2013年12月15日日曜日
『ITスペシャリストが語る芸術』
『ITスペシャリストが語る芸術』
「釈迦、イエス、孔子、アリストテレス、古事記は皆、中庸を説く 」
お釈迦様もイエス・キリストも、誰にでも役に立つ簡単なことを教えたのに、学者や聖職者が、それを難しい上に、歪んだものにしたようである。...
2人が教えたことは同じで、それは中庸(仏教では中道)である。
孔子やアリストテレスも、目指したのは中庸である。
釈迦は、中庸の悟りへの道を鮮明に示した。
王子様であった釈迦は、贅沢豪華な生活をしていたが、29歳でそれを捨て、修行者になった。そして、極端な断食修行で骨と皮だけになった。
そして、35歳の時に、贅沢は駄目だが、苦行も駄目なのだと悟り、中庸を得たのである。
普通の人では出来ないことを、代わりにやってみせたのだ。
イエスもまた、40日の断食の後、悪魔に試される。
飢えたイエスに悪魔が言う。
「お前が神の子なら、この石をパンに変えよ」
しかし、イエスは、
「人はパンだけで生きるのではない。神の言葉によっても生きる」
と答えた。
これは、人には物質や世俗的なことも必要だが、情熱や夢想も必要であるということである。
また、悪魔が、
「ここ(大変に高い所)から飛び降りろ。神の子なら天使が救う」
と命じたことに対し、
「神を試してはならない」
と言ったのは、さっきとは逆に、情熱や夢想も必要だが、現実的なことも必要だということを示している。
そして、悪魔が、世界一の金持ちにしてやるから私の僕になれと誘ったことに対しては、
「あのね、僕は中庸に生きるのだよ。それが神に仕えるということなのだ。つまり、僕は神の下僕だ。さよならだ、悪魔君」
と答え、イエスは悪魔に勝ったのである。
『古事記』で、黄泉の国(死の世界)から帰ってきたイザナギが海で禊をした時、
「上の方は流れが速い。底の方は流れが遅い。真ん中くらいが丁度良い」
と言ったのは、上(夢想的なこと)は心の流れが速く熱狂的だが、底(世俗的なこと)は、心が淀んできて、死んだように動かなくなる。その中間である中庸が良いということである。
また、アマテラスは、スサノウが地上から高天原(タカアマハラ)に上がってきた時、スサノウを疑い、武装して迎えた。
しかし、スサノウの潔白が晴れると、スサノウがいかなる傍若無人なことをしても赦した。
そんな極端なことばかりをした結果、アマテラスは天の岩戸に引きこもることになってしまった。
アマテラスが引きこもって世界が暗くなったのもまた、中庸を忘れた極端な状態であることを示す。これは、死の状態とも言える。
そして、年老いて死んだように、世俗に染まって心が沈んだ時には、熱狂と歓喜も必要なのだ。
そこで、アメノウズメがエネルギッシュに、そして、セクシーに踊り、神々が歓声を上げた。
アマテラスが、「何事か?」と尋ねると、「今のあなたより尊いものがある」と答があった。
沈んで死んだようになるくらいなら、熱狂や情熱も必要なのだ。
そして、アマテラスに鏡が差し出される。
これは、「自分のやったことを見なさい」と言うことであり、アマテラスが鏡をもっとよく見ようと進み出ると、退路を断たれた。
そして、「もう、後ろに戻らないで下さい」と言われた。
これは、極端な若さである熱狂にも、極端な老いである死のような状態にも偏ることなく、その間であって欲しいということだ。
『古事記』は、他にも、このようなお話に満ちた素晴らしい知恵の書である。
人類史上の4人の賢者の教えと、我が国の宝典『古事記』は、いずれも中庸について教えている。
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