていますから在日や反日勢力に対する強力な武器になりそうですね。この関連については別の機会で....。                         2014-08-24