2013年10月4日金曜日

シナ(支那)を「中国」と呼んではいけない三つの理由  その 3

シナ(支那)を「中国」と呼んではいけない三つの理由  その 3 http://www.tamacom.com/~shigio/defend/chinaischina-j.html 5.なぜ日本人にシナと呼ばれると都合が悪いのか 打ち砕かれた古い中華秩序 さて19世紀末、日本は日清戦争(1894-1895)で清国を破り、 清の属国であった朝鮮を独立させました。 中国王朝を名乗る清が、 もう一つの中国・日本に屈伏し、属国を独立させられたことは、 古い中華秩序が打ち砕かれた象徴的な出来事と言えるでしょう。 しかし日本と清の関係は悪化しませんでした。 清朝の故国である満州は日清戦争の後ロシアに占領されていましたが、 日本は1904年の日露戦争を戦ってロシアを追い出し、清の手に取り戻しました。 さらに日本は満州の地にインフラを築き、治安を守り、産業を発展させました。 この頃からおびただしい数のシナ人が満州に移住してきました。 一方清は、日本の明治維新を手本にして強力な立憲君主制の国になろうとして、大量の留学生を 日本に送りました。今日のシナで、社会科学分野の語彙の7割が日本起源と言われるのはそのためです。 シナの独立と乗っ取り 当時シナ人は清の中で満州人の支配下にありましたが、 日本への留学生らを中心として民族独立運動が起こり、 辛亥革命(1911)によって独立を勝ち取りました。 ところが彼らは中華民国を建国(1912)すると、「五族共和」という事を言い始め、 清朝の支配領域すべてを引き継ぐと宣言しました。 下の地図は清朝の支配領域の全体を表したものです。 いわゆるシナとは「漢族」と書かれた領域 を指します。 清朝の領土を引き継ぐという事は、シナ人の領土だけではなく、 満州、モンゴル、ウイグル、チベットの各民族の領土すべてを自分の支配領域にするということです。 辛亥革命は元々シナ人の民族独立運動だったはずなのに、 いつのまにかシナ人による他民族の支配という別の目的に切り替わっていたのでした。 例えて言うと、強盗団に捕まっていた人質の一人が自由の身になったとたん、 「強盗団の財宝も人質もすべてを自分のものだ」と主張し始めたようなものです。 「中国」の意味の変更による侵略の正当化 その時に戦略的に使われたのが「中国」という言葉です。 元々「中国」とは自国を表す尊称に過ぎなかったのですが、 この頃から支那と同じく、領土や国家を表す固有名詞として使われるようになりました。 しかも清朝の領土を引き継ぐと宣言することで、 かつて一度もシナの領土でなかった広大な領域を「中国」と呼んだのでした。 具体的に言うとこうなります。 支那 = 漢族の領土 中国 = 漢族の領土+満州族の領土+モンゴル族の領土+ウイグル族の領土+チベット族の領土 つまり、他民族の領土にまで「中国」という名前の覆いをかけて、すべて自分の国ということにしたわけです。 もちろん他民族の同意を得た訳ではありません。 この頃からシナ人は日本に対して「支那と呼ぶな」と言って来るようになります。 結局第二次大戦後、シナは満州国をまんまと自分のものにし、 日本が多額の投資をした満州の産業をも手に入れました。 しかしそれまで満州は、歴史上ただの一度もシナの支配下になったことはありませんでした。 それなのに満州国の建国を助けた日本は、いつのまにか「中国を侵略した」ということにされています。 その後シナは、モンゴル人(一部は独立)、ウイグル人、チベット人に対する侵略、抑圧、虐殺を繰り返し、 それらの地域に大量のシナ人を流入させて「民族浄化」を行っています。 シナ政府はこれらの地域で起きていることをひた隠しにしてきましたが、 次第に世界の人々も、そこで何が起きているかに気づき始めました。 シナ政府は世界からの批判に対して、「内政干渉だ」と言って反発しています。 本来これらの国々は、清朝が倒れた時に満州国のように独立するべきでした。 シナを「中国」と呼ぶことは侵略の手助け 私達がシナをシナと呼ぶ時は、シナ人が満州、モンゴル、ウイグル、チベットの各民族の領土を 侵略している実態が浮き彫りになります。 反対にシナを「中国」と呼ぶ時は、シナ人による他民族の支配を正当化し、 侵略を積極的に手助けしていることになります。 これがシナを「中国」と呼んではいけない 三つ目の理由 です。 https://fbcdn-sphotos-d-a.akamaihd.net/hphotos-ak-prn1/p480x480/1379558_397710407022938_835113453_n.jpg

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