2013年10月4日金曜日
稲塚権次郎とボーログ博士
■ 国際派日本人養成講座 ■■■■
人物探訪: 稲塚権次郎とボーログ博士
~ 世界を変えた「農林10号」
一粒の種子が世界をかけめぐり、世界を変えていった
■1.稲塚権次郎とボーログ博士■
平成2(1990)年6月1日、富山県南西部の農村部・南砺(な
んと)市にある南砺農業会館で一人の白髪長身の年老いた白人
が、500人ほどの聴衆に語りかけていた。
アメリカの農学者ノーマン・E・ボーログ博士である。博士
は収穫量が従来の2、3倍もある新しい小麦の品種を世界に広
め、それによって1960年代に予測されていた食糧危機から人類
を救った「緑の革命」の功労者として、1970年にノーベル平和
賞を受賞した人物である。
博士は微笑をたたえながら、いかにも学者らしいゆったりと
した口ぶりで話し始めた。
今日この地で、私達は稲塚権次郎(いなづか・ごんじろ
う)博士の生家を訪れるという素晴らしい経験をさせて頂
きました。先生の業績は、一人私のみならず全世界の人々
が、高く評価し心から感謝しているものであります。多く
の国々で食糧問題の解決を可能にしてくださったのも、稲
塚博士の御貢献あればこそなのです。[1,p8]
ボーログ博士の立つ演壇には、青々とした小麦の鉢が飾って
あった。これこそ稲塚権次郎が昭和10(1935)年に世に送り出
した「小麦農林10号」であり、ボーログ博士はこれを改良し
て世界に広めたのであった。
(中略)
■5.「まるで当時の日本の農民のような小麦」■
一方、岩手に移った権次郎は小麦の品種改良に取り組んでい
た。当時の人口急増によって、小麦の消費量も急激に増加しつ
つあった。しかし国内の自給率は50%程度であり、食糧不足
および、小麦輸入による貿易収支悪化の危機が迫っていた。権
次郎は、小麦の品種改良によって国内生産の大幅増加を実現し、
この危機を乗り越えようとしたのである。
権次郎は助手一人とともに、日曜日もほとんど休むことなく、
農事試験場で小麦の育成・観察・選別に取り組み、妻と子の三
人で麦畑で昼食の弁当を食べることも度々だった。
こうした努力の末に昭和4(1929)年に完成したのが、「小麦
農林1号」であった。権次郎はこれに満足することなく次々と
新品種開発を続け、昭和10(1935)年には「農林10号」を完
成させた。従来の小麦は人の肩ほども高さがあったが、「農林
10号」はわずか50センチほどで、大きな穂をたくさんつけ
ても倒れることがなかった。
権次郎は、後に「農林10号」について、こう語っている。
そう、まるで当時の日本の農民のような小麦だったな。
背が低くて、頑丈で、骨太っていうのかな。とにかく、
いくら穂をつけても倒れないんだ、もともと雪の多い東北
地方むけに品種改良したものでね。半年ちかく雪の下で育っ
ても腐らない強い小麦をめざしたんだ。[1,p182]
この間、昭和7年に政府が立てた「第二次小麦増殖5カ年計
画」は着実に成果を上げ、当初の小麦輸入量4百万石は、昭和
11年には16万石に激減して、ほぼ国内産で自給できるよう
になった。農林1号から10号までの改良品種が、この増産に
貢献した。
■6.華北農民のために■
昭和13(1938)年、権次郎は北京の華北産業科学研究所に転
任した。この研究所は外務省が義和団事件の賠償金の還元策と
して、広く華北の産業発展を目指したもので、とりあえず農業
部を設置して、食糧増産および農民の福利増進のための試験研
究を行った。日本人職員も東大、北大、九大などから人材を集
め、326人にのぼっていた。
華北は洪水、日照り、イナゴの害など荒々しい自然環境の中
で、農民が原始的な農業を営んでいた。権次郎はここでも小麦
の品種改良に取り組み、在来種を収集し、そのうちの優良なも
のを純系にして9つの奨励品種を作り、それを増殖して、華北
農民に配布していった。
やがて終戦となり、研究施設はすべて中国側に引き渡される
ことになった。金陵大学で小麦の育種をしていた沈宗瀚博士が
接収に来た際に、こう言ったと伝えられている。
非常にいいものを作ってもらった。私も方々歩いたけれ
ども、こんな立派な試験場は見たことがない。ほんとうに
いいものをつくってもらった。あなた方が許すことなら長
くここに残って、この仕事を継続してやってもらいたい。
[1,p209]
この言葉通り、権次郎は徴用されて、終戦後も2年間、研究
所に残り、指導を続けた。帰国したのは昭和22年だった。
■7.「小麦農林10号」アメリカに渡る■
昭和20(1945)年12月、権次郎がまだ中国にいた頃、アメ
リカ人農学者S・C・サーモンが来日した。サーモン博士は占
領軍の農業顧問として日本の農業事情の調査を行い、その過程
で「小麦農林10号」の存在を知った。そして自ら岩手県立農
事試験場に出向き、収穫前の「農林10号」を見た。
アメリカの小麦は通常15~20センチ間隔で植えられてい
るのに、「小麦農林10号」は50センチも離して植えてあっ
た。それでもたわわな実をつけているので、地面が見えないほ
どだった。さらに背丈がわずか60センチしかなく、倒れる事
もなかった。
博士は「農林10号」の種子をアメリカに持ち帰り、1年間
栽培して、全米各州に配布した。それを受け取った一人がワシ
ントン州の農業試験場に勤めるO・A・フォーゲル博士だった。
フォーゲル博士は「農林10号」をアメリカの品種と交配して、
新品種「ゲインズ」を作り出した。「ゲインズ」が農家に配布
されると、各地で驚異的な出来高をあげた。
フォーゲル博士から種子を受け取った一人に、メキシコで小
麦の品種改良に取り組んでいたボーログ博士がいた。メキシコ
では数年周期で小麦のサビ病が発生し、甚大な被害を受けてい
た。ボーログ博士はサビ病に強く、収量も多い品種を開発して
いた。
しかし収量があがるにつれて、小麦が倒れるようになり、生
産高の伸びに限界が生じてきた。ボーログ博士は、母国アメリ
カでフォーゲル博士が背の低い品種を生み出している事を知り、
少量の種子を送って貰った。それらをメキシコの品種と交配し
た新しい品種を作り出したところ、収量が2倍、3倍に伸びて、
メキシコの農家は熱狂的に喜んでくれた。
■8.「緑の革命」■
ボーログ博士は国連農業機関の使節として、発展途上国の農
業を視察し、農業研究者が不足していることを知った。そこで
各国から研究者をメキシコに呼び寄せ、訓練をした後に、「農
林10号」から改良した種子を持ち帰らせる制度を始めた。
1965(昭和40)年から翌年にかけてインドとパキスタンが小
麦の大凶作に見舞われた。そこでボーログ博士は両国に数万ト
ン単位の種子を送り込んだ。これらが両国の土地で実を結び、
インドでは小麦の収量が2倍となり、パキスタンでも自給自足
が可能なレベルに達した。
冒頭に紹介した平成2年の富山県での講演の中で、ボーログ
博士は「農林10号」の遺伝子を受け継いだ品種は500以上
生み出され、世界の小麦の3割を占めるに至ったと述べている。
1960年代は、貧しい国の食料増加率が人口増加率の半分にも
満たなかったことから、未曾有の食糧危機が予測されていた。
しかし「農林10号」の子孫たちが、2倍、3倍の小麦を生み
出して、食糧危機を回避したのである。これは「グリーン・レ
ボリューション(緑の革命)」と呼ばれ、その功労者としてボ
ーログ博士は1970(昭和45)年にノーベル平和賞を受賞した。
■9.一つの「ゆめ」が世界を変えていった■
昭和56(1981)年、日本育種学会の大会にボーログ博士と権
次郎が招かれて、それぞれ講演を行った。ボーログ博士は67
歳、権次郎は84歳であった。権次郎はボーログ博士に地元の
銘菓「水芭蕉」と、次の昭和天皇御製を送った。
水きよき池のほとりにわがゆめのかないたるかもみずばせ
う(水芭蕉)さく
権次郎の生まれ故郷に近い縄ヶ池に自生する水芭蕉の大群生
を、昭和天皇が詠まれたお歌である。品種改良によって人々を
救いたいという権次郎の「ゆめ」も、多くの人々の努力を通じ
て実現したのである。
この対面から7年後の昭和63(1988)年、91歳の権次郎は
亡くなる直前に残した回顧録の中で、次のように述べている。
農林10号は、さまざまな出会いを重ねながら世界の小
麦を変えていった。
種子と種子と、そして種子と人との出会いのなかで--
それは一粒の種子がもつ限りない可能性を実証しつつ世界
をかけめぐり、世界を変えていったのです。農林10号の
物語には、壮大なロマンを感ぜずにはおられないのです。
[1,p267]
この「種子」を「ゆめ」という言葉に替えても良いだろう。
一つの「ゆめ」が多くの人々との出会いを通じて、世界をかけ
めぐり、世界を変えていったのである。
(文責:伊勢雅臣)
3時間前
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唐沢 裕 内海 聡
最近フォロワーが増えたせいか、信者と呼ばれる人たちが増えているそうです♪。だれが信者かの定義も大事ではありますが、たしかにそういう人が増えているとすればとっても悲しい(うれしい?)限りです♪。医者の中で信用できる人です!なんてことを書こうものなら、ポン六のイヤミが飛んでくるのは当然といえば当然でしょう♪。
別にヒルズの味方ではないのですが、ニンゲン氏ね、大人氏ねといっている医者に信用できるなどという言葉をぶつけること自体、誤解甚だしいとしか言えません♪。私の診察風景とか見たことある人いるのでしょうか?愛などというものは実際まったく存在していません♪。徹底的に軽蔑し罵倒してばかりいるのです、診察を経験したことある人ならわかるでしょう♪。
別に日々書いている皮肉であれ軽蔑であれ、それははっぱかけているとかそういう問題ではなく本心なのですよ♪。ボクは心の底からニンゲンを憎み大人を憎んでいます。助けを求めてきたところで純粋に助ける気持ちなど微塵もありません。それでもこの医者という仕事をしているのは、本来の目的に近づくのに都合がいいので利用しているだけであり、医者としての皆さんが想像するような本懐を遂げたいためではありません♪。
常々言っていますが、私が助けるのは真の意味で本気になって依存から抜け出そうとするニンゲンのみであり、口ばっかりの嘘つきたちには興味ありません。しかしどこまでいってもニンゲンは嘘つきであり偽善者でありそれ以上でもそれ以下でもないのです。真の意味で本気になり依存から抜け出した人々だけが、この地球にとっては価値のある人々になります。それはあたかもマトリックスの世界から抜け出した人々のようになれるかもしれません。
医学不要論が医学を不要とするための論理であるとするならば、このFBやツイッターやその他多くの場所で述べていることは、まさに「人間不要論」であるということです。ボクはあなた方の味方など必要としていません。ボクはあなた方のことを本気でクズだと思っています。あなた方が人のことをどうこう言う暇があるのなら、まず自分で行動してせめて人と同じくらいの結果を出してください。どんなきれいごとを述べようがなにしようが、影響が出ない事柄になど興味はありません。あなた方はほとんど誰にも影響を与えてはいないはずです。
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堀田 佳宏 唐沢裕さん、良い話を、台無しに、するコメントは、理解できません?
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