2013年12月14日土曜日

・ミナト湊(みなと)十三湊・十三湖・

・ミナト湊(みなと)十三湊・十三湖・ ◆ミナト湊(みなと)十三湊  http://p.tl/F1fG   ◆み‐な‐と 【港/湊】 《「な」は「の」の意の格助詞。「水(み)の門(と)」の意》 1 海が陸地に入り込んだ地形を利用したり、防波堤を築いたりして、船舶が安全に停泊できるようにした所。港湾。「船が―を出ていく」 2 川・海などの水の出入り口。みと。「すみやかにこの―に往き、水をもちて汝(な)が身を洗ひて」〈記・上〉 3 行き着いてとどまる所。「暮れて行く春の―は知らねども霞におつる宇治の柴舟」〈新古今・春下〉   ◆十三湊 - Wikipedia  http://p.tl/tjp1 十三湊(とさみなと)は日本の中世から近世にかけて、青森県五所川原市の十三湖の 辺りにあった湊である。近世以降、「じゅうさんみなと」と呼ばれるようになる。また、十三 湊の遺跡である「十三湊遺跡」は国の史跡に指定されている。   ◆十三湖 - 五所川原市観光協会  http://p.tl/-LqU この1991年~1993年の調査によって、ほぼ当時のままの形で津軽十三湊の町並みや遺構が残っていることが明らかになり、これまでに確認された中世の都市としては東日本で最大規模とも言われ、西の博多に匹敵する貿易都市だったことが裏付られています   ◆よみがえる十三湊遺跡 - 国立歴史民俗博物館  http://p.tl/KdR7 よみがえる十三湊(とさみなと)遺跡. 室町時代ころに成立した『御伽草紙』と呼ばれる物語の一つに、『御曹子(おんぞうし=源義経)島渡り』という作品がある。奥州平泉で義経をかくまっている藤原秀衡が、「ここより北に千島ともえぞが島ともいう国があり、その ...   ◆十三湊の興亡 ―津軽で生まれる子らに - 水土の礎 http://p.tl/kHIv 北のまほろば. 十三湊の興亡. 冬の洪水. 津軽藩の大業. 新田開発の陥穽. ケガヅ(飢饉)と水争い. 古田放と土淵堰. 大地の改良. 津軽で生まれる子らに ... この線に囲まれたエリアに降る雨は、すべて北へ北へと流れ十三湖[じゅうさんこ]に集まる。   ◆とさみなといせき【十三湊遺跡】国指定史跡完全ガイドの解説. 青森県五所川原市十三にある港湾を中心とする中世都市遺跡。13世紀初頭から15世紀後半に発展・繁栄した。津軽半島の日本海側ほぼ中央、十三湖(じゅうさんこ)の西岸に位置する。中世、北日本海交通の重要港として繁栄し、『廻船式目』には三津七湊の一つ「奥州津軽十三湊」として記述されている。津軽の豪族である安藤(安東)氏が拠点を置いて栄えたが、南北朝期に津波で壊滅したという伝承が残り、長く幻の港町とされてきた。1991年(平成3年)以降、国立歴史民俗博物館、当時の市浦(しうら)村および青森県教育委員会によって組織的な発掘調査が行われて、遺跡の概要が判明した。現在の十三湖は日本海に直接開けているが、かつては砂州をはさみ、そこにある水路で日本海とつながっていた。遺跡はその砂州の先端部、南北約2km、東西最大500mの範囲に広がっている。中心の地区は空堀をともなう東西方向の大きな土塁で南北に分けられている。土塁の北側は領主やその関係者などが住んだと考えられ、掘立柱建物、井戸、鍛冶・製銅の工房などの遺構が分布する。中国製の陶磁器や東北地方では珍しい京都系のかわらけも出土している。土塁の南側は、町屋があったと考えられている。側溝を備えた南北道路とその両側には掘立柱建物と井戸のある区画が広がり、墓跡や畑もあった。約300m南側には伝檀林寺跡もある。2005年(平成17)、国指定史跡となった。JR五能線五所川原駅から弘南バス「十三」下車、徒歩約5分。   ◆十三湊(とさみなと)遺跡 【とさみなといせき】知恵蔵2013の解説. 青森県五所川原市の11〜15世紀の都市遺跡。1991年以降の調査で十三湖岸の砂州上に営まれた、約55haの豪族・安藤氏関係の遺構と判明。幅6mもの直線道路や高さ1.5mの土塁、武家屋敷、短冊形の町屋跡など、97年には一辺100mの安藤氏の館跡の全容、2002年に安藤氏の墓らしい15世紀前半の墳丘墓(直径約8m、高さ1.5m)が確認された。中国などからの貿易陶磁器もあり、国際交流が浮き彫りになった。 ( 天野幸弘 朝日新聞記者 / 今井邦彦 朝日新聞記者 )   ◆五所川原市の文化財 十三湊(とさみなと)遺跡  http://p.tl/2LQ9 十三湊遺跡は、本州最北端の津軽半島の日本海側ほぼ中央、岩木川河口に形成された潟湖、十三湖(じゅうさんこ)の西岸に位置しています。  戦国期に成立したと考えられる『廻船式目』に三津七湊の一つとして「奥州津軽十三湊」とみえ、中世北日本の重要港湾であったことがうかがえます。  津軽の豪族安藤氏が拠点をおいて栄えたとされながら、南北朝の津波によって壊滅したという伝承があり、長い間幻の港町とされてきましたが、平成3年度以降の市浦村・青森県教育委員会等による組織的な発掘調査の結果、13世紀から15世紀に営まれた広大な遺跡の実態がおおよそ把握されました。   ◆.十三湊遺跡 . http://www.youtube.com/watch?v=WU7wPOTwKSE 十三湖湖畔にある市浦歴史民族資料館では発掘成果を出土品を交えて紹介しています。 十三湊遺跡は中世において、博多や堺と並ぶ大規模な湊町であったことを物語る遺跡とし­て知られています。   ◆歴史ミステリー 青森の海底遺跡 . http://www.youtube.com/watch?v=K_YhbsTWq7k   ◆【中世・十三】青森県奥津軽観光サイト 奥津軽の旅案内 http://p.tl/AcrM 謎に包まれていた青森県の中世。 それが遺構や遺物の相次ぐ発見によって生き生きと現代に甦ってきました。 およそ600年前に十三湖ほとりに広がっていた港湾都市十三湊 。 訪ね歩けば、そのスケールの大きさや中世の景観が色濃く残る姿にきっと驚かされる   ◆津軽十三湖の歴史(十三湊の歴史7) http://p.tl/oXrW 安東氏は戦に破れて十三湊を去る。それと同時に国際貿易港十三湊も終焉を迎えた。 江戸時代になって、津軽藩の米を集める港として復活したが、国際貿易港の面影は既に無かった。   ◆津軽十三湖の歴史 - Hi-HO  http://p.tl/FTnB 津軽一帯を流れる岩木川。かつてこの地方の流通において中心的役割を果たしていました。その川の河口に、十三湖という大きな湖があります。津軽中の川がここに流れ込んでいますが、湖の西口が小さく開いて日本海の海水が流れ込んでいるため、汽水湖になっています。太宰治の作品『津軽』に『気品はあるがはかない感じの湖』とかかれた十三湖は、その昔、「十三湊(とさみなと)」と呼ばれた博多クラスの国際貿易港だったのです。    十三湊とは、中世の昔、津軽半島にあった国際貿易港のことです。場所は現在の地名で言うと、青森県北津軽郡市浦村といい、今では小さな漁村になっています。十三湊に関する文献は少なく、謎が多かったのですが、1991年から国立歴史民俗博物館による発掘調査を契機に、かつての十三湊の様子が明らかになりつつあります。   ◆十三湊安藤氏遺跡 -陸奥の城ー  http://p.tl/7uLG 津軽十三湊は十三湖と日本海に流れ込む前潟(旧流路)に挟まれた南北に細長い半島状地形に築かれた中世の港湾都市です。町の規模は東西500m×南北1300mほど、内部は大きくは東西に方向に構築された大土塁と堀によって南・北の2ブロックに分割され、土塁の北側に安藤氏の居館・家臣の屋敷地が、南側に町屋・寺屋敷が設けられ、一定のヒエラルヒーの中で町は構築されていたと思われます。安藤氏の居館は北ブロックの南縁東寄りに構えられ、規模は100-120m四方ほど、堀と土塁で囲まれた方形館と推測されます。そして居館の西側に南北の基軸道路が敷設され、居館の北・西側をカバーするように家臣の屋敷地が設けられています。また南北の基軸道路は南ブロックを縦断し、道路に沿って幅の狭い短冊形の町屋が設けられています。なお十三湊の港湾施設は北ブロックの前潟沿いに設けられ、南西側の水戸口で日本海に繋がっていました。   ◆青森・十三湊遺跡 - 邪馬台国大研究  http://p.tl/sN9k 東北の他の土地と同じように、ここ十三湖付近にも縄文時代から人は住み着いており、各種土器や石器も発見されている。 市浦村では、十三湊の遺跡を中心にしてこれらの遺跡からの出土品や、各種農機具などを歴史民俗資料館として展示している。

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